57 ブラック・クーガー その3
ブラック・クーガーはゆっくりと立ち上がり、頭を振るう。
私もまだキンキンと耳の奥が響いている。人間よりも聴覚が優れているブラック・クーガーだ。落雷による爆発音で聴覚を痛めたのだろう。
だが、私の閃光魔力弾で痛めた視力は戻っているようだ。遠くにいるアナでなく、私の方を向いて睨んでいる。まぁ、無理もない。屋外であり、真横で弾けた魔力弾だ。大したダメージは受けていない。
力、俊敏性、耐久性と全ての身体能力は私よりも上。猫科の魔物なので、聴覚も臭覚も鋭い。痛めた視力も回復している。
聴覚が駄目になっているとはいえ、私に勝ち目はない。
だが、このまま逃げても、追いつかれ食い殺されるのは一目瞭然。
わずかな希望にかけて、やるしかない。
私は、レイピアを構え、睨むようにブラック・クーガーと対峙する。
ブラック・クーガーは身を低くし、お尻を上げて、尻尾を団扇のように振り回す。
私から動くか、それとも迎え撃つか……。
レイピアを構えたは良いが、どうすれば良いのか分からない。
私がやれる事は、レイピアで突く、斬る、避ける、閃光魔力弾ぐらいしか選択しがない。
レベルも実力も経験も足りない私が、成り行きに任せて対処できるだろうか。
今まで以上に不安の渦に飲み込まれそうになった時、ブラック・クーガーの尻尾がピタリと止まった。
来る!?
そう思った瞬間、地面を削るようにブラック・クーガーが駆け出す。
二十メートルほど離れていたブラック・クーガーは、瞬く間に距離を縮める。
レイピアで攻撃するか、それとも避けるか?
一直線に迫りくるブラック・クーガー。私を格下と見下しいるのか、右へ左へとランダムに移動をしない。
それならと、左手に魔力を集め、前回と同じように閃光魔力弾で視力を奪う事にする。
左手を突き出し、魔力弾を放つ瞬間、しなやかな筋肉を膨張させたブラック・クーガーはさらに速度を上げた。
間に合わない!?
―――― 屈む ――――
「――ッ!?」
男とも女ともつかない無機質な声が頭の中に響く。
私がすぐに声の通りに屈むと同時に、鋭い牙を剥き出しにしたブラック・クーガーが飛びかかった。
ブラック・クーガーの巨体が頭上を通り過ぎる。
―――― 左へ転がる ――――
「くっ!?」
屈んだ状態から言われた通りに左側へと転がると、着地したブラック・クーガーが振り向きざま、爪を伸ばした右腕を切り裂くように鋭く振り払う。だが、すでに私は転がっていた為、ブラック・クーガーの右腕は空振りして、その勢いでゴロンと転がった。
私はすぐに立ち上がり、レイピアをブラック・クーガーに向ける。
ブラック・クーガーも素早く立ち上がり、腰を低くしながら唸り声を上げた。
「はぁ、はぁ……」
ブラック・クーガーの攻撃を二回避けただけなのに、息が上がる。
ブラック・クーガーは私を中心に回転するように移動しながら、私を睨み続ける。
いつ襲ってきても良いように、ブラック・クーガーから目を離さずにいるが、恐怖で手が震えて、思うようにレイピアが握れない。
―――― 左後方へ回避 ――――
急いで左後ろへ飛び退くと、跳躍したブラック・クーガーが空中で爪を伸ばした右腕を振るう。
―――― 攻撃 ――――
空中で剛腕を空振るブラック・クーガーにレイピアを上から叩き斬るが、硬い皮膚の上で刃が止まり、ダメージすら与えられない。
……いや、違う。
直接、レイピアを叩きつけた時に伝わった感覚で分かった。
皮膚が硬いのでなく、これは黒い毛よって遮られている。
ブラック・クーガーの体毛は、冒険者でいう武器だ。
武器は魔力を流す事で力を発揮する。
攻撃力を上げる、速度を上げる、耐久力を上げる、その他付加価値が付く。
そういう特殊効果が付くのが武器だ。
ブラック・クーガーは体毛に魔力を流す事で、アナの魔法を砕いたり、レイピアの攻撃を止める程の防御力を得ていると判断した。
だから、攻撃力も魔力も少ない鉄等級や鋼鉄等級の冒険者では歯が立たないのだろう。
そうなると鉄等級冒険者である私では逆立ちしても叶わない。……と諦めかけたが、私にはもう一つ能力がある事を思い出した。
筋肉ダルマ戦で開花した能力。
それは……
『レジスト』
相手の魔法や魔術を解除する能力。
それを使えば、ブラック・クーガーの体毛が魔力で強化されていると仮定すれば、流れる魔力を無力化して突き刺す事も可能だろう。
そして、レイピアがブラック・クーガーの胴体に突き刺されば、私の案は完成する。
そう、レジストして、突き刺さればの話だ。
―――― 左へ回避 ――――
頭に響く『啓示』の声に従い、左へ逃げるとブラック・クーガーの右腕が唸る。
―――― 右へ回避 ――――
右へ逃げると、ブラック・クーガーの左腕が唸る。
―――― 屈む ――――
急いで伏せると、ブラック・クーガーが跳躍する。
―――― 前方へ転がる ――――
前転すると、空中で体を捻り、私が元いた場所へドスンと着地した。
ひっきりなしに『啓示』の助言が流れる。
私はその頭に流れる声だけに集中して体を動かす。
猫じゃらしで遊ぶ猫のように、私を中心にブラック・クーガーは右へ左へ攻撃したり、ジャンプしたりして、息を切らす事もなく動き回っている。
猫じゃらしと化した私にとっては、閃光魔力弾は勿論、レジストする為にレイピアに魔力を流す時間もなく、必死に体を動かしては避け続けている。
ブラック・クーガーの攻撃は、爪による剛腕と鋭い牙の二種類。その二種類の攻撃を、素早い動きで襲ってくる。その攻撃を一回でも受ければアウトだ。
『啓示』の助言がなければ、すでに生きていなかっただろう。
―――― 屈む ――――
―――― 左へ回避 ――――
―――― 大きく後退 ――――
―――― その場で跳躍 ――――
今まで一戦闘に一回しか起こらなかった『啓示』が、休みなく頭に流れる。
それだけ危険な状況なのだろう。
この『啓示』の凄い事は、私の判断力を予測して声が流れる事だ。
低レベルの私では、声が聞こえたと同時に動く事は無理。元々、頭の回転は良くない私である。声が聞こえた後、内容を理解し、体を動かすまで、若干の時間が掛かる。
それを見越して、タイミング良く『啓示』の声が流れる。
そのおかげで、ブラック・クーガーの猛攻を何とか躱しきれている。
だが、それも時間の問題であった。
泥濘に足を持っていかれ、態勢を崩してしまった。
そう、体力と集中力の問題。
ただの女子高生で、低レベルの私だ。
極度の緊張と不安の中での戦闘。
体力と集中力など、あっと言う間に切れてしまう。
足をもつれた私にブラック・クーガーは、すぐに覆いかぶさるように飛びかかってきた。
このどうしようもない状況で、来てほしい『啓示』の助言がこない所をみるに、どうにもならない状況だと理解し、絶望が襲う。
ああ、ここまでか……。
諦めた心情で、迫りくるブラック・クーガーの牙を見つめていると……。
「『風槌』!」
アナの叫び事と同時に、飛びかかってきたブラック・クーガーの横腹に風の塊がぶつかる。
風の塊は、ブラック・クーガーの黒い毛に当たると同時に砕け散って塵と化すが、ぶつかった衝撃でブラック・クーガーの体が逸れた。
―――― 大きく後退 ――――
「……ッ!?」
啓示の声が聞こえ、急いで体を動かすが……体が思うように動かない。
目の前に着地したブラック・クーガーはすぐに左腕を薙ぎ払う。
「痛ッ!?」
ブラック・クーガーの鋭く伸びた爪が皮鎧を紙のように切り裂き、私の脇腹を抉った。
左手で切り裂かれた脇腹を押さえ、痛みに耐える。
手の隙間から血が滲みだし、雨で流されていく。
過呼吸と脇腹の痛みで視界が歪む。
ユラユラと力の入らない足で、ゆっくりと後退し、ブラック・クーガーから距離を取る。
ブラック・クーガーは私の状態を観察するように睨んでいる。
脇腹の傷は浅い。偽物の筋肉を削られただけだ。
だが、私はただの女子高生。
痛みも流血も慣れていない。
軽傷だが、それだけで心が折れそうだ。
「お、おじ様!?」
遠くで私の合図を待っているアナの心配する声が届く。
「だ、大丈夫……ア、アナは待機を……」
痩せ我慢でアナに返答する。
体がついていけない私は、もう啓示の言う通りに逃げ回る事は無理だろう。
次で勝負するしかない。
雨でグズグズに柔らかくなった地面に立ち止まる。
体を低くしながら、ブラック・クーガーは私の方に近づいてくる。
脇腹を押さえている左手に魔力を集める。
何で私はこんな酷い目に遭っているのだろう。
何度も死にかけて、痛い思いをして、これから死ぬかもしれない。
本当にこの世界が夢ならば、早く覚めて欲しい。
こんなにも痛いんだ。
いつ覚めて可笑しくないよね。
まったく……。
こんな状況なのに、私はフッと笑ってしまった。
それを合図にブラック・クーガーが駆け出す。
鋭い爪で私を抑え込み、喉を噛み千切り、生きたまま食い殺す為に走ってくる。
「本当、嫌になる。まったく……」
私は呟くように愚痴ると、左手を突き出し、魔力弾を放った。
光り輝く魔力弾は、避る事もしないブラック・クーガーの顔に直撃し、強い閃光が迸る。
閃光魔力弾をもろに浴びたブラック・クーガーは、少しだけ足を緩めただけで、そのまま私に向かって駆け出してきた。
「ちっ!?」
視力が無くなったんだから、少しは立ち止まってよ!
魔力を流し切れていないレイピアを、迫りくるブラック・クーガーに突き付けた。
狙いは口の中。
牙を剥き出しに向かってくるブラック・クーガーの口を目掛けてレイピアを突くが、集中力の無い突きの為、ブラック・クーガーの首元へ当たり、黒い体毛で止まってしまった。
「うわっ!?」
ブラック・クーガーが両腕を伸ばし私に覆いかぶさる。
両手の爪が皮鎧ごと胸に突き刺さり、そのまま体重をかけられ、ブラック・クーガーごと後ろへ倒れてしまった。
「おじ様!?」
アナの叫び声が聞こえるが、返事をする余裕はない。
鋭い爪が大胸筋に穴を開け、抉られ、血が流れ出る。
焼けるような痛みが胸の傷を中心に全身へと広がる。
痛みで声すら出ない。
「『風槌』! 『風槌』! 『風槌』!」
アナが魔法でブラック・クーガーを私から退かそうとするが、ビクともしない。
ブラック・クーガーが牙を剥き出しにして、私の顔を目掛けて迫りくる。
反射運動で左手が動き、顔を守る。
「痛ぁぁーーッ!」
左手の拳がブラック・クーガーに噛まれた。
上下の牙で拳の肉は裂かれ、顎の力で骨が砕かれていく。
このままでは噛み千切られ、左手が無くなってしまう。
砕かれた骨ごと筋肉を引き裂きながら、力任せに左手を引き抜いた。
「――ッ!?」
もう全身が痛いんだから左手ぐらいと安易に思って行動したが、今まで以上に痛くて、涙が溢れ出てきた。
引き抜いた左手は原型を留めておらず、裂かれた筋肉の隙間から白い骨が見える。その白い骨も流れ出す血で見えなくなった。
胸は穴を開けられ、左手は潰された。
体重を掛けて押し倒されているので、脱出する事も体を動かく事もできない。
唯一動くのは、右手だけ。
レイピアを握っている右手だ。
激痛で意識が飛びそうになるのを何とか繋ぎ留め、レイピアに魔力を流し込んでいく。
もう少しで、レジスト付きのレイピアが完成する。
それを喰らわしてやる。
私の左手を駄目にしたんだ。
今度は私がお前の命を貰ってやる!
牙を剥き出しにしたブラック・クーガーは、私の顔目掛けて襲う。
ちょっと、まだ早い!? まだ、魔力が流し切れていないのに!
私は急いでレイピアの剣身を顔の真横へ持っていき、大口を開けたブラック・クーガーの口の端にぶつけて勢いを止めた。
「うおおぉぉーー!」
ブラック・クーガーの力が強く、押し潰されていく。
血まみれの左腕をレイピアの剣身に添えて、両手の力で押し返す。
「ガフッ、ガフッ、ガフッ!」
ブラック・クーガーの牙が目の前で止まるが、歯噛みは止まらない。
ズタボロになっている左手の拳から血が滴り、顔を濡らし、血液が目に入り、視界が滲んでいく。
刃先側ではないとはいえ、左腕がレイピアの刃で沈んでいき、うっ血してきた。
左手の痛みで力が抜ける。
ブラック・クーガーの牙が襲う。
「くッ!」
急いで顔を逸らすと、ブラック・クーガーの顔が真横に突っ込んだ。
ブラック・クーガーの臭い息と恐怖の唸り声、さらに私の顔をかみ砕こうと歯噛みする音が耳元に聞こえる。
ブラック・クーガーが力を抜いて離れた。
まだ、魔力が溜まっていないが……仕方がない。
このままその大きな口の中にレイピアを突き刺してやる。
「喰らえ!」
私はレイピアを正面に突き出し、ブラック・クーガーの口へと腕を伸ばす。
「……なっ!?」
ブラック・クーガーは顔を逸らし、レイピアの剣先を躱した。
ブラック・クーガーと目が合う。
視力が回復していた。
伸ばした腕を戻して、再度、突きをする時間はない。その前に襲われてしまう。
絶望に染まった私にブラック・クーガーの牙が襲う。
「『風壁』!」
ガツンとブラック・クーガーの頭が空中で止まる。
私とブラック・クーガーの間に、アナが放った風の壁が出来ていた。
その風の壁もすぐに壊れるだろう。
だが、その少しの時間があれば良い。
私は急いで右手を戻し、ブラック・クーガーの口目掛けてレイピアを突き出した。
風の壁が壊れると同時に、私のレイピアはブラック・クーガーの口の中へと入る。
口の奥へ入ったレイピアはブスリと鈍い感触を伴い、動きを止めた。
ちょっと、口の中も硬いの!?
ただ、腕を伸ばしただけの突きだけど、口の中で刺せば脳みそぐらい到着すると思っていたが、剣先の先っぽがめり込んだぐらいで止まってしまった。
危機感を持ったブラック・クーガーは私の体を押さえていた両腕を退け、顔を逸らし、口に突っ込まれているレイピアを抜こうとした。
私は痛む左手をブラック・クーガーの首に回し、抱き付くようにしがみ付く。
折角、レイピアを口の中に突っ込んたんだ。このチャンスを逃がすと後はない。
逃がしてたまるか!
暴れるブラック・クーガーに必死でしがみ付き、右手に持っているレイピアに魔力をありったけ流し込む。
レイピアの剣先が輝き出すと、ズブズブと徐々にブラック・クーガーの口の奥へと突き刺さっていく。
私を振り払おうとブラック・クーガーが大暴れするのを、腕だけでなく両足もブラック・クーガーの体に回して、必死にしがみ付く。
恥も外聞もない。後先も考えていない。無我夢中でしがみ付き、レイピアを押し込んでいく。
ズブズブとレイピアが口内へと進む。
「うらぁぁーー!」
肉を裂き、脳みそを破壊し、頭蓋骨を壊し、体毛をレジストして、レイピアの剣先は外へと出た。
レイピアの鍔は完全にブラック・クーガーの口の中へと納まった。
ブラック・クーガーが大きく痙攣した衝撃で、私の体は弾き飛ばされ、雨で柔らかくなった土の上へ落ちた。
変な態勢で落ちた為、上手く呼吸が出来ず、体が思うように動かない。
こんな状況で襲われたらお終いだ。
咳き込みながらゆっくりと顔を上げて、ブラック・クーガーの様子を見る。
口から頭にかけてレイピアが突き刺さったブラック・クーガーは、震える足で立っていた。レイピアの鍔で口が閉まらず、口の端から血に染まった涎が垂れている。
そのブラック・クーガーの瞳はまだ光があり、私を睨んでいた。
ゾンビだって脳みそを破壊すれば倒れるのに、何てしぶとさだ。
ユラユラと揺れながらブラック・クーガーは私の方へゆっくりと近づいてくる。
呼吸も上手く出来ず、体もいう事を利かない私は、それを眺める事しか出来ない。
体力ゼロ、腕力ゼロ、集中力ゼロ、気力ゼロ。
もう何も出来ない。
でも、それで良い。
私がやりたかった事は完遂しているのだから……。
頭上で雷の音が鳴り始める。
「風の精霊よ、我の言葉を聞き届けたまえ!」
アナの詠唱が聞こえる。
声が出せないのでアナに合図を送れなかったが、私がやりたかった事を理解したアナは独見で魔法の詠唱を始めた。
大粒の雨が降り注ぎ、泥と血で塗れた体を洗い流してくれる。
頭上の雷雲から膨大なエネルギーを感じる音が鳴り続ける。
「天駆ける精霊よ、黒雲を集積し乱れ踊れ!」
ユラユラと近づくブラック・クーガー。
頭には、レイピアがアンテナの様に立っている。
まるで避雷針のように……。
「全てを貫く光の槍を、我に代わり敵を穿て!」
アナの詠唱が完成する。
私は痛む手で耳を塞ぎ、目を閉じた。
「『雷槍ッ』!」
私のすぐそばに雷が落ちた。
アケミおじさん、ボロボロになってしまいました。
痛々しいです。
ちなみに、次の話で第一部は終わります。




