56 ブラック・クーガー その2
作戦が決まれば、あとは行動あるのみ。
今にも逃げ出したい衝動を抑え、ブラック・クーガーに気づかれないように、林の中をゆっくりと移動する。
ブラック・クーガーは魔物とはいえ猫科の生き物。聴覚と臭覚は恐ろしく良いはず。
そんな魔物が今まで私たちに気づかないのは、風向きのおかげだろう。
生暖かい風がブラック・クーガーから私たちへ吹いている。つまり、風下という事で私の体臭はブラック・クーガーには届かない。
また、それなりに風が吹いており草木がガサガサと音を立てているので、私たちの移動する音も消してくれる。
木々の隙間から厚い雲が空一面に広がっているのを見ると、いつ雨が降ってもおかしくない。
雨で濡れる前に、何とか逃げ出したいものである。
ネズミのようにコソコソと移動した私たちは無事に馬場の裏手側に移動できた。
今の所、ブラック・クーガーは私たちの存在に気が付いておらず、地面に穴を掘って、食べた鶏の死骸を埋めている。
熊のように保存食にして、後で掘り起こして、食べるのだろうか?
「クロ、シロ、こっちに来て」
ブラック・クーガーの存在に一歩も動けないでいたクロとシロをアナが小声で呼ぶ。
耳をピンと立てたクロたちは、体の向きを変え、ゆっくりと私たちの元へ歩いてくる。
鳴き声も上げずに静かにアナの元へ向かうクロたちに感心する。空気の読める馬だ。いや、クロとシロの耳がブラック・クーガーの方へ向いているのを見ると、彼らも怖いのだろう。
「良い子だね。大丈夫だからね」
私たちの元まで来たクロとシロにアナは首すじを撫でて、安心させる。
「おじ様、クロに乗ってください」
事前に話し合った通り、私はクロの背中に乗って逃げる事になっている。
乗馬が出来ない私はクロに乗った後、先頭を走るシロの後ろをクロが勝手に走ってくれるそうだ。
私はただ落馬しないようにしがみ付いていれば良い。
馬場の中に入ったアナは、鞍も手綱も鐙もない状態にも関わらず、慣れたようにシロの背中に飛び乗る。
鐙があっても一人で上手く乗れない私は、柵を足場にして立ち上がる。そして、クロの鬣を掴んで、背中に飛び乗ろうとした時、足場にしていた柵の一部が音を立てて、壊れた。
バキッと乾いた音が響く。
足場の柵が壊れたが、何とか無事にクロの背中に乗った私はすぐさま後ろを振り向く。
真っ黒な魔物と目があった。
ブラック・クーガーとの距離は離れているにも関わらず、ブラック・クーガーの大きな瞳に捉えられ、体が硬直してしまい、何をすればいいのか分からず、頭が真っ白になる。
「おじ様、逃げます!」
大きな声で叫んだアナは、シロの腹を蹴って、馬場の中を駆け出した。
そうだ! 私も逃げなければ!
アナの声で真っ白だった意識を取り戻した私は急いでクロの腹を蹴った。
シロの後を追うようにクロも駆け出す。
私は落ちないようにクロの首にしがみ付く。
馬場の泥濘んだ泥を蹴り上げながら、速度を上げていく。
「柵を飛び越えます!」
アナが叫ぶと同時に、馬場を囲んでいる木製の柵をシロが危なげなく飛び越えた。
クロから落ちないようにしがみ付く事で一杯一杯だった私は、アナの忠告を瞬時に理解できずにいた。その所為で、シロに続いてクロが柵を飛び越えた時、急な浮遊感に驚いた私はクロにしがみ付いていた力を緩めてしまい、柵を乗り越えると同時にクロから落馬してしまった。
馬場の中に落ちた私は、色々な物が混じり合った土の上へ背中から転げ落ちる。
「うぐッ!?」
土に落ちた衝撃で息が止まる。
「おじ様!?」
私の落馬に気が付いたアナがシロから飛び降りる。
「ア、アナ……逃げて……」
まともに息が出来ない私は、アナに逃げるように言葉を発するが、思うように喋れない。
シロの尻を叩いて林の奥へ逃がしたアナは、馬場の中へ入り、倒れている私の前に飛び出した。
馬場の奥から真っ黒の毛を靡かせながら、私たちに向かってくるブラック・クーガーが目に入る。
「風を集え、刃へ変われ――『空刃』!」
精霊に語ったアナは右手を横に振ると、風の刃がブラック・クーガーに向けて飛び出す。
ホーンラビットの首を易々と斬り落とした風の刃をブラック・クーガーは避けようともしない。
それもそのはず、アナの放った風の刃は、ブラック・クーガーの体に当たると、ガラスが割れるように粉々になり、塵へと変わった。
ダメージは一切ない。
動きも止まらない。
「もう一度! 『空刃』!」
再度、アナが風の刃を放つが、ブラック・クーガーの体に当たると砕けてしまう。
アナの魔法では傷一つ付ける事が出来ない事を分かっているブラック・クーガーは速度を落とす事もなく、私たちに向かってくる。
爪を立てながら地面を抉り、空気を切り裂くように猛スピードで迫ってくる。
「今度は……」
私を守るように立つアナが風の刃とは別の魔法を使うが、人間ボウリングでもする勢いのブラック・クーガーの方が速い。
私が痛む体を立たせ、魔法を詠唱をしていたアナに覆いかぶさるように体当たりするのとブラック・クーガーが飛びかかるのと同時だった。
私の背中を通り過ぎたブラック・クーガーは、そのまま勢いを止める事も出来ず、柵に体をぶつけ、木片をまき散らしながら転がって止まる。
すくっと立ち上がったブラック・クーガーを見るにダメージは無さそうだ。
今にも走り出そうとするブラック・クーガーに、私は倒れた状態で右手を突き出す。
体中の魔力を右手に集め、走り出したブラック・クーガーに向けて魔力の弾を放つ。
私の魔力弾も大した事がないと踏んだブラック・クーガーは避ける事もせず、魔力弾ごと突っ込んでくる。
確かに私の魔力弾に威力はない。
しかし……。
「ギャウン!?」
そう、私の魔力弾に威力は無いが、強い光を放つ閃光弾だ。
普通の猫のような鳴き声を上げたブラック・クーガーは、魔力弾の強い光に視力をやられ、錐揉み状に倒れ、土を巻きながら苦しんでいる。
「アナ、今のうちに逃げるよ!」
私の腕の中で一緒に倒れているアナに一言言ってから、クロとシロがいる方へ顔を向ける。
……あっれー?
林の奥の方にゴマ粒サイズまで離れているクロとシロの姿が見える。
危険だからって離れ過ぎじゃない。
猫科だからか、魔物だからか分からないが、ブラック・クーガーの視力は既に回復しつつある。
今からクロとシロを呼びつけるなり、私たちが向かうなりしても、視力を回復したブラック・クーガーから逃げる事は難しそうだ。
「おじ様、厩舎へ逃げましょう!」
アナがすぐ近くにある木造の建物を指差す。
私たちはすぐに立ち上がり、厩舎へ走り出した。
恐怖で足が竦みそうになっていて上手く走れない。
アナも同じようで、地面の泥濘に足を取られてバランスを崩したりと足に力が入っていない。
後ろから猛烈な恐怖の塊が追いかけてくるのが分かる。
私たちは後ろを振り返らず、震える足を前に出し、息が切れても走り続けた。
すぐ後ろからブラック・クーガーの息遣いと足音がする。
呼吸すら忘れ、目の前が真っ白になる。
あと数歩で厩舎だ。
アナが厩舎の中へ入ると同時に右側へ飛んだ。
私もアナの真似をして厩舎へ入ると同時に左側へ飛び、鞍などが置いてある棚にぶつかりながら勢いを止める。
すぐ後ろを追いかけてきたブラック・クーガーは、勢いを殺せず、厩舎の奥に積まれていた寝藁の束にぶつかる。厩舎の中が爆弾がはじけたように藁屑が舞い散った。
「おじ様、外へ!」
アナが外へ飛び出すと、厩舎の扉をスライドさせて閉め始めた。
棚にぶつかった痛みを無視して、急いで外へ出る。
アナとは別の扉に手を突き、横へと力を入れてスライドさせる。
扉の溝に砂や泥が入り込み、スムーズに閉まらない。
藁屑が舞う厩舎の奥からブラック・クーガーの姿が見えた。
閉まる扉に気が付いたブラック・クーガーは走り出す。
「うおおぉぉーー!」
力の限り扉を引く。
ズズズっと扉が動き、アナが閉めた扉とくっ付く瞬間、ブラック・クーガーの頭が飛び出した。
「ギャウン!?」
扉と扉に首が挟まったブラック・クーガーは、牙を剥き出しにして暴れ出す。
しなやかな体をしているのに凄い力だ。今にも扉と一緒に弾かれそうだ。
ブラック・クーガーが外へと飛び出さないように、足に力を入れて抵抗する。
ただ、私の低レベルの力では限界がある。息も上がっているし、体中が痛い。
足元の土がズルズルと滑り、力が抜けていく。
「おじ様、もう少し頑張って!」
片方の扉にストッパーを掛けたアナが建物に立て掛けてあった材木を掴む。
そして、扉に挟まれたブラック・クーガーの頭目掛けて振った。
「これでも喰らえ!」
バーンと良い音を響かせ、ブラック・クーガーの鼻面に材木をぶつける。
ブラック・クーガーは可愛い鳴き声を響かせ、厩舎の中へ押し込まれた。
力一杯押し込んでいた扉は無事に閉まる。
アナは持っていた材木で扉の閂に噛ませ、ブラック・クーガーを厩舎へ閉じ込めた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
私とアナは両手で膝を突き、肩で息を吸っている。
今にも地面に倒れてしまいたい。
恐怖の状態で体を動かす事がこれほど辛いとは……。
体も痛いが、それ以上に精神的に疲れた。
「お、おじ様……はぁ、はぁ……ご、ごめんなさい……わ、私の魔法が弱くて……」
「アナが謝る事じゃない……はぁ、はぁ……そもそも私がクロから落ちなければ……はぁ……謝るのは私だよ……はぁ、はぁ……」
息も絶え絶えの状態で、お互いが謝る。
アナはまったく悪くない。寧ろ感謝しかない。
自分のミスでアナまで危険に晒されるとは……本当、自分の不甲斐なさが嫌になる。
ドンっと音が鳴り、厩舎が揺れた。
私とアナはビクリと驚き、厩舎を見る。
厩舎の中からガリガリと扉を引っ掻く音やガツンと体当たりする音が響く。
ブラック・クーガーは諦めていない。むしろ出る気満々である。
ブラック・クーガーの力もあるが、厩舎の老朽化も上乗せして、建物全体がミシミシと悲鳴を上げている。
私とアナは息を飲み、扉を見ながらゆっくりと後退した。
「ア、アナ……もっと強い魔法は無いの?」
期待に満ちた声でアナに尋ねると、アナは空を見上げた。
「……あります!」
今にも雨が降りそうな空模様を眺めたアナは力強く宣言した。
「少し、詠唱に時間がかかります」
私は目を閉じて、大きく息を吐く。
今なら逃げられるかもしれない。
いや、すぐに扉が壊れブラック・クーガーが襲い掛かってくるかもしれない。
どうする?
戦うか……逃げるか……。
「…………」
私はもう一度、息を吐いてからアナの方を振り向いた。
「私が時間を稼ぐ。アナは少し離れた場所で魔法の詠唱を頼む」
私は決断する。
銅等級冒険者以上でないと討伐出来ない魔物と正面から戦う。
私は鉄等級冒険者、アナは鋼鉄等級冒険者。
ただ、嬲り殺されるだけかもしれない。
だが、逃げて追いつかれ食い殺されるなら、戦った方がマシだ。
エーリカと別れてから不安で仕方がない。
だからだろう。
エーリカがいなくてもやれるんだと証明したい。
無駄死にするかもしれないがやってやる。
私の覚悟を感じたアナは大きく頷き、私から離れる。
腰に差してあるレイピアを握り、鞘から引き抜く。
魔力を込めて、今にも破られそうな扉に剣先を向けた。
「風の精霊よ、我の言葉を聞き届けたまえ!」
離れた場所からアナの詠唱が始まる。
「天駆ける精霊よ、黒雲を集積し乱れ踊れ!」
両手を広げて精霊に呼びかけるアナを中心に、上空の雲が集まりだす。
ポツポツと雨が降り始めた。
ドン、ドンと厩舎の内側から衝撃が走り、扉に亀裂が浮かび上がる。
私は厩舎の中にいるブラック・クーガーに集中する。
右手にレイピア、左手に魔力を集める。
馬場を中心に集まり出した雲から大粒の雨が降り注ぎ、地面の土に染み込んでいく。
一際大きな衝撃音と共にブラック・クーガーが飛び出してきた。
雨に濡れた泥を跳ね上げながら、低い姿勢で迫りくる。
逃げ出したくなる衝動を抑え、左手を突き出し、魔力弾を放つ。
光を帯びた魔力弾はブラック・クーガーに一直線に飛んでいくが、ブラック・クーガーはすぐに横へと飛んで、私の魔力弾を回避した。
一発目で痛い目を見たので、回避する事を学んだようだ。
だが、所詮は犬畜生。猫だけど……。
回避するだけで、人間のように目を瞑るとか、手で覆う事はしない。
ブラック・クーガーの横を通り過ぎた魔力弾はすぐに地面に当たり、強い光をまき散らしながら破裂した。
真横で破裂した魔力弾の光はブラック・クーガーの目を焼く。
動きを止めたブラック・クーガーに向かって駆け出す。
泥で足が滑りそうになりながらブラック・クーガーの近くまで走り、勢いのままレイピアをブラック・クーガーの胴体に突き刺した。
ガツンと壁を突いたような衝撃が腕に伝わる。
先の細いレイピアの剣先は、ブラック・クーガーの胴体で止まっている。
見た目に反して、何て硬い体だ。もっと魔力を流さないと刺さらないかもしれない。
私がレイピアに魔力を流そうと力を入れたら、それを感じ取ったブラック・クーガーは、私の腕ほどもある前足を振り払い、体に密着しているレイピアを弾いた。
その衝撃で、私は地面に倒れる。
ブラック・クーガーは鼻をクンクンと鳴らすと、すぐに倒れている私に向かって、爪の伸びた太い前足で襲ってきた。
「くっ!?」
私は転がるように横へ避けて難を逃れる。
まだブラック・クーガーの目は見えていない。それでも私の位置を把握されている。
鼻を突き付けてクンクンしているのを見ると、臭覚で私の位置を察しているのだろう。
そうなると私の作戦である目潰しで見えない相手をチクチクと攻撃する作戦が通用しないではないか。
ブラック・クーガーの速度と腕力は私よりも遙かに強い。さらに、レイピアが突き刺さらないほどの防御力。
これでは勝負にすらならない。
恐怖で体が硬くなっている私では、ブラック・クーガーの攻撃を一回か二回は避けられたとしても、後が続かないだろう。
今すぐ蹲って、泣きたくなる衝動に駆られる。
「おじ様、魔法が完成しました。離れてください!」
遠くにいるアナの叫び声を聞いた私は空を見上げた。
大粒の雨を降らす黒く染まった厚い雲からゴロゴロと音が鳴り始めている。
「全てを貫く光の槍を……」
私は急いでブラック・クーガーから離れた。
ブラック・クーガーは空の異変に気が付き、必死に鼻を動かし、状況を把握しようとしている。
「……我に代わり敵を穿て!」
厚く覆われた黒雲の周りに稲光が走る。
もしかして、私、凄く危険な場所にいない!?
ブラック・クーガーが地面に伏せるのを見て、私もドロドロに泥濘んだ地面に急いで伏せた。
「『雷槍』!」
辺り一面真っ白の光に包まれると同時に、心臓が止まりそうな程の爆発音が鳴り響く。
耳がキーンと鳴り響く中、辺りを見回すと厩舎の屋根の出っ張りから煙が上がっている。
「外しました! もう一度、撃ちます! ――『雷槍!』
アナの叫び声を聞いた私は、身を伏せて、両手で耳を押さえた。
再度、光と共に爆発音が響く。
雷は馬場の近くの大木へ落ちた。雷の威力で大木は縦に裂け、煙を上げている。
そんな大木を見て私は背筋を凍らせた。
「すみません、また、外しました! 今度こそ!」
「アナ、駄目だ! その魔法は不味い! 詠唱を止めて!」
アナの詠唱を私は叫んで止める。
魔法や魔術を知らない私であるが、この『雷槍』という魔法は自然の雷をただ落とすだけの魔法だと予想した。
風の精霊に雲を集めさせ、小規模の雷雲を作らせる。そして、合図と共に雷を地面に落とす魔法だ。
魔法や魔術で人口的に作られた雷なら狙い通りの場所に放つ事は可能だろう。
だが、アナが作り出したのは自然の雷。
雷は高い場所へ落ちる。
動物の勘なのか、雷の性質を知っていたのか分からないが、ブラック・クーガーは雷に打たれまいと地面に伏せている。
そんなブラック・クーガーよりも高い物が周りにある状況で、ブラック・クーガーだけ狙い撃ちする事は無理がある。
私に雷が直撃する可能性だってあるだろう。
地面も体も雨で濡れている。直撃でなくても、近くに雷が落ちれば感電する恐れもある。
魔法や魔術で作られた雷の威力は分からないが、自然に発生した雷の威力は一・二一ジゴワットもあり、未来や過去へタイムトラベルする事が出来る威力だ。
そんなのが産毛すらない私の頭に直撃すれば、未来や過去でなく、あの世へトラベルする事だろう。
今の状況では私自身にも危険な魔法である。
だが……。
「アナ、私に案がある。私が合図したら、さっきの魔法を撃てるように用意しておいて」
私の意図が分からないアナだったが、私の言葉を信じ、大きく頷いた。
今のままでは雷をブラック・クーガーに当てるのは難しい。なら、当たりやすいようにすれば良い。
そう思い、私はある案が思い浮かんだ。
上手く出来るか分からない。
だが、やるしかない。
私は大きく息を吐くと、ブラック・クーガーにレイピアを向けて対峙する。
さて、化け猫退治の時間だ。
ブラック・クーガー戦が始まりました。
今回は、アケミおじさんとアナのコンビです。
無事に乗り切れるか。




