255 迷いの森 その2
若く瑞々しい大木は見当たらず、どれも老人の手のような老木が立ち並んでいる。
高く聳えている老木もあれば、根っ子が剥がれ斜めに倒れている老木もある。
どの老木にも複数の枝が曲がりくねり、お互いを複雑に絡み合って一つの生き物のように見えた。
空は老木の葉によって太陽の光は遮られ、昼だというのに薄暗く、空気が重い。
地面は浮き出た血管のように太い根が盛り上がり、その間に落ち葉が溜まっている。注意して歩かなければ、足を取らて転んでしまうだろう。
まるで生き物の腹の中にいる錯覚を覚える森の中、私たちは立ち尽くしていた。
「どっちに向かえば、外に出られると思う?」
ぐるりと周りを見回した私は、ヴェンデルとサシャに問いかける。
「どっちも何も来た方向に戻ったら、ここに出たんだ。この森では方向など意味がない!」
不安を払い除けるようにサシャが吐き捨てるように言う。
「サシャ、怖いのは分かるが、八つ当たりはするな。まずは落ち着け」
ヴェンデルが嗜めると、サシャは「すまない」と呟き、ゆっくりと深呼吸をした。
「とはいえ、この場で佇んでいても意味はない。まずは移動して様子をみよう」
山で遭難した場合、無闇に移動せず、その場で救助が来るまで待機するのが鉄則だが、ここは迷いの森だ。
下手に時間を潰し、心配になったエーリカたちが私たちを探しに森に入ったら、彼女たちも森に捕らわれてしまうだろう。
そうなる前に何としても私たちだけで脱出したいものだ。
「移動するのは良いが、どっちに向かうんだ?」
「そうだな……」
サシャの質問にヴェンデルは周りを見回し、少し考える。
四方八方、老木に囲まれた薄暗い森の中だ。どっちに向かっても同じに思える。
「あっちの方が若干明るいな。あっちに行こう」
木漏れ日とまではいかないが、生い茂っている葉っぱの隙間から僅かに太陽の日差しが漏れている。
暗い場所よりも明るい方が気分が落ち着くもので、なるべく明るい場所に向けて進むのは同意できた。
「焦らず慎重に行くぞ」と盾を構えたヴェンデルを先頭にサシャ、私の順に歩き出す。
サシャは両手に短剣を握り、注意深く、周りを警戒しながら進む。
私もレイピアを握り、剥き出しの根っ子に足を取られないように注意しながら進んだ。
倒れた大木を迂回し、湿り気を帯びた落ち葉を踏みしめ、一言も話さず、私たちは森の中を歩く。
時折、鳥の鳴き声や獣の唸り声が風に乗って聞こえる。その都度、足を止めて、周りに注意する。
ここは魔物の巣窟だ。
いつ魔物と遭遇するか分からないし、何が切っ掛けで襲い掛かってくるか分からない。
今の所、魔物らしい魔物は見当たらないが、用心に越した事は無いだろう。
そう思った瞬間、背後でドサッと音がして、私たちの肩がビクッと上がる。
バッと振り返ると落ち葉の上に太い幹が落ちていた。
魔物でなく安堵する。
この森は魔物だけでなく、落下物にも気をつけなければいけないのか……。昨日買った帽子でも被ってこれば良かったな。
などと呑気な事を考えつつ、何気なく近くの老木に手を添えたら、ムニュとした感触が伝わった。
「えっ?」
ゴワゴワとした食感の筈なのに、今触っている感触は水風船のようである。さらに力を加えるとズブズブと入り込んでいく。
なに? と思い手を見ると、老木の樹皮にそっくりな粘液の塊が指と指の間に溢れ出ていた。
「スライムだ! すぐに離れろ!」
サシャの忠告も空しく、粘液の塊は指の間を通り抜け、凄い速さで腕を這ってくる。そして、私の顔にぶつかる瞬間、ブワッと広がった。
「……ッ!?」
割れた風船ガムのように広がったスライムが私の顔を覆う。
べったりとくっ付いたスライムの所為で息が出来ない。
口の中にスライムの一部が入り込み咽そうになるが、咳き込む事も出来ず、肺が痛くなる。
有り難い事に喉の奥までは入ってこないが、まったく呼吸が出来ず、一気に頭の中が白くなっていく。
両手でスライムを引き剥がそうとするが、スライムの肉体に指が入り込むだけで剥がす事が出来ない。
苦しくてバタバタと暴れるが、すぐに力尽き、地面に膝を付く。
ヤバイ……このままでは……。
久しぶりに味わう『死』という概念が頭を過ぎる。
「おっさん、顔を上げろ!」
スライム越しに短剣を持ったサシャが見える。
サシャは私の顔を持ち上げると短剣を振り落とした。
顔にへばり付いていたスライムがドロリと柔らかくなり、ベチョと簡単に剥がれる。
ゲハゲハッと新鮮な空気を吸い込みながら口の中に残っているスライムの残骸を吐き出す。
「ウッドスライムだ。おっさん、危うくスライムで窒息死する所だったな」
「こいつらは何処にでもいる。擬態も完璧で慣れた冒険者でもやられる事は良くある」
サシャとヴェンデルが私の肩を担ぎながら立たせてくれた。
「スライムは核を破壊しないと倒せない。だから、ナイフの一本は必ず持っていろ。そうすれば、顔にへばり付いても自分で殺せるぞ。まぁ、自分の顔も傷を付けちまう事があるがな」
「一人で行動しない。常に仲間と一緒にいる。あとは色々と触らない事だね。草木は勿論、岩も土も木にも隠れていたり、へばり付いていたりする。まぁ、スライムに限った話じゃないけどね」
サシャとヴェンデルから有り難い助言を聞きながら、私は顔にへばり付いているスライムの残骸を顔パックみたいに剥がしていく。
うー、気持ち悪い。
少し飲んじゃったけど、お腹の中で繁殖しないよね。
「……痛っ!?」
ようやく呼吸が整い掛けた時、サシャから呻き声が上がる。
サシャの肩には魚のサヨリやダツのようなものが刺さっていた。
「針鳥だ!」
「鳥? 魚じゃなくて、鳥なの!?」
「森の中に魚がいる訳ないだろ!」
肩に刺さっている針鳥を引き抜いたサシャは、叫ぶなり地面に叩き付けた。
「大丈夫なの?」
「痛いが我慢できる。それよりも目を守れ! 食われるぞ!」
針鳥と呼ばれる魔物は、銀色の羽毛で体は細長く、針のように細く尖った嘴が付いている。大きさは手の平サイズ。生き物の体液が好きらしく、特に目ん玉が大好物で、空から下降しては目に刺さり、そのままジュルジュルと潰れた中身を啜るらしい。
何それ!? 怖すぎる!
「まだまだ沢山いるぞ。僕の後ろに隠れろ!」
老木の幹の上を数十羽の銀色の針鳥が迂回している。
私とサシャは急いでヴェンデルの背後に回ると、針鳥は羽根を閉じ、足を伸ばして急降下してきた。
ヴェンデルは盾を右へ左へと動かして、針鳥を防ぐ。ダーツが刺さるようにガツガツと針鳥が盾にぶつかる。
ひぃー、鳥がぶつかる音じゃない!
「後ろからも来るかもしれん。木を背後に防ぐぞ」
盾に刺さった針鳥をショートソードで払い落したヴェンデルは、ズルズルと後退しながら針鳥の攻撃を防いでいく。
私とサシャは目元を覆いながらヴェンデルに合わせて、背後にある老木まで下がる。
「おっさん、スライムがいないか確認しろ」とサシャが注意しながらヴェンデルの隙間から石を投げて、針鳥にぶつけていた。驚きの命中率だ。
私は老木の樹皮をペタペタと触り、スライムが居ない事を確認するとレイピアを構えた。
私も光刃や光のカーテンで応戦しよう、とレイピアに魔力を流す。そして、サシャの横に移動しようとした時、左腕を引っ張られる。
「えっ!?」と思うのも束の間、左右から無数の茶色の枝が伸びてきて、私の体に絡まりだす。抵抗する間もなくグルグル巻きにされ、老木に引き寄せられ幹に固定されてしまった。
スライムは居なかったが、生きた老木がいた!
ジグソウのヘッドギア型トラバサミのように口元も覆われ、助け声も上げられない。
何とか両足をバタバタとさせる事は出来るが、針鳥に集中しているヴェンデルとサシャには気付いてもらえない。
グイグイと締め付けられ、どんどん痛みが強くなる。このままでは圧迫されて死んでしまう。
ただ運の良い事にレイピアは握ったまま。
メキメキと筋肉と骨が軋む痛みに顔を顰めながら、レイピアに魔力を流していく。
レイピアが光り輝きスパークが流れ出すと、軽く腕を動かしただけで刀身に絡まっていた枝が斬れた。
そして、自由になった腕を持ち上げ、頭の上の老木にレイピアを付き刺した。
「~~~~」と老木から声無き声が聞こえる。
私はそのまま魔力を流しながらズブズブとレイピアを押し込んでいくと、体中に絡まっていた枝が緩み、脱出する事ができた。
老木は力尽きたようにダラリと枝を垂らして項垂れている。
私が地面に倒れ、咳き込んだ事で、ヴェンデルとサシャがようやく私の状態に気が付いた。
「襲われていたのか!?」
「どこもかしこも魔物だらけって事か!」
「クソッ」と吐き捨てたサシャは、私に向けて下降してきた針鳥を短剣の刃先で防いでくれた。
「木に囲まれた場所は不味い。もっと開けた場所まで逃げよう」
「逃げるって、どうやって? 後ろを見せたら鳥どもに刺されまくるぞ!」
木々が生い茂っている場所から遠ざかるのは賛成だ。だが、未だに四方八方から襲い掛かる針鳥が邪魔で逃げるに逃げられない。
それならと、私は右手に魔力を集めた。
「私が動きを止める。目を瞑って!」
一度、体験した事のあるヴェンデルとサシャは盾の裏に隠れるように身を縮め、目を閉じた。
そんな二人を見てから私は針鳥が集まっている個所に光の弾を放つ。
決して速くない光の弾を針鳥たちは余裕で避ける。
だが、老木の枝に当たって弾けた閃光で視界をやられ、バタバタと針鳥たちが地面に落ちていった。
それだけでなく、薄暗い森の中に広がった閃光で周りに生えていた老木の枝がバサバサと動き、葉っぱや木の実と共に雑多な虫がパラパラと落ちてきた。
無論、私の体の上にもゲジゲジやナナフシみたいな気持ち悪い虫が落ちてきて、「ひぃー」と情けない声を上げてしまった。
「良くやった。今の内に離れるぞ!」
体中をバタバタと叩いている私をヴェンデルが腕を掴んで引っ張り、走り出す。
「なぁ、ヴェンデル、この森の木ってエントなのか? 俺、初めて見たぞ」
私の後ろを走るサシャが先頭を走るヴェンデルに声を掛けた。
元々エントは、某小説に登場する木の姿をした巨人の事を差す。ただ、幾多のゲームなどでは木の魔物を称してエントと呼ばれている。
この世界にもエントという言葉は広がっており、木の魔物を差すそうだ。
どうなっているんだろうね?
「僕も初めてだ。ただ、話に聞くエントは、根を足代わりに自走すると聞いた。さらに言葉も話すらしい。そう考えると別の魔物かもしれん」
「いや、エントの子供かもしれない。俺たちの周りにエントを見た冒険者はいない。帰ったら自慢できるぞ」
エントの子供って……すでに老木な姿なので、エントに成る頃には朽ち果てているのではなかろうか。
「自慢できるか分からんが、無事に森から抜け出せたらの話だ」
なるべく老木から離れた場所を走る。
私たちを捕まえようと枝が伸びてくるのは勿論、根っ子が盛り上がり足を引っかける恐れがあるからだ。
だから、なるべく平坦な道を走る。だが、そんな道だというのに、前方を走っていたヴェンデルがこけた。
すぐ後ろを走っていた私は倒れたヴェンデルを踏んずけて一緒に倒れてしまった。
「おい、何やっているんだ!?」
急停止したサシャから文句が出る。
「地面から急に根が出てきたんだ……って、不味い!? 捕まった!」
墓から現れるゾンビの手のように、枯れ葉の下からモコモコと老木の根っ子が飛び出してくる。その一本がヴェンデルの体に巻き付いた。
それを合図に老木から「グルルルゥ……」という鳴き声が聞こえ出した。
「リスの魔物まで出てきたぞ」
老木に空いている穴からゾロゾロと出て来たのは、黒毛に茶色が混じった拳大ほどのリスだった。ただ、大きいだけのリスではなく、なぜか背中にナイフのようなものが生えている。
なんて危ないリスなんだ。
「また、私の目潰しで動きを止めるわ」
すぐに立ち上がった私は右手に魔力を溜めるが、サシャが私たちを守るように立ち塞がる。
「いや、おっさんはヴェンデルを助けてくれ。リスどもは俺が何とかする」
私は言われた通り、レイピアに魔力を溜めて、ヴェンデルに絡まっている枝を斬っていく。
リスたちは、老木を滑るように駆け下りるとサシャに向けて地面を駆け出す。
そんなリスを眺めながらサシャは小物入れを手に突っ込むと、ゾロゾロと向かってくるリスの群れに小瓶を投げつけた。
ババババンッと薄暗い森の中で爆発音が鳴り響く。
サシャが投げた小瓶が割れると同時に爆竹のような爆発がリスたちを襲う。
目の前で爆発を受けたリスたちは、回れ右をして逃げていった。
「火薬でも使ったの?」
「なんだそれ? ただ威嚇音のする魔法道具だ。大銅貨四枚で買える」
爆竹のような魔法道具が大銅貨四枚。安いのか高いのか分からないが、リスたちが逃げていったのをみるに効果はあったようだ。
「くそ、感づかれた。逃げるぞ!」
訂正。すぐに威嚇だけと分かったリスたちが、再度、回れ右して、私たちに向かって来た。
倒れていたヴェンデルを起こすとサシャが走る。私とヴェンデルも遅れまいとサシャの背中を追うように走る出す。
それにしても、この世界に来てから私は良く追い掛けられる。
ベアボアから始まり、ゴブリンと蟻に続き、今ではリスにまで追いかけられている。
体力がない上に体が重いので走るのは苦手だ。
それでも死にたくないので、言葉通り死に物狂いで走り続ける。
先頭を走るサシャが「根が飛び出たぞ」と時折りジャンプをして注意をしてくれる。
私はサシャの動きを真似るように走り続けが、すぐに息が上がり、足が震え出し始めた。
このままでは体力が無くなり倒れるだろう。
「おっさん、この先が明るいぞ。出口かもしれん。頑張れ!」
ゼエゼエと息を切らしている私に向けてサシャが奮起してくれる。
「サシャ、この道は大丈夫なのか? 道が狭まいぞ」
私の後ろを走るヴェンデルの言う通り、左右の地面が盛り上がり、今では土塁のように狭まっている。そして、目の前には木々に覆われたトンネルのようになっていた。
とはいえ、サシャの言う通り、トンネルの先は明るいので、そこを通り抜ければ森を脱出できるかもしれない。
「まだ、リスどもが追い掛けてくる。このまま突き進む。それ以外にない」
サシャが速度を上げたので、私も気力を振り絞り、足を動かす。
リスたちの足音を聞きながら私たちは、老木に囲まれ枝や葉っぱで覆われた天然のトンネルに入った。
ズボズボと違和感を感じながらトンネルの中間まで進むと……。
「……うわっ!?」
足が動かなくなり、倒れそうになった。
前を走っていたサシャも後ろを走っていたヴェンデルも同じだ。
老木の枝に捕らわれた訳ではない。
足の裏がべったりとくっ付いて、剥がれないのだ。
「おいおい、もしかして……」
サシャが不安そうな声を零す。
息の上がった私は、膝に手を付いて、息も絶え絶えに周りを見回す。
薄暗いトンネルの内部は黄白色をした線が辺り一面に付着していた。
無論、地面にも……。
「ここは……蜘蛛の巣だ」
後ろにいるヴェンデルから唾を飲み込む音が聞こえる。
トンネル内部に張り巡らされている黄白色をした線は、蜘蛛の糸だった。
私たちは、蜘蛛の巣に捕らわれてしまったようだ。




