205 蟻の襲来 その2
腕や体が千切られた兵士と囚人の死体が転がっている。
顔や体に蟻酸を掛けられた囚人は、焼け爛れた皮膚や筋肉を押さえながら痛みで苦しんでいた。
地面や壁に叩き付けられた囚人は、鋭い突起に貫かれて死んでしまった者もいる。命が助かった者も血を流し、骨が折れて、動けないでいた。
止めどなく鼻血を流している者、地面を跳ねるように痙攣を起こしている者、不規則な呼吸を繰り返す者と、これから死が訪れる怪我人も多数いた。
キルガーアントにとって、私たちを殺す事はただの作業なのだろう。まだいる仲間の蟻たちの為に、餌を量産する行為である。
魔力を封じられ、魔法や魔術が使えず、武器も扱えない私たち囚人にとって、自然界で生きていける程、強くはなかった。
家畜が屠殺されるように食糧にされてしまう存在なのだ。
仲間だった囚人が次々と死んでいく光景。
蟻の餌になるだけの存在価値。
無力な自分。
それを間に当たりにした私は、衝撃を受け、動けないでいる。
今まで沢山のホラー映画を見てきた。戦争映画も見た。パニック映画もマフィア映画もアクション映画も数えきれないほど見た。
沢山の人間が、意味のなく無残に死んでいく様を画面越しで見てきた。
そんな物は偽物だった。
現実と作り物は違う。
それを目の前の光景で理解をした。
この異世界に来てから何度も死に掛けた。その都度、恐怖を感じた。
今も『死』という未知なる恐怖に当てられている。
仲間の囚人たちが無残に死んでいく中、ただの女子高生の私には、『死』を振り払う勇気は持ち合わせいなかった。
『死』を与えるキルガーアントに立ち向かう事も、怪我をした仲間を助ける事も、命を掛けて逃げる事も出来ないでいる。
この死と恐怖に支配された場所から抜け出したい。
それだけが望みだ。
だが、その生き抜く為には、キルガーアントが陣取っている隙間をすり抜ける必要があるのだが……。
私は、チラリと反対の通路の奥……キルガーアントが来た道を見た。
「奥、駄目。蟻、一匹じゃない。死にに行くようなもの」
いつの間にか、オルガが私の横に来て同じ様に通路の奥に視線を向けている。
オルガの顔は蟻酸の所為で茶色だった肌が赤く爛れて痛々しい顔になっていた。右目を瞑ったままなので、もしかしたら失明しているのかもしれない。
そんなオルガは、「怪我、ないか?」と手を差し伸べてきた。
どうも私が怪我をして動けないと勘違いしているようだ。
私の心配よりも自分の心配をして!
オルガの爛れた顔を見ると、こっちまで痛くなる。
そんな心優しいオルガの手を取り、私は「大丈夫」と空元気で立ち上がった。
「オルガの方が酷い事になっているけど……大丈夫?」
「目、開かない。でも、動ける。痛いだけ」
そう言うと、オルガはキルガーアントの方に視線を向けた。
「今の所、あいつ、一匹。他の蟻、来る前に、何とかする。それ以外、ない」
「何とかって……どうやって?」
「分からない……でも、する。オルガ、生きたい」
オルガは私の顔をチラリと見ると、大きな岩を持ち上げてキルガーアントに駆け出していった。
オルガの瞳には、「お前はどうするんだ?」と語っていた気がする。
私はどうするだって?
そんなの決まっている。
私も生きたい!
泣き崩れてもいい。喚き散らしてもいい。震えてもいい。漏らしてもいい。
惨めに這いつくばって、何が何でも生き残りたい。
こんな場所で死にたくない。
私には帰る場所がある。
必ず、戻って来ると約束した。
彼女たちを悲しませたくない。
そして……
元の世界に戻って、『ケモ耳ファンタジアⅡ』をやるんだ!
人間とは単純な生き物らしく、目標が出来ただけで、恐怖で強張っていた体が動けるようになった。いや、私が単純なだけかな?
ただ、どうすればこの状況から生き残れるのだろうか?
私は、見た目詐欺のただの女子高生だ。
力も弱く、体力もない。
その辺に転がっている岩や木材を持って、キルガーアントと戦っても速攻でやられてしまうだろう。
逃げるにしても、通路の奥は他のキルガーアントがいるとオルガから注意された。第二横坑に通じる隙間から逃げるしかないが、体の大きな私ではキルガーアントの目を盗んで逃げる事は無理だろう。
うーん……やっぱり、無理そうだ。
―――― 魔力を循環させようねー ――――
再度、諦めかけた時、頭の中に声が響いた。
久しぶりに聞いた『啓示』の声に何だかほっとする。
『啓示』がどんな存在で、どうして私の頭の中に助言をしてくれるのかは分からないが、いつもどこかで見守ってくれていると思うと安心感が湧いてくる。
今回も『啓示』の言葉に従えば何とかなるかもしれない。
ただ言葉足らずで、いまいち『啓示』の意図が読めないのが難点だが……。
えーと……ルドガーと拳闘した時みたいに体がぶれる『幻身』もどきでキルガーアントの攻撃を躱し、その隙に隙間に入って逃げるって事かな?
―――― 違いまーす ――――
あらら、違ったみたい。
やはり、『啓示』の考えは良く分からない。
―――― 拘束を解除 ――――
拘束?
私は毛が生えている腕を見る。
兵士に掛けられた束縛魔術の事だろうか?
両手首には、視認できない魔術が掛かっている。その為、自由に魔力を使う事は出来ないでいた。
だが、私にはその魔術を解除する術がある。
つまり、魔力が自由になった状態で戦えという事ですか?
―――― はい ――――
私にあの蟻を倒せるんですか?
―――― ………… ――――
返事がない。
もし倒せたとして、その後、兵士たちに変な事されませんか?
―――― ………… ――――
やはり、返事がない。
滅茶苦茶、不安だ。
だが、迷っている暇はない。
今も囚人たちはキルガーアントに立ち向かい、人数を減らされている。
私も生きたい。
だから、やるべき事をしよう。
後の事は後で考えればいい。
私は、血管を流れる血液を意識するように、体中に魔力を巡回させていく。
手枷のような束縛魔術が青く光り出す。
手首を中心に拒絶するような抵抗を感じるが、逆に押し返す感じで魔力を流し込んだ。
束縛魔術の光が徐々に強くなる。
それでも流し続けると限界を迎えたように束縛魔術が弾け飛んだ。
塵のように消えていった束縛魔術を眺めながら、ふぅーと溜め息を吐く。
予想よりも簡単に壊れてくれた。
それでこの後はどうするの?
武器もない、攻撃魔術もない、レベルも低い私だよ。魔力が自由になったからって、あの硬くて大きいキルガーアントに太刀打ちできるとは思えないのだけど……。
「し、新人! お前、何をした!?」
私の近くにいたドワーフが、大量の髭に隠れた小さな瞳を丸くしている。
「手枷を壊したのか!?」
「え、えーと……」
詰め寄るようにドワーフが近づいてきたので、つい吃ってしまい答える事が出来ない。
「どうやって!? いや、今はいい。それよりも魔力を使えるんだな!?」
「え、ええ……」
「それなら時間を稼げ!」
「時間?」
「早くしろ!」
そう言うなり私から離れたドワーフは、地面に座って何かをし始めた。
状況が良く分からないが、言われた通りにした方が良さそうだ。
今まで怖くて近づけなかったキルガーアントに体を向ける。
兵士と囚人の死体に視線を向けず、怪我をした囚人の唸り声に耳を傾けず、内臓と肉片と血に染まった地面を駆けて、キルガーアントの近くまで行く。
ドワーフに時間を稼げと言われた私は、腕を伸ばして、自由になった魔力を右手に集めた。
視力を焼き尽くす強い光を想像する。いつものあれである。
蟻は視力が良いとどこかで聞いた事がある。ただ、光源の一切ない洞窟にいた蟻なので、目が退化しているかもしれない。
駄目元だ。私に出来る事など数えるぐらいしかないのだ。
「みんな、目を瞑って!」
叫ぶと同時にキルガーアントに向けて光の魔力弾を放つ。
触角をピクリと動いたキルガーアントは、素早い動きで側面の壁に張り付いて魔力弾を躱した。
だが、そこは私の魔力弾。殺傷能力ゼロの閃光を放つだけの魔力弾は、キルガーアントのすぐ横の壁にぶつかると、薄暗い洞窟内を照らした。
瞳を閉じた瞼越しでも目の奥に突き刺さる強い光を感じ、顔を顰める。
ドスンッと音が響く。
瞳を開けると、壁に張り付いていたキルガーアントが地面に倒れ、細長い六本の脚をバタつかせていた。
良し! ちゃんと視力にダメージを与えられた!
尚、数人の囚人もキルガーアントのように地面に倒れ、顔を覆いながら呻いていた。
人の言葉を聞かなかったのが悪い。尊い犠牲という事で勘弁してくれ。
「さすが俺を苦しめた技だ! お前たち、今の内に叩くぞ!」
目をシパシパさせているブラッカスは、子分たちを引き連れて倒れているキルガーアントの腹部を中心に攻撃を始めた。
腰を落としたブラッカスが拳を振る。子分四人組は、岩やハンマー、角材で叩く。だが、どんなに攻撃しても腹部の弾力に返されてしまう。
決定打がない。
視力を奪っても、硬い殻や弾力のある腹にダメージを与える手段が無い限り、キルガーアントを倒す事は出来ない。
それなら……。
「今の内に怪我人を外に運んで!」
ダメージを与える事が出来ないなら逃げるしかない。
私の言葉に従うように、数人の囚人が怪我で動けない囚人を引きずるようにキルガーアントの横をすり抜けて、隙間に入っていく。
その中にオルガもいて、背中に一人、両脇に二人の囚人を抱えて、隙間に向かった。
私はキルガーアントの視力が戻ってもいいように、右手に魔力を溜めておく。
それはすぐに訪れた。
触角をピクピクと動かしているキルガーアントがむくりと立ち上がる。
「ちっ、もう回復しやがった!」
悔しそうに舌打ちするブラッカスと子分たちが距離を取る。
「もう一度、撃つ!」
私は叫ぶと同時に光の魔力弾をキルガーアントに向けて放つ。
魔力弾は、キルガーアントの頭に命中し、閃光が迸る。
これでまた時間が稼げると思ったが、キルガーアントは一瞬だけグラつくと、すぐに体勢を立て直し、長い触角をピクピクとさせながら私に向けて突進してきた。
「うわっ!?」
急いで横に飛んで、キルガーアントの突進を躱す。
すぐ横を巨大なキルガーアントが通り過ぎ、柱の一つにぶつかって止まった。
私は凹凸の激しい地面をゴロゴロと転がり、顔を顰める。
痛む体に鞭を打って、急いで柱の影に隠れた。
キルガーアントは、のしのしと私のすぐ横を通り過ぎながら、元の場所である隙間に戻っていった。
確実に私の姿を見ているのに気づかずに通り過ぎた辺り、キルガーアントの視力は戻っていないようである。つまり先程の攻撃は、触角の働きで襲ってきたのだろう。
昆虫の触角は、優れた感覚器官である。
温度、臭い、音、振動と色々な情報を頭に付いている長い触角で得ている。
私の光の魔力弾で視力を奪っても、触角で私たちの位置を把握できるようだ。
「こっちだ、クソ蟻! 俺たちを踏み潰してみろ!」
ブラッカスと子分たちが地面や壁を叩いて、キルガーアントを挑発する。
触角を動かしたキルガーアントは、すぐさまブラッカスたちの方へ突進した。
「来た来た来たー……今だ、逃げろっ!」
キルガーアントがぶつかる瞬間、ブラッカスたちは横へと飛んで避ける。
ドゴンッと凄い音を響かせながらキルガーアントは壁へとぶつかった。
なるほど、自分たちを囮にして自爆を誘っているのか。
ただ……。
「ブラッカス、駄目だ! 洞窟が壊れる!」
キルガーアントが壁にぶつかった衝撃で湧水を止めていた補強柱が外れ、水が流れ出した。もし、このまま同じ事を繰り返したら、壁に大穴が空き、地下水が洪水のように襲ってくるだろう。
私は、ブラッカスの行為を止める為に大声を上げると、私の声に反応してキルガーアントが凄い速さで迫ってきた。
うわー、こっちに来た!?
急いで回避しようと体を動かしたら、片足がズボッと沈んだ。
地面に空いている穴に落ちてしまったようだ。
足が抜けない! 逃げられない!
鋭い顎を突き出したキルガーアントが目の前に迫る。
ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ぶつかる!
駄目だ! と思い、地面に身を屈めると私の腕を誰かが掴んだ。そして、大きな蕪を引き抜くみたいに力強く引っ張られた。
ズボッと窪地から片足が抜け、そのまま横に倒れる。
間髪を容れずにキルガーアントが凄い速さで通り過ぎていった。そして、キルガーアントは、一本の柱を破壊すると、そのまま奥の通路まで行ってしまった。
バラバラに崩れた柱を見て、心臓が止まりそうになる。
あんなのにぶつかったら、体がバラバラになっていただろう。
「おい、大丈夫か?」
私を助けてくれたのは、時間を稼げと言ったドワーフだった。
「あ、ありがとう……危うくジクソーパズルになる所だった」
「訳が分からんが、無事なら良い」
素直に感謝を述べると、ドワーフは分厚い手で私を立たせてくれた。
「ほれ、待たせたな。これで蟻をぶった斬ってやれ」
ニヤリと笑ったドワーフは、私にある物を渡した。
それは……。
「……スコップ?」
ドワーフから貰った物は、土を掘るスコップだった。




