173 事故 その1
休憩の終わった囚人たちが、ぞろぞろと元いた作業場へ戻っていく。
私もハンスの後を追うように最奥の切羽へ戻ってきた。
「さっき言った通り、今度は俺が中に入る。お前は入り口で待機し、合図があったらソリを回収しろ」
うんうん、分かっているよ。さっきやったからね。
「あとは、これだ」
ハンスは、二枚の長方形の板に蛇腹に折り畳まれた皮布が挟まった道具を渡してきた。
一目見て、ふいごの一種だと察する。
二枚の板を上下に動かし、広げたり縮めたりする事で空気を送り出す道具だ。
これで狭い穴の中に空気を送り込むのだろう。
「これを使って空気を流し込み続けろ。他事に気を取られ、空気を流し忘れたりするなよ。絶対だからな。いいな」
死活問題の為、ハンスはしつこく言ってくる。
私を嫌っているとはいえ、人に物を頼むときは、上から目線で頼まないでほしい。心の広い私でもムカッとして、三十秒に一回だけ空気を送って、酸欠で苦しませてやろうかと思ってしまう。まぁ、やらないけどね。
なんやかんや言ってもハンスは、私が穴の中に入っても律儀に空気を送ってくれていた。
やるべき事はやる。ただ、それだけだ。
作業に慣れたハンスは、スススッと穴の中に入っていった。それに合わせて、ソリに取り付けられている縄の束がシュルシュルと穴の中に入っていく。
私は、ふいごの様な道具を穴の中に突っ込み、取っ手を掴み、上下に動かした。
シュゴシュゴと先端から空気が送られる音が鳴る。
うーむ……これは地味に大変だ。
決して、力が必要ではない作業であるが、非常に単調で飽きてくる。
しばらく、地面に座ってシュゴシュゴとしていると縄の動きが止まった。
ハンスが先端の壁に辿り着いたのだろう。
私と違って、とても速い。さすが経験者。まったく、悔しくないけど……。
私は、いつでも合図が分かるように縄をピンと張り直してから通風機を動かし続けた。
………………
…………
……
腕がだるい。
何度も何度も数えきれない程、ふいごの様な通風機を動かして空気を入れているので、腕が疲れてきた。
足でやっちゃおうかと思い、板の表面を見たら、思いっきり足跡が付いている。
うわー、ハンスも足を使ってるじゃない!
卑怯者めー!
……と心の中で悪態を付くが、別に足を使ってはいけないとは言われていなかった事を思い出す。
私は心置きなく地面に通風機を置いて、黄色いフットポンプみたいにシュコシュコと空気を入れていく。
これはこれで大変なので、右足、左足、両腕と落ち着きなく体勢を変えながら空気を送っていると、ピンと張った縄がグイグイと動いているのに気が付いた。
私は、急いで縄を掴み、重たくなったソリを歯を食いしばりながら、ズリズリと引っ張り出していく。
滅茶苦茶、重たーい!
壁に両足をついて体全体で縄を引っ張り続けると、土や石で山盛りになったソリが横穴から出てきた。
荒い呼吸を吐きながら、ソリに乗せられた廃石を作業場の一部に設けてある廃棄場所に捨てていく。
あまりのんびりと廃石の処理をしていると、ハンスが酸欠になってしまう。
空気を送って、ソリを動かし、排石を捨てる。
やる前は楽な作業だと思っていたが、これはこれで大変だ。
暑くジメジメした環境で休みなく体を動かしているので、作業内容以上に疲れる。
私はフラフラになりながらソリを空にする。そして、ハンスに縄で合図を送ると、ズルズルとソリが穴の中に戻っていった。
気だるく立っているのが辛くなった私は、ドカッと地面に座り、再度、通風機を使ってシュゴシュゴと空気を送り始めるのだった。
………………
…………
……
作業を始めて、一時間ぐらい経っただろうか?
太陽さえ拝めない薄暗い坑道内では、時間の感覚がまったく分からない。
その所為で、単調作業をしていると時間が長く感じる。
今の私は通風機で風を送り続けるか、ハンスが掘った廃石を片付けるぐらいしかない。
坑道内の環境と通風機の作業で体はだるいし、単調作業で飽きているしで、今の私の思考は深淵の奥底へと沈み始めている。何も考えず、ただ体を動かしてシュゴシュゴと空気を送り続けるロボットのようになっていた。
そんな虚無感マックスの私は、頭の上に何かが降り掛かっている事に、すぐに気が付かなかった。
気が付いたのは、頭が痒くて、ボリボリと指で掻こうとした時である。
なぜか頭の上がザラザラとしているのだ。
あれ、何で頭に砂が?
ツルリとした私の頭の上に砂が積もっている。
不思議に思い、頭上を見上げると、天井からパラパラと砂が舞い落ち、目に入りそうになった。
山の中にいるので砂が降ってくる事はあるだろう。だけど、あまりにも降り過ぎで小雨のようになっていた。
坑道内では、これも普通の現象なのかな?
炭鉱初心者の私には判断できない現象だが、何となく不安が募り、周りを見回す。
私同様、他の囚人たちも気が付いたようで騒ぎ始めていた。
「何でこんなにも砂塵が落ちてくるんだ?」
「痛ッ!? 小石まで降ってきたぞ!」
「おいおい、これって、もしかして……」
「崩落しないか?」
「崩落」と言う言葉が耳に入った瞬間、心臓の鼓動が大きく跳ね上がる。
作業現場は一気に緊張に包まれた。
えーと……もしかして、天井が崩れるの?
こんな暑くてジメジメした真っ暗な岩と土だらけの場所で死ぬかもしれないの?
死が間近に迫っている事を理解した私は、頭の中が真っ白に染まり、目の焦点が合わなくなる。
「お前たち、退避だ! 早く移動しろ!」
危険な状況を理解した兵士の叫び声が雑音交じりになった耳に届く。
すぐに外に逃げなければ!
恐怖と不安に支配されている私は、出口に向けて足を動かそうとした時、手に握っていた通風機を見て、ハッと動きを止めた。
今、ハンスが穴の中にいるんだった!
自分の命とハンスの命を天秤に掛けるが、すぐに首を振って、ピンと張った縄をグイグイと強く引っ張った。
私を嫌っているハンスであるが見捨てる事は出来ない。
彼は、今日の私の相方だ。
「おい、ハンスッ! 今すぐ戻って!」
私は、喉が潰れるかと思えるほどの大声を穴の中に響かせる。
目を閉じて、穴の中の様子を伺うが変化はない。
もう一度、縄を引っ張ると、逆にグイグイと引っ張られた。その縄の引き方で、何となくだがハンスが怒っている雰囲気を感じた。
もしかしたら、余計な事をするなと怒り、崩落するかもしれないこの状況を理解していないのかもしれない。
私はしつこく縄を引いて、何度も穴に向けて声を掛けるが、やはり変化はない。逆に穴の奥の方からカンカンと岩を叩く音が僅かに聞こえた。
天井はすでに小石交じるの砂がパラパラと降り始めている。
二人の兵士は、「逃げろ、逃げろ!」と叫ぶだけ。
他の囚人は、別の穴に入っている囚人を呼び戻している。
私は、どうしようかと思い悩む事一瞬……。
「ああん、もう!」
……滑るように穴の中に潜り込み、ズリズリと匍匐前進をしながら奥に入っていった。
奥に行けば行くほど、岩を叩く音が強くなってくる。
途中で何度も暗闇の奥に声を掛けるが、岩を叩く音にかき消され、ハンスまで届かない。
私は入りたくもない横穴をがむしゃらに突き進む。
いつ崩れるか分からない恐怖と不安を押し潰して進む。
そして、半分以上行った所で縄をグイと引っ張り、暗闇の奥に向けて大声を響かせた。
「ハンスッ! 聞こえるか! 作業を止めろ!」
「お前、いい加減にしろ! 休憩時間は終わっているんだから俺を呼び戻すな!」
ようやく、暗闇の奥からハンスの返事がきた。
「馬鹿! この音が聞こえないの!」
「音だと!?」
そこでハンスは、作業を止めて黙る。
私も声をあげるのを止めて静かにする。
体を包み込む壁や天井からズズズとか、ゴゴゴという音が地中から響いていた。
休憩前に穴の中で聞いた時よりも大きな音がしている。さらに、僅かであるが地面から振動までしていた。
「地鳴りか? ちょっと、大きくないか?」
「ちょっとじゃない! 崩落するかもしれないんだ!」
「崩落だと!?」
「そう! みんな、退避している。今すぐ穴から出るよ!」
「それを早く言え!」
「聞かなかっただろ!」
ようやく、事態を把握したハンスは、出口に戻る決意をした。
やる事をやった私は、すぐに足の方からズルズルと後退していく。
前進するよりも後退する方が大変で、思うように戻れない。
途中、壁や天井を補強している支保に体が引っ掛かり、もたついてしまう。
そんな私に近づくように、地鳴りの音が大きくなってくる。
どんどん近づいてくる地鳴りと、真っ暗な空間と、思うように動けない体の所為で、私は恐怖で混乱してしまった。
あわあわと四方の壁をペタペタと触りまくったり、足をバタバタとする奇行に走る。
真っ直ぐ後退すればいいだけなのだが、なぜか足の裏が壁になっていて移動する事が出来ない。
手先も見えない暗闇一色の場所の所為で、前も後ろも分からなくなっていた。
「うわわぁぁーー!?」
恐怖に潰されそうになった私は、無意味に叫び声をあげる。
「どこ、どこ、出口は……痛ッ!?」
混乱した私の横顔に衝撃が走った。
「遅せーよ、気付かずに蹴っちまったじゃねーか!」
もたついていた所為で、奥にいたハンスが追いついてきた。
そして、横顔を蹴られたおかげで、少し斜めにずれていたのが分かった。
急いで位置を直して、出口に向けて後退し始める。
「痛い、痛い、蹴らないで!」
ズリズリと地面を擦りながら移動していると、前にいるハンスの足が顔に当たる。
「早くしろ! 音がデカくなってきた!」
ハンスの言う通り、地中に響く音がどんどん大きくなっていく。
私よりも移動が速いハンスにゲシゲシと蹴られながら、がむしゃらに両手両足を動かす。
四方八方から地鳴りが響く。
頭すれすれの天井からパラパラと砂が零れている。
「早く、行け! 早く、早く!」
「焦らすな!」
はぁはぁと呼吸を荒くなり、酸欠で頭がクラクラしてくる。
それでも無我夢中で移動した事で、真っ暗だった空間に僅かに明かりがさし込んできた。
ようやく、出口だ。
「もうすぐだ! 行け、行け!」
「足で顔を押さないで! 逆に進まん!」
グイグイと私の顔を押すハンスの足を掴む。
その瞬間、地面が大きく揺れ、獣の雄叫びのような音がすぐ真上から響いた。
「――ッ!?」
ドドドッと上から何かが落ちてきて、体全体を押し潰された。
あまりの重さに息が止まり、身動きが一切できない。
一瞬、何が起きたのか理解できないでいた。
だが、ゴツゴツとした石とザラザラとした砂の感触で、最悪の事態に遭ってしまったと理解した。
天井が崩落。
もうすぐで出口だというのに私とハンスは間に合わず、狭い穴の中で土に埋もれてしまった。




