167 拳闘 その3
高温多湿で薄暗い坑道内。
私は貴重な休憩時間を殴り合いで潰している。
「ふー、油断したぜ。まさか外すとは思わなかったぜ」
地面に倒れているルドガーは、蹴られた個所を触りながら立ち上がる。
特にダメージがあるように思えないのは仕方がない。
私が躊躇ったからだ。
これまで人や生き物を殴ったり蹴ったりした事がない人生を歩んできた。
腹が立つ相手だからとはいえ、人間の顔を思いっきり蹴る事に躊躇してしまい、地面に転ばせるだけで終わった。
「いくぜ」
立ち上がったルドガーは、両手を広げながら体ごと突進してくる。
幻影で体をぶらしていても両手を広げた状態で突進されたら意味がない。
抱きつくように体当たりされた私は、転びそうになるのを踏ん張り、耐える。
クリンチの状態になったルドガーは、私の腹に拳を叩き付けてくる。
体重も何も加わっていないただのボディーブローでも、まったく鍛えていない私の腹では地味に痛みが襲う。
「痛い、痛い、離れろ!」
私に抱き着いているルドガーの背中に拳を叩き付ける。
ガツガツと何度も上から叩くとルドガーは、私を押しのけるようにクリンチを解いた。
「おら、おら!」
私から離れたルドガーは、すかさず左、右と拳を打つ。
私は防御する事も出来ず、左右のワンツーパンチをまともに受けてしまい、足がもつれて地面に倒れてしまった。
「おらっ!」
「ぐふっ!?」
ルドガーは、倒れた私の横腹を蹴り、上向きにする。
胃が締め付けられるような痛みが襲い、涙が浮かぶ。
囚人たちの歓声の中、天井が見える。そして、すぐにルドガーの体で隠れる。
ルドガーは、上向きに倒れている私に馬乗りのなり、上から殴ってきた。
とっさに痛む腕を顔に持っていき防御する。
ルドガーは、私の腕ごと殴り続けた。
痛い、痛い、痛いッ!
すでに痛みがある腕をさらに殴り続けられるのだ。
腕から悲鳴が上げる。
さらに腕を通して、顔にも衝撃が届き痛い。
「これで終わりだ!」
ルドガーは、私が防御している腕を左手で退かし、顔を露わにさせた。
視線が合う。
汗だくの顔に冷や汗が伝う。
ルドガーは、右拳を持ち上げると、私の顔目掛けて振り下ろした。
―――― 魔力を循環してねー ――――
「分かっている!」
つい声が出してしまった私は、『啓示』の言葉と同時に体全体に魔力を流し、幻影のイメージをする。
力を込めたルドガーの拳が迫る。
間に合うか!?
ルドガーの拳は私の顔の横を通り過ぎ、ゴツッと地面を叩き付けた。
「痛ッ!?」
苦痛に顔を歪めるルドガーは、拳を抱えて仰け反る。
私はすぐにルドガーを両手で押し退け、すぐに馬乗りになっているルドガーから這うように遠ざかった。
これがプロの総合格闘家ならすぐに関節技を掛けたりするのだが、残念ながら私にそんな技術も知識もない。
それにしても泥試合だな。
私らしいと言えば、私らしい。
今すぐに休憩時間が終わり、勝者無しの無効試合になればベストなのだが……。残念ながら監督をしている兵士は、私たちの試合をずっと見ていて、時間を気にしていない。勝負が付くまで、休憩を終わらせない気がする。
どうしよう……。
すでに汗だくで土塗れの私に嫌な汗が流れる。
痛みで腕が上がらない私に勝てる気がしない。
これはあれかな?
しつこく殴られても何度も何度も笑顔で立ち上がり、うんざりした相手は逆に諦めさせる。そして、根性を見せた私は、皆に認められるのだ。その後は、五十個のゆで卵を食べるイベントを迎えるだろう。
うーむ、私では無理だな。
そんな根性はない。
それにゆで卵を五十個は食べれない。せいぜい、五個だ。
勝算があるとすれば、幻影魔術だ。
幻影でルドガーの隙を付き、決定打のカウンターを叩き付ける。
だが幻影魔術を使うにしても問題が生じている。
今の私の集中力は、ゼロに近いのだ。
魔力を体中に流したり、魔術のイメージをするにしても集中力が必要。
集中力の欠如は、殴られた腕や顔の痛みもあるのだが、一番の問題は暑さである。
坑道内という高温多湿の中、殴り合いをしているのだ。
暑過ぎて、頭がクラクラする。
先程の幻影魔術もギリギリで、正直に言うと上手くいくとは思えなかった。
次も上手くいくとは限らない。
それだけ今の私は暑さにやられていた。
ああ、水が飲みたい。
汗は止めどなく流れ、口が土と血で気持ち悪い事になっている。
一口、水さえ飲めれば、一瞬でも集中力が戻りそうなのだが……。
「お前、一体、何をした?」
「な、何が?」
地面に血を滴らしている拳を庇うようにルドガーが私を睨む。
幻影魔術の事を言っているのだろうが、私は正直に話すつもりはなく、しらばっくれた。
「嘘をつくなっ! 貴様が何かしたんだろ!」
顔を真っ赤にしたルドガーは、怪我をした拳を震わせている。
火に油を注いでしまったみたいだ。
今にも殴りかかってきそうで、失敗したと後悔する。
今来られたら、集中力の無い私はタコ殴りにあって終わるだろう。
「誰か……水を……」
駄目元で観客の囚人に声を掛けてみるが、誰も試合中の私に水をあげる者はいない。
「水なんか、今飲んでいる場合か! 俺に負けてからゆっくり飲め!」
怒り心頭のルドガーがゆっくりと近づいてくる。
「み、水を……頼む……」
坑道内の暑さで頭がクラクラしてきて、足元がふらつく。
ルドガーに殴られる前に暑さで倒れそうだ。
「水が飲みたいのか? なら俺がくれてやる」
諦めかけそうになった時、天の声が降りた。
声のした方に顔を向けると、輪になっている囚人の外側から観戦していた現場監督の兵士が、手の平の上で水の塊を作っている。
兵士がブツブツと呪文を唱えると、手の平の水が徐々に大きくなっていった。
「ほれ、受け取れ」
そう言うなり、兵士は私に向けて、スイカサイズの水の塊を投げつけた。
囚人たちの頭上を飛び越えた水の塊は、吸い込まれるように私の顔にぶつかると、水風船が破裂するように体全体を濡らした。
水をくれたのは嬉しいけど……やり方!
魔術で作り出した水の塊である。当たるととても痛い。
だが、冷たい水を浴びたおかげで、沸騰寸前の頭が冷やされた。
それはそうと、魔術で作り出した水って、空気中に漂っている水分を集めて作ったんだよね。
汗だくの囚人たちの近くにいる兵士。そんな兵士が手の平で作った水って、囚人たちの汗も入っていたりする? うーむ、考えるのは止めておこう。
「おい、兵士が水を与えてどうする! 卑怯だぞ!」
「何で俺が水を与えただけで卑怯になるんだ? 俺の勝手だろう」
「それなら俺にも水をくれ」
「やる訳ないだろ」
「なんだと! さては貴様、新人に賭けてるな!」
ルドガーと兵士が、囚人たちを挟んで言い合っている。
思いっきり隙だらけだ。
頭も冷えたし、謎成分が入っていそうな水も飲めたし、反撃してやる。
私は背を向けているルドガーに向かって駆け出す。
このまま背中に向けて蹴ってやる! と思っていたら、ルドガーはすぐに私の方を振り返った。
「そうくると思ったぜ! 間抜けめ!」
ルドガーは、怪我をしていない左拳を強く握り、私に向けて突き出す。
私は気にせずに突き進む。
ルドガーの拳は、私の耳の横を通り過ぎた。
「またか!?」
私もそうくると思った。
殴り合いの経験のない私だ。詰めが甘いのは、織り込み積み。
だから、駆け出す前から魔力を循環させて、イメージを固めていた。
「まだだ!」
空振りをしたルドガーも当たらない事を予測していたらしく、すぐに体勢を立ち直し、血塗れの右拳を振った。
だが、それも……。
「くそっ! またか!」
右拳も私の顔の横を通り過ぎる。
私は勢いのままルドガーのお腹目掛けて、肩からぶつかる。
拳を空振って体勢を崩したルドガーは、ぶつかった衝撃で後方に倒れた。
ちなみに二発目の攻撃は、私がビビッて身を屈んだのが運良く回避できただけで、幻影魔術は関係ない。
ふー、これで終わりにしよう。
地面に四つん這いに倒れているルドガーを見て、私は覚悟を決める。
とても良い位置にルドガーの顔がある。
私はルドガーが立ち上がる前に右足を引いて、ルドガーの顎を目掛けて……。
「地面にキスしな!」
……膝を叩き付けてやった。
ゴツッと鈍い音と共にルドガーが地面に倒れる。
まともに顎に膝蹴りが当たり、ルドガーはピクリとも動かない。
輪になっている囚人たちから歓声が上がる。
これで試合は終わりだろう。
私は、尻もちをつくように地面に倒れた。
もう、嫌。
腕は痛いし、顔も痛いし、何より暑過ぎて頭がクラクラする。
若干、手足にしびれが起きている事から熱中症の症状が出ているかもしれない。
はぁー、何でこんな訳の分からない事に巻き込まれたのか……。
今は休憩時間だ。
体を休める為の時間なのに、余計に疲れてどうするのだ。
休憩時間が終われば、肉体労働が始まる。
疲れたので坑道作業は出来ませんと言っても、囚人の私には認めてくれない。
私は、うなだれるように下を向いて地面を見ていると、囚人たちから再度歓声が上がった。
何事かと顔を上げると……。
「マジか……」
倒れていたはずのルドガーが、顎をさすりながら立ち上がっている。
どうも、私の膝蹴りはダメージを与えただけで、ノックアウトまではいかなかったようだ。
暑過ぎて立ち上がる事も出来ない私は、もう一度、顔を下げて、うなだれる。
もう、戦えない。
ギブアップするかな。
でも、自分勝手のルドガーだ。
賭けはしないと断言したけど、勝手に私を下僕扱いしそうだ。
諦めさせるには、完膚なきまでに叩きのめし、私が上だと示さなければいけないのだが……今の私は立ち上がるだけの気力はない。
本当に、どうしよう。
「よぉよぉ、面白い事をしているじゃねーか。俺も混ぜろよ」
私が絶望に染まっていると、囚人たちの輪から一人の囚人がノシノシと入ってきた。
気だるけに顔を上げるとある男が私の前に立ち塞がる。
その男は、パンパンに膨らんだ岩のような筋肉を身につけている。ただ、背が低いせいで、立派な筋肉が丸々と太って見えた。まるでダルマのようであった。
この囚人、見覚えがある。
私の前に立ち塞がっている囚人は、以前、私と戦った筋肉ダルマ(名前は知らない)だった。




