166 拳闘 その2
私は拳闘……ボクシングの経験はない。
そもそも拳での殴り合いすらした事もない。
現役の女子高生の時は勿論、この異世界に来ても人間相手はフランスパンとレイピアで戦ったぐらいしかないのだ。
こんな私がルドガーに勝てるだろうか?
いや、勝つ以外の道はないのだ。
貞操の危機である。
何としてでも勝たなければ……。
ニヤついた顔を貼り付けたルドガーは、肩を回しながら囚人の輪の中心に向かう。
私も両手で顔を叩いてからルドガーの正面まで向かった。
先程、別の囚人同士の闘いを見た限り、技術も知識もない、ただの殴り合いであった。腕を使って防御すらしていない。殴られたら殴り返すだけのもの。
私の知っているボクシングは、ジャブ、ストレート、フック、アッパーである。そして、腕で顔を覆って防ぎ、上半身や下半身を器用に使って相手のパンチを躱すのだ。
まぁ、知ってはいるが出来るとは到底思えないけど……にわか知識で通じるとは思えないが、まったく知らない相手に対して、ちょっとした武器ぐらいにはなると信じたい。
ルドガーが左手を私の方に伸ばしたので試合開始の挨拶だと思い、私もルドガーの拳に合わせるように腕を伸ばす。だが、すぐにルドガーの右拳が私の顔目掛けて飛んできた。
「ヒィッ!?」
目の前に迫る拳を体全体を捻って躱す。
ルドガーの拳が鼻先を通り過ぎていく。
私はよろけるようにルドガーから距離を取る。
ルドガーは追撃をする気がないようで、ニヤニヤしながら、へっぴり腰の私を見ている。ただの挨拶代わりの攻撃だったみたいだ。
まずい、まずい、ここは異世界でボクシングは存在しないのだ。拳同士を合わせてから試合が開始するルールは存在しない。
そう、ここは異世界。
ルールは勿論、スポーツマンシップすら無いに等しい。
どちらかが倒れるまで、ただ殴り合うだけの余興だ。
私は気を引き締めて、両腕を顔の前に持っていく。
ジリジリと足を動かし、ルドガーに近づいていく。
確かボクシングでは、ジャブを上手く使って相手を牽制したり、距離を測ったりして試合を作っていくものと記憶している。かのイタリアの種馬も口の悪いトレーナーにしつこく練習させられていた。
私を格下に見ているのか、ルドガーは拳を構える事もなく、プラプラと両手を下げたまま私が来るのを待っている。
舐めきった態度は逆に好都合だ。
私はルドガーに向けて、力を抜いた左の拳を突き出す。
口でシュッと言いながら放った私の左ジャブは、ルドガーの手の平で弾き返された。
私はすぐに腕を引き、なんちゃってジャブを連続で放つ。
ルドガーは防御したり体ごと躱したりする事はせず、蠅を叩くような感じで手の平でパシパシッと弾いていく。
ルドガーの表情から拍子抜けの雰囲気が滲み出ている。観客の囚人からも熱気が下がっている。
たぶん、私が見た目に反して弱々しい攻撃ばかりをしているから、みんなのテンションが下がっているのだろう。
でも、私は気にしない。
私はしつこく左拳でジャブを繰り返す。
ルドガーが私の左手に集中しているところをタイミング見て右ストレートをお見舞いしてやる。
それも傷跡で見えない左目を狙ってやる。
えっ、卑怯だって?
ああ、卑怯で結構!
私が考えた作戦はこれしかないのだ。
一ヶ月前まで現役インドア女子高生の私に虎の目があるとは思わないでほしい。
しつこく左ジャブをする。
そろそろ頃合いかもしれない。
ルドガーは完全に私を見下して私に好きなようにさせているし、私自身、左腕が疲れてきた。
一定の距離を保っていた私は、一歩踏み込んで左ジャブを放つ。
タイミングがずれたルドガーは、少しだけ体勢を崩す。
すぐさまルドガーの左に回り込み、今まで温存していた右拳をルドガーの左頬に向けて放った。
パシっと乾いた音が響く。
私の渾身の右ストレートは、ルドガーの左手に止められた。
「おいおい、これはなんだ? 大人と子供の喧嘩か?」
「この俺でも勝てるぞ」
「わざと負ける気なんじゃないのか?」
「あんな腰の引けた拳じゃ、殴られても痛くないよな」
観客の囚人から好き勝手言われて、顔が赤くなる。
私自身、レイジング・ブルのイメージだったのだが、傍から見たらへっぴり腰でナヨナヨとしたパンチを繰り返す筋肉詐欺のおっさんだったみたいだ。
なんちゃってボクシングでは、死角から狙ったパンチでも通用しなかったみたいである。
「やはり左目を狙ってきたか。予想通り過ぎて、反撃する気も起きなかったぜ」
そもそもルドガー自身、この殴り合いの拳闘に慣れしているようで、私が左を狙っていたのは見え見えだったようだ。
未だに私の右拳を左手で握って離さないルドガーは、口角を上げながらニヤつく。そして、私の拳をニギニギと嫌らしく揉んでくる。
「ちょっ、気持ち悪い! 離れろ!」
私は空いている左拳をルドガーの顔に向けて突き上げた。
ルドガーは私の左拳を顔を逸らして躱し、握っていた拳を強く引いて、私の態勢を崩す。
足がもつれて倒れそうになるのを踏ん張って持ちこたえるが、すぐにお尻に衝撃が走り、そのまま前のめりに倒れてしまった。
「柔らけー良い尻しているじゃねーか」
ニヤニヤしているルドガーが、地面に倒れた私を見下している。どうやら、体勢を崩された所を後ろから蹴られたみたいだ。
このルドガーという男、気持ち悪いだけでなく、人を馬鹿にしてムカつく男だ。
「次は、俺からいくぜ」
地面から立ち上がるとルドガーが突進してきた。
すぐに腕を上げて顔を覆う。
私の顔を殴りにきたルドガーは、右左と拳を叩き付けてくる。
「痛い、痛い、痛いっ!」
布を巻いただけの拳だ。腕に当たるルドガーの拳が筋肉を痛め、骨に響いてくる。
執拗に顔だけを狙ってくるので致命打になっていないが、これではすぐに腕が使い物にならなくなる。
「おらおらおら、どうした! こんなんじゃ、試合にならねーぞ! その肉体は飾りか?」
ルドガーは、汗を巻き散らかしながら休む事もなく拳を打ち続ける。
私は亀のように顔を覆い、歯を食いしばって耐える事しか出来ない。
いや、もう限界。
痛みの感覚すら無くなってきて、腕が下がりそうになる。
―――― 魔力を循環させようねー ――――
「えっ、何?」
突然、頭の中に言葉が流れて、意識が明後日の方に飛んでしまった。
私の集中力が切れた瞬間、ルドガーは右腕を引き、全体重を乗せるように私の腕を叩き付けた。
「がっ!?」
腕のガードが崩れ、後ろに吹き飛ばされる。
輪の囚人から歓声と罵声が上がる。
ガードが崩れただけで、意識はしっかりしている。たが、腕がジンジンと痛み、震えが止まらない。
「どうする? 降参するか? 今なら俺の下に付くと約束するなら、降参を認めるぞ」
腕をフルフルと振っているルドガーが、再度、ニヤけた顔をしながら提案してくる。
「こ、断わる!」
殴り合いの拳闘は今すぐに止めたいが、ルドガーの元に下るのは絶対に嫌だ。
それはそうと、急に話し掛けないで『啓示』さん!
ビックリして、殴られちゃったじゃない!
―――― 魔力を循環させようねー ――――
心の中で『啓示』に文句を言うが、当の「啓示』はガン無視して、同じ事を頭の中に語り掛けるだけだった。
そもそも、魔力を循環させてどうするの?
もしかして、ダルムブールの兵舎でマルティン大司教に変な魔法を掛けさせられた時みたいに、体中に魔力を流して、両手足に掛かっている拘束魔術をレジストすればいいの? そして、光の魔力弾で視力を奪ってから殴れって事かな?
―――― 違いまーす ――――
違ったみたいだ。
まぁ、薄暗い坑道内でそんな事をすれば、囚人全員の視力を奪ってしまうだろう。それに束縛魔術が壊されたと知った兵士が、今後、私に何をするか分からない。もしかしたら、本物の手枷足枷を付けさせられるかもしれない。それは却下だ。
それならどういう事なの?
―――― 適度に循環 ――――
答えになっていない。
私に助言をくれる『啓示』であるが、言葉が足りなすぎる。文字制限でもあるのだろうか?
それで『啓示』さん、束縛魔術が壊れない程度に魔力を流したらどうなるの?
―――― 幻 ――――
まぼろし?
幻影?
「どうした? 俺の提案を断ったのに、立ち上がって殴りにこないのか? それとも立ち上がる事が出来ないのか? なら勝負は決まったな」
拳を強く握りしめたルドガーが近づいてくる。
私はゆっくりと立ち上がり、ルドガーと対峙する。
痛みで腕が上がらず、顔を守る事は出来ない。
代わりに、こっそりと体内に魔力を流し始める。
体の隅々に魔力の流れを感じ、手足に掛かっている束縛魔術が僅かに光り出した。
魔力は大丈夫。
次はイメージだ。
何度かティナに掛けてもらった幻影魔術を頭の中に思い描く。
「おらっ!」
無防備の私にルドガーの大振りな右拳が迫る。
滅茶苦茶、怖い。でも、『啓示』を信じて、私は何もせずに佇む。
私の顔を目掛けて、ルドガーの拳が目と鼻の先に迫る。
ヤバイ、当たる!?
そう思った瞬間、ルドガーの拳が逸れて、私の頬をかすりながら横へと通り過ぎた。
「なに!?」
確実に当たると思ったルドガーから驚きの言葉が漏れる。
上手くいった!
イメージしたのは、体がぶれて見える『幻身』。
ルドガーは、本体の私でなく、幻の私に狙いを付けて、空振りした。
盛大に空振ったルドガーは、私の横を通り越して、勢い余って地面に倒れる。
四つん這いになっているルドガーの顔に、私は蹴りを放った。
ちなみに目の見えない左側である。私に死角ない。
「ぐふっ!」と息を漏らしたルドガーは、囚人たちの足元に倒れた。
えっ、蹴ったら駄目だって?
別に拳だけで戦うとは聞いていないし、腕が痛くて動かないし、先に私のお尻を蹴ったのルドガーだ。
それに私がルドガーを蹴って地面に倒した事で、観客の囚人から歓声が上がっている。
特に問題は無いみたいだ。
新たな武器を手に入れた。
だが、これで勝てるだろうか?
腕は痛くて持ち上がらないし、殴り合いの経験はないしで不安だらけだ。
でも、やるしかない。
私は心を入れ替えて、対戦者を睨みつけた。




