158 優雅で気持ちいい朝
「うわーっ!?」
寝心地の良いベッドで眠っていた私は、リディーの叫び声で目を覚ました。
「ど、どうしたの!?」
ベッドから飛び起きた私は、急いでリディーの方を振り向いた。
「な、なんで悪人が僕の部屋にいるんだ!?」
「えっ、悪人だって!?」
リディーの言葉を聞いた私はキョロキョロと周りを見回すが、私たち以外、誰もいない。
どういう事だろうと首を傾げていると、私の方に枕や衣服などの小物が飛んできた。
もしかして、その悪人って……。
「リディー、落ち着いて……」
リディーに向けて声を掛けた瞬間、顔の横を何かが通過したと思ったら、左頬が熱く痛み出した。
ドスッと壁に突き刺さった物を見て、背筋が凍りつく。
「この変質者、こっちに来たら本当に殺し……あっ!?」
ベッドの上で弓矢を構えたリディーは、私の顔に狙いを定めると、はっとした顔になり動きを止めた。
「あー、そうか……思い出した」
「もしかして、忘れていた?」
「いや……寝ぼけていただけ……」
「理由は何でもいいので、頼むからナイフを投げないでくれる。危うく、顔に穴が空くところだった」
血が流れている左頬を新品の布で押さえながら、壁に突き刺さっているナイフを見つめる。
「ご、ごめん……」
長い耳を垂らしたリディーは、横毛をクルクルと弄りながら素直に謝ってくれた。
酷い目覚めだったが、眠気や疲れは一切ない気持ち良い朝だ。
この異世界に来てからというもの、寝不足で体調が悪くなる事はない。それもそのはずで、娯楽のないこの世界では、夜になれば、やる事もないのでさっさと眠ってしまうのだ。
早めに眠って、朝方に起きる。八時間近くは眠っているので、とても健康的な生活が送れる。
ちなみに朝の鐘はまだ鳴っていないので、時間的に余裕がある。
お詫びと反省の為、リディーが台所で朝食を用意してくれている。
朝食はリディーに任せて、私は顔を洗う為に外に出た。
薄っすらと朝霧に覆われた外は、幻想的な景色を作り出している。
山脈の斜面を舐めるように流れる霧。広場の地面も霧によって覆われている。ここが強制労働の炭鉱とは思えない綺麗な風景であった。
気温は低く、支給された長袖のシャツでは肌寒い。
腕を擦りながら井戸に向かうが、その前にトイレで用を済まそう。
トイレは井戸の近くある。昨晩、寝る前にリディーに教えてもらい、真っ暗な中、用を済ませたので場所は知っている。
木板で遮られた簡易のトイレは、深い穴が開いているだけの見すぼらしいトイレだ。ちなみに局部を綺麗にする物は、隅に置いてある大きな謎の葉っぱを使う。
リンゴ狩りをしたリーゲン村でも葉っぱて拭いた事はあるが、正直、ウゲェーて感じになる。かぶれないか心配だ。
ちなみにリディーは兵舎のトイレを使用しているそうだ。
兵舎のトイレは、同じ落下式のボットン便所であるが、この簡易トイレと違い、綺麗に掃除がされている。局部を拭く物は葉っぱはなく、使い捨ての布だそうだ。
ううぅー、罪を犯したとはいえ、あまりにも差があり過ぎて、泣けてくる。
用を済ませた私は、井戸から水を汲み、手と顔を洗う。
昨晩と同じ、冷たい井戸水で顔を洗うと「ヒェッ!」と悲鳴が漏れた。
ギュッと皮膚が縮み、息が止まりそうになる。
既に血が止まっている左頬をバシャバシャと水を掛けて、素早く汚れを落とす。
手が冷たさで思うように動かなくなってきた。
「これ以上無理!」と叫び、急いで小屋に戻った。
「ちょうど朝食が出来だぞ。その前にこれを……」
リディーが貝殻のような入れ物を投げてきたので、落とさないように受け取る。
「これは?」
「傷薬だ。マガという花の花粉をオウギの葉で混ぜてすり潰したものだ。その……悪かった」
そう言うとリディーは、料理を乗せた皿を食卓に並べ始めた。
私は、入れ物の蓋を開けて、ドロリとした緑色の液体に鼻を近づける。
青臭くて、ツンと鼻の奥を襲う刺激臭がした。
これ、本当に傷薬なのだろうか? 嫌がらせじゃないよね。
恐る恐る指に付けて、左頬の傷につける。
匂いは酷いが、特にしみる事もなく、安堵する。
すでに席に着いているリディーの対面に座り、食卓に並ぶ料理を眺めた。
エルフであるリディーの料理はどんなものかと期待していたのだが、特に変わったものはない。
キノコと野菜で作ったスープ、目玉焼きとベーコン、温野菜盛り、そしてオートミールのような麦を牛乳で掛けたものがあった。
どれも見慣れた料理であるが、どれも丁寧に作られており、とても美味しそうだ。
実際に調理をしたリディーは、料理に手を付けず、じっと私を見ている。
囚人の私が先に食べても良いか悩むが、当のリディーは私の反応が気になっているようだ。
出来立ての料理が目の前に並んでいるのだ。昨日は少ししか食べていない私は、リディーの視線を無視して、スープを一口啜る。
「……うん、美味しい」
私がポツリと呟くと、長い耳をピコピコと上下に動かしたリディーは、「そうだろ、そうだろ」と言いながら、満足そうに食事を始めた。
エルフの耳は、犬の尻尾のような感情表現をする役割でもあるのだろうか?
もう一度、スープを啜る。
うん、お世辞抜きで美味しい。
野菜屑で作っただけの塩胡椒スープじゃない。
色々な野菜を煮込んで作ったスープは、しっかりと野菜の旨味が出ている。大きめに切ったキノコは歯ごたえもある。短い時間に良く作れたものだと感心してしまった。
スープだけでなく、目玉焼きもベーコンの脂が染み込んでいるし、温野菜はちょうど良い茹で加減で、塩味だけだが野菜の味がして美味しい。
そして、シリアル食品のようなオート麦は、飲みやすい牛乳に漬けてあるので食べやすい。砂糖の代わりにリンゴやブドウが入っているので、僅かな甘みと酸味があり、決して美味しい訳ではないが、お菓子を食べているようで楽しかった。
私とリディーの二人は、無言で朝食を食べ続ける。
そして、お互いにスープをお代わりして、鍋を空にしてから朝食を終えた。
何日かぶりのしっかりとした食事を終え、私はお腹も心も満足する。
「とても美味しかったよ、リディー」
「ふふふ、まあね」
「朝はいつもこんなに作るの?」
「材料があれば作る。朝はしっかりと食べないと体も頭も動かないからな。材料が無い時は、兵舎で食べる。硬いパンと不味いスープと豆を煮込んだものしか出ないがな」
これなら毎朝が楽しみである。
朝の鐘が遠くの方から聞こえた。
これから他の囚人は、朝食を食べて、掃除をしたら強制労働に入る。
私は朝食を済ませたので、掃除でもしようと腰を上げるが、小さな小屋の中はすでに綺麗に掃除されている。
リディーの荷物がベッドの上や物書き机の上に散らばっているが、それ以外は埃一つない。
リディー自身も「掃除の必要はない」と言われたので、時間が余ってしまった。
やる事がなくなったので、洗濯をする事にする。
皿を洗っているリディーに声を掛けてから外に出た。
井戸に向かい、冷たい井戸水でバシャバシャと洗っていく。六日間、着続けたシャツとズボンと下着のみなので、すぐに終わる。
ちなみにリディーの分も洗おうか、と提案したら「やめてくれ!」と嫌がられた。まぁ、誰もおっさんの下着と一緒に洗って欲しくはないよな。デリカシーの欠けた発言だったと反省する。
石鹸をしっかりと落し、水気を切って、適当な木の枝に干しておく。
指先がジンジンと痛み出したので、急いで小屋の中に戻り、しばし休憩。
小屋の窓から広場が見えるが、まだ囚人や兵士は集まっていない。
リディーは、食後のお茶を準備しているので、私はその間、労働に出かける用意を済ませる。
綺麗な布、石鹸、替えの服を麻袋の中に詰めていく。もう一度、外に出て、皮製の水袋に水を入れる。リディーの許可を貰い、軽食用にリンゴも入れておいた。
これでいつでも出かけられる。
私は、食卓の椅子に座り、リディーが淹れてくれたお茶を飲みながら、時間が来るまでゆっくりと過ごす事にした。
お茶は、レモンティーである。
ただ、日本で飲まれる紅茶にレモンの輪切りを浮かべたレモンティーではなく、レモンの皮を乾燥させた、レモンピールティーと呼ばれるものだ。
レモンの爽やかな香りが楽しめ、風邪予防や精神安定の効果のあるハーブティーである。
ログハウスのような小屋で、ハーブティーを楽しむ。
窓の外は、囚人の宿舎越しに険しいキルガー山脈が楽しめる。
自分は囚人だと忘れてしまうような、優雅で気持ちいい朝であった。
「ふぁー……二度寝したい……」
「おっさん、これから炭鉱だろ。遅れたら、酷い目に遭うぞ」
ベッドの上でナイフや弓矢の手入れをしているリディーから現実的な指摘を受ける。
ううー、嫌だな、怖いな、行きたくないな。
体調不良と言って休みたいが、囚人の私に休むという選択肢はない。
チラリと窓の外を見ると、囚人が広場に集まりだしているのが見えた。
私は、急いでお茶を飲み干し、麻袋を掴む。
「がんばれよー」とリディーの適当な言葉を背中に聞きながら外に出る。
広場には兵士の姿は見かけないが、すでに囚人は私以外、全員が集まっていた。
息を切らせながら急いで広場に向かった。
「あれ、あんた、どこから来たの?」
「ぜぁ、はぁ」と呼吸も絶え絶えの私に隣に立っているペーターが尋ねてきた。
「わ、私の部屋は、そこの小屋なんだ」
私は、兵舎の横にちょこんと立っているログハウスのような小屋を指差した。
「ふーん、兵士の目が厳しそうな場所だね。息が詰まりそうだ」
小屋は綺麗だし、食材も豊富だし、同居人はエルフだと正直に話すと、顰蹙を買いそうなので止めておこう。
「そっちはどう?」
「寒すぎ。寝床、固すぎ。未だに首が痛い」
ペーターの感想だけでは、まったく理解できないので、もう少し詳しく聞いてみた。
暴風が吹けば壊れそうな平屋は、隙間が沢山空いており、山から下りてくる冷たい風が隙間から入ってきて、とても冷えるとの事。
調理用の竈が部屋の奥にあり、常に火が焚かれているのだが、部屋全体を温めるほどの効果は無い。その為、竈の近くは人気があるのだが、囚人同士にも力関係があり、新人のペーターたちは竈からもっとも離れた場所に居なければいけなかった。
寝床は、地面から一段高くしてあるが、堅い木材に薄いシーツが敷いてあるだけなので、非常に硬く、そして寒い。布団などはなく、体を包むシーツしか支給されていないので、衣服を何重にも重ね着して寝たらしい。それでも寒すぎて、囚人の震える音が部屋中に響いていたそうだ。そして、枕は丸太を切っただけのもので、とても痛く、使わない方が良かったと語っている。
さらに就寝になると、平屋の扉は施錠され、竈の前に寝番の兵士が常に監視しているそうだ。
「寒さも応えるけど、食事も酷かった。量は少ないし、凄く不味い」
うーむ……。
ペーターの話を聞いて、ますます私が住む小屋については話さない方がよさそうだ。
もし、私が悠々自適な場所で食事をして、眠っている事がばれたら、恨まれるだろう。
「頬の傷は、どうした?」
ペーターの隣に立っているディルクが、私の左頬を見て、顔を顰めている。
「えーと……ちょっと、髭を剃ろうとして……切った」
朝一で変質者扱いされナイフで切られたと馬鹿正直に話す事はしない。なんか間抜けな感じだしね……。
私の嘘をディルクは「そうか」と返し、それ以上話す事もなく前を向いた。
私とペーターも会話を止めて、無言で兵士が来るのを待つ。
私とペーターとディルクは話すのを止めたが、他の囚人は各々話し続けている。一日で仲良くなったようだ。
一人の囚人の顔がパンパンに腫れあがっている。昨日、理不尽に殴られた囚人だろう。見るだけで、痛みが伝染しそうになる。
寒い風に体を震わせながら、しばらく待つと、ようやく兵士が集まってきた。
おしゃべりをしていた囚人は、すぐに口を閉ざし、横一列に整列する。
四人の兵士が、演壇の左右に並ぶ。
「班長、用意が出来ました!」
兵士の一人が、私たちの方に向けて大声で叫ぶ。
「よろしい」
なぜか、後方から声がした。
クルリと振り向くと、トカゲ兵士が私たちの後方で仁王立ちしている。
あれ、いつの間に居たのだろうか? まったく、気が付かなかった。
トカゲ兵士は、スススっと音も立てずに、私たち囚人の間を通り抜けて、演壇に上がる。
「皆さん、おはようございます。本日も良い天気に恵まれました。それもこれも、皆さんの日頃の行いの影響でしょう」
相変わらず、良く通る声で挨拶をするトカゲ兵士である。
「ただ、残念な事があります」
左右に離れた大きな目をギョロリと私たちに向けたトカゲ兵士は、大袈裟に首を振るう。
「私は誰よりも早く、この広場に来ました。そして、皆さまの事を知るために、黙って見ておりました」
えっ、そんなに早くから来ていたの? まったく、気が付かなかった。
「皆さまは、管理してくれる兵士が居ないからと、好き勝手に口を動かしていましたね。これは由々しき事です」
なーんか、嫌な流れである。
「皆さまは囚人です。宿舎を出た時点で、労働は始まっております。その事を自覚しないまま作業をしますと事故の原因を作ってしまうでしょう。分かりますか?」
まったく、分からない。そもそも、そんな事を言われてないので知らない。
「事故を起こす危険性がある皆さまには、教育が必要でしょう」
トカゲ兵士が何やら聞き取りにくい言葉を発すると、両手足に掛けられた魔術が青白く光り出す。そして、ズシリと手足が重くなり、腕や足を上げる事が出来なくなった。
身動き出来なくなった私たちの元に、他の兵士が移動する。
もしかして……。
「精根注入ッ!」
皮のグローブをはめた兵士に、囚人が殴られていく。
囚人たちは黙って兵士の拳を受け、倒れていく。
端から順番に囚人が殴られていくのを見て、真っ青になる。
ひぃー、一番端にいる私が最後だ。私だけおまけが付きそうで、何か嫌ぁー!
二つ横のディルクが殴られる。だが、彼は倒れる事は無かった。
横にいる細身のペーターは、盛大に吹き飛ばされた。
そして、私は……。
「精根注入ッ!」
「……ッ!?」
ガツッと石をぶつけられたような衝撃が右頬を襲う。
殴られた衝撃と手足の重さで、後方へ倒れる。
目元がチカチカとする。
殴られた頬はジンジンと熱くなり、痛み出す。
無意味に殴られた事に対して、怒りは湧いてこない。
ただ、情けなさが込みあがり、泣きそうになった。
「教育、終わりました!」
「よろしい。では、精根を注入してくれた兵士の方にお礼を言いましょう」
私も含め、地面に倒れた囚人たちはノロノロと立ち上がり、正面を向く。
そして、声を合わせながら「ありがとうございました」と言った。
「大変、結構です」
満足そうな声を出すトカゲ兵士は、コクコクと頷く。
気持ちの良い朝を迎えたにも関わらず、一瞬で最悪の朝になってしまった。
たった一発の拳で、私は囚人だと強制的に認識させられたのである。




