104 エビを求めて、ギルマン退治 その1
「ご主人さまぁぁーー!!」
水面を移動する音に交じって、エーリカの叫び声が聞こえる。
エーリカに答える事も出来ず、私は凄い速さで水の中を引きずられていた。
瞳を開ける事も出来ず、自分の身に何が起きているのかも分からない。
首に巻き付いた紐で引っ張られているが、紐の位置が僅かにずれているお陰で、頸動脈や喉を締められる事がないので、意識や呼吸は正常に働いている。
だが、水の抵抗を受けながらの水中移動の為、首が引きちぎられそうで凄く痛い。
水飛沫を上げながら、たまに水面から顔を覗くタイミングで呼吸をするが、首の痛みで上手く空気を入れる事が出来ず、徐々に意識が薄らいでいく。
このままでは不味いと首を絞めている紐に手を掛けるが、水圧が強くて思うように力が入らない。
意識が途切れないように集中し、水圧に抗うように腕に力を込めて腰のベルトに差してある手斧を引き抜く。
そして、私の体を引っ張り続ける紐目掛けて、手斧を振る。
極限まで張り詰めていた為、手斧の刃が紐に当たると簡単に千切れた。
凄い速さで引っ張られていた私の体は、急に力を失い、湖上を跳ねてから水中へ落ちていく。
一瞬意識を失った私は、急いで水面に向けて手足を動かす。
水分を含んだ服、皮鎧、金属製の手甲と脛当ての重さで思うように泳げない。
水を飲んで咽そうになるのを必死に耐える。
酸素が足りなくて、意識が薄らいでいく。
それでも新鮮な空気を求めて、重たい体を動かすと、水面に顔を出す事が出来た。
「ぶはっ!」
外に顔を出すと、口から水を吐き出し、咽ながら空気を吸い込んでいく。
水なのか涙なのか分からないずぶ濡れの顔を顰めながら、周りを見回した。
今いるのは、陸と小島のちょうど中間ぐらい。
手足を動かしながら立ち泳ぎをしているが、水を吸った服や装備の所為で、非常に疲れる。すぐにも体力が無くなり、また水の中へ逆戻りしそうだ。
首に巻き付いている紐を剥がして確認すると、水草であった。細長い水草を縛って紐状にしたものを私の首に巻きつけて、水中を引っ張ったのだと認識した。
体の大きい大人の男性である私を凄い速さで水中を引きずり回す相手など魔物しかありえない。それも水草を道具のように使えるほどの知能がある魔物。
そんな魔物がいる湖の中で私は一人でいるのだ。
好きに狩ってくれと言っているようなものである。
孤独と不安に押しつぶされそうになる私はキョロキョロと水面を見回すが、今の所、魔物らしき姿は見当たらない。
体力の限界が近いので、このまま助けがくるまで立ち泳ぎをしている訳にはいかないだろう。
陸か小島のどちらかの方へ泳いで、安全な場所に辿り着かなければいけない。
良し、皆がいる陸の方へ向けて泳ごう! と思った時、左足首を掴まれる感触がした。
ヤバイッ!?
そう思った瞬間、水の中へと引きずりこまれた。
ガボガボと口から空気が漏れながら、湖の底に向けて落ちていく。
薄目を開けて下を見ると、水泡塗れの視界の中、人の形をした生き物が私の足首を掴みながら下へ下へと泳いでいた。
その生き物は、全身緑色の鱗に覆われており、背中には鋭い背びれが付いている。鼻は無く、平ぺったい顔。頬の部分には魚のエラのようなものが付いており、呼吸に合わせて開け閉めしていた。
そして、感情の無い真っ黒の大きな瞳で、私の様子を観察するように見つめている。
半魚人!? ギルマンか!
某モノクロ映画のモンスターを思い出し、背筋がゾッとした。
半魚人は、私と共に薄暗い湖の底へと落ちていく。
酸素不足と過度の水圧の変化で、頭全体が不調を訴える。
耳の痛みで頭まで痛くなる。
耳抜きをしようにも、霞みゆく頭ではやり方すら思い出せない。
このままでは、本当に死ぬ……自由にならなきゃ!
左足首を掴んでいる半魚人の手を右足で蹴る。
水掻きの付いた手を何度も蹴るが、水の抵抗に抗えず、力がまったく入っていない。
薄れる意識の中、何度も足を動かすが、半魚人の手にダメージを与えている感触はない。
徐々に肺の中の酸素が無くなり、手足に力が抜けていく。
視界も白く濁り始め、思考する事も出来なくなり、何も考えられず半魚人と共に湖の底に到着した。
ああ、死ぬんだ……。
焦点の定まらない瞳で真っ黒な半魚人の目を見つめながらそう思った時、腰に吊るしてあるポーチの形をした小物入れの蓋が勝手に開いた。
小物入れから飛び出した物体は、すぐに私の胸まで向かい、光り輝く。
暗闇を照らすそれは私の胸に手を添えると、ガツンと強い衝撃と共に体中に熱いものを流し込んできた。
不安定に流れていた私の魔力が激流のように体の隅々まで行き渡り、酸欠と水圧で意識が途切れそうになっていた思考が急速に治ってくる。
ギルマンの手から自由に成らなければ、本当に死んでしまう!
体中に流れる活性化した魔力を右手に集め、私の様子を観察している半魚人に向けて、魔力弾を放つ。
光を帯びた魔力弾は、半魚人の顔にぶつかると同時に破裂し、薄暗い湖の底を真っ白に染め上げた。
失明する程の光源を間近に受けた半魚人は、私の足首から手を離し、水の中で苦しみ悶える。
良し、自由になった!
今の内に水面に向けて泳ごうとしたら、私の胸に手を付けていた物体が、私を押すように凄い速さで一緒に浮上させていく。
体がくの字の態勢で水面に向けて、ぐんぐんと急浮上する。
急激な水圧変化で耳と頭に激痛が起き、痛みで顔が歪む。
だが、そのおかげで、すぐに水面に顔を出す事が出来た。
「がはぁ、がはぁ……ど、どうして、ここにティアがいるの!?」
水を吐き、空気を吸い、呼吸を整えながら疑問に思っていた事を聞く。
私を助けたのは、ティアである。
だが、ティアはアナの胸元にいたのを確認している。
いつの間に私の小物入れに忍び込んでいたのだ?
「はぁ、はぁ、はぁ……も、元からよー。その所為で、おっちゃんと一緒に溺れ死ぬ所だったわー」
ティアも必死に酸素を取り込みながら説明してくれた。
どうやら、歌を歌う時に作った分身体の一人で、横笛を担当していたティアとの事。
元の一人に戻るふりをして、こっそりと私の小物入れに忍び込んでいたらしい。
「まったく気が付かなかった」
「魔術で気配を消していたからねー。かくれんぼの天才なのよー、あたしは」
呼吸が落ち着いたティアは、ずぶ濡れになりながら空中で無い胸を反らしてドヤ顔をしている。
「それならそうとすぐに助けてよ……本当に死ぬ所だったんだから……」
「蓋が開かなかったんだから、仕方ないでしょー。魔力をあげたんだから、文句言うんじゃないのー!」
私の魔力が安定したのは、ティアの魔力で強制的に調整したせいか。
「すぐにおっちゃんの魔力は不安定になるわー。その前に、サハギンを何とかしなさい! 水中にいるサハギンには、あたしの魔術は効かないわー。おっちゃんが頼りよ!」
半魚人の魔物はサハギンなのか……。ギルマンじゃないんだね。知っていたけど……。
サハギンを何とかしろ、とティアは言うが、私に水中のサハギンの相手が務まるのか?
今も頭と鼻が痛く、クラクラしている。酸欠で死にかけて体力が急激に無くなっている状況で、水分を吸った重たい服と装備を着たまま立ち泳ぎをしているのだ。
サハギンが襲ってくる前に、体力がゼロになって、また湖の底へ戻ってしまいそうだ。
ベルトに差した手斧だけでも捨ててしまおうか? これ、重りを付けているようなものだよね。
「おっちゃん、サハギンが来た!」
水中に視線を向けると、両手を広げたサハギンが向かって来る所だった。
急いでレイピアの柄を握るが、レイピアを引き抜く前に私の胴体にサハギンの腕が回り、私ごと水中に引き摺り込まれた。
私を抱かえているにも関わらず、水掻きの付いた手足をしなやかに動かし、凄い速さで水の中を移動する。
こいつ、私をどこに連れて行こうとするのだ!?
水の抵抗で顔を歪ませながら、ふっとそんな事を頭を過った。
私を殺そうと思えば、すぐに出来る筈。
先ほどみたいに水の底に沈めれば良いし、ナイフのような鋭い爪や牙で攻撃すれば、低レベルの私など何も出来ずに殺されるだろう。
だが、このサハギンはそんな事もせず、私を抱きかかえたまま移動しているだけだ。
もしかして、私を拉致したいだけで、殺すつもりはないのか? いやいや、さっき湖の底で酸欠させて死にかけたじゃないか!
どうせ魚の脳みそをした魔物だ。何も考えていないだけかもしれない。または、自分の住処に持って行って、ゆっくりと美味しく食べるのかもしれない。
サハギンが何を考えているのか分からないが、このままではどうせ死んでしまう。
今も水の中を移動していて、呼吸が出来ない。
すぐにもサハギンの腕から抜け出さなければ!
私は拳に力を込めて、サハギンの横腹を殴る。
水の抵抗で思うように力を込められないが、それでも何度も何度も殴る。
だが、サハギンには一切のダメージを与えられず、反応すらしない。
逆に硬く鋭い鱗を殴った所為で、私の拳の皮膚が裂けてしまった。
拳が駄目なら手斧だと考えたが、抱きかかえられたサハギンの体が邪魔でベルトから抜く事が出来ない。
それならと、私はサハギンの顎に手を伸ばす。
呼吸の為、開け閉めしているエラの中に手を突っ込むと、サハギンは動きを止めて、真っ黒の瞳で私を見つめた。
醜い魚顔で心情は分からないが、たぶん驚いているようだ。
そんな相手など無視して感触の悪いエラを力いっぱい握り締めると、サハギンの腕が離れ、私の腕を離そうと苦しみ始める。
暴れる勢いで、私は握っているエラごと腕を引き抜いた。
「――ッ!」
水中の中で、サハギンの苦痛の声が聞こえる。
苦し悶えるサハギンを一瞬だけ見てから、すぐに水面に向けて泳ぐ。
「ぷはぁっ!」
大きく息を吸い、空気を取り込む。
「おっちゃん、無事かー?」
空を飛びながら、ティアが駆けつけてくる。
「さ、散々、水を飲まされたから、今度は私が酸欠状態にしてやった」
ゼイゼイと呼吸を整えながら赤黒いビラビラのエラをティアに見せると、「うげー」と顔を顰めた。
私も持っていたくないので、すぐにサハギンのエラをポイっと捨てる。
「おっちゃん、サハギンだ! めっちゃ怒っている」
ティアが小島の方を指差す。
私と小島の距離は五百メートルほどまで移動していた。その小島との間に水面から顔を覗かしているサハギンがいる。
先ほどまで真っ黒な目をしていたが、今は赤く染まって私を睨んでいた。
レイピアを抜いて、魔力を込める。
どんどん魔力を込めて、バチバチとスパークを纏わりつかせるが、光加減が弱い。
柄から魔力を流すが、抵抗感があり、思うように流れない。
ティアの魔力で無理矢理安定させた私の魔力が、不安定に戻りかけている。
魔力で軽くなったレイピアを水面に出して、サハギンに向けた。
羽のように軽くなったレイピアであるが、私の腕力では水中で振る事は出来ない。また体力が空っ穴なので、私の方から泳いでサハギンを攻撃する事も無理だろう。
つまり、サハギンを迎え撃つしかないのだ。
だが、顎から滴る血で水面を赤く染めていくサハギンは、私をジッと見つめるだけで、動こうとしない。
早く、襲いに来てよ!
もう、魔力が上手く制御できなくなってきた!
正直、怖いから襲って来ても嫌なんだけど……。このまま私たちを無視して、どこかへ行ってくれないかな、と淡い期待をしている。
だが、私の願いに反し、サハギンは水の中に入り、背びれを水面に出して私の元まで向かってきた。
水を切り裂くように背びれが凄い速さで近づく。
私はそれに合わせてレイピアを向ける。
巨大ベアボアの時と同じように、相手の突進に合わせて、突き刺してやる。
二百メートル……。
両足に力を入れて、立ち泳ぎを安定させる。
百メートル……。
後方にいるティアから唾を飲み込む音がした。
五十メートル……。
恐怖で震えるレイピアに力を入れる。
二十メートル……。
さぁ、来い!
十メートル……。
今だ!
水飛沫を上げながら私に突進してきたサハギンにレイピアの剣先を突き付けた。
「なっ!?」
だが、レイピアが刺さる直前、サハギンはトビウオのように水面から飛び出す。
そして、孤を書くように空中からサハギンが襲い掛かった。
真っ赤な瞳と鋭い牙が目に入る。
駄目だ!? やられる!
前に突き出したレイピアから光が消えかかり、魔力が抜けるのが分かった。
―――― 剣……振……る…… ――――
「おっちゃん、そのまま斬って!」
『啓示』の声とティアの声が重なり、目の前に迫るサハギンに向けて、無意識にレイピアを一振りした。
「――ッ!?」
……手応えはない。
空中を斬っただけのレイピアが、腕力が無くなった手から離れ、飛んでいってしまった。
武器もない。体力もない。魔力制御も出来ない。
もう無理と泣きそうになりながら、牙を剥き出しにしたサハギンを見つめた。
走馬燈のようにゆっくりと景色が流れる。
真っ赤な目、鋭い牙、のっぺりとした顔、鱗だらけの皮膚。
そんなサハギンの顔が、くるりと傾き、サハギンの後頭部が私の鼻を直撃した。
「痛っ!?」
痛みの反射ですぐに鼻を押さえると同時に、私の目の前にサハギンの体が落ちた。
あれ、落ちるタイミング、ズレてなかった?
不思議に思い、水に落ちたサハギンを見ると、サハギンの体を中心に水が徐々に赤く染まっていく。
水の上を浮かぶサハギンの体には、頭が無くなっていた。
空振ったと思っていたレイピアの攻撃は、どうやら当たっていたらしく、綺麗に首を切断したようだ。
斬った感触が無かったのだが……。
釈然としないまま頭のないサハギンを眺めていると、サハギンの体はブクブクと水の中へと沈んでいってしまった。
「おっちゃん、良くやった! これ回収しといたから、有り難く思えー」
ずぶ濡れのティアが、私のレイピアを抱えて飛んでいる。
放り投げてしまったレイピアを、水の中から探して持って来てくれたみたいだ。
本当、有り難いのだが……。
「ごめん、今は受け取れない」
「えっ、なぜよ!?」
有難迷惑に受け取ったティアは、抗議をするように頬を膨らませる。
「今、受け取ったら、確実に水の底へ沈む」
私の体力はゼロだ。
今の体力では、レイピアを受け取る事も陸に向けて泳ぐ事も不可能だろう。
サハギンを倒しても、私の状況は良くなっていないのであった。
サハギンを一匹、倒しました。
一難去っても体力が無いせいで、危険な状況は変わりありません。




