#8「正体」
「よっと」
校舎裏のフェンスを乗り越えると、校舎の様子が明確に把握できた。一言で言うならば、『破壊されている』。そこらじゅうの壁が砕けては剥がれ落ち、窓ガラスも叩き割られたように粉々に散らばって光を反射していた。本当に大きな災害でも来たかのような崩壊ぶりだ。
「ひえぇ……"化け猫"がやったんだ、これ」
幸彦に一足遅れてフェンスの向こうへ着地した楓が、声を震わせる。
「おーい! 幸彦くん!」
手を振りながら、安藤が遠くで幸彦を呼んでいた。何やら急いでいるようなその様子を見て、三人は駆け足で向かう。
「いやはやー、面倒なことになりましたね。生徒も先生方も重症者はいませんが、校舎はこのザマです。おまけに」
安藤はそう言いながら、壁が崩れて出来た空洞に腕を伸ばす。大きく、入り口代わりに使えそうなその空洞まで手を伸ばして。
「!」
伸ばした手は、途中で止まった。歪な何かが、障壁になってその空洞を塞いでいた。黒のようにも紫のようにも見える、鉄塊のように強固にも水面のように儚くも見えるその壁に安藤が石を投げると、カツン、と音がして石が跳ね返った。
「無機物も有機物も通せんぼのようですね。相当強力な夜鬼と見えます」
「じゃあ、中に入れないってことですか……え?」
楓が不安げに尋ねる。尋ねながら、目を丸くして静止した。
「入れますよ?」
安藤がいつの間にか壁の向こう、校舎の中へ侵入していたから。
「入れんのかよ!」
「失礼、緊張をほぐそうと思ってジョークをね。さ、これを」
安藤は半笑いでそう答えると、呆れた顔の幸彦に向かって白い札を差し出した。何やら解読不能の赤い文字が記された、儀式にでも使いそうな怪しい紙札だ。
「これを握っておけば、結界を祓って侵入できます。どう? 頼りになる顧問でしょう?」
「毎度毎度よく持ってんな。俺の木刀も楓の鈴も、元々アンタに借りてるやつだし」
呟きながら、幸彦は背中に背負った袋から木刀を取り出した。何度叩き付けても傷ひとつつかない刀身、枝のように軽いのに大砲のような重い一撃を繰り出せる構造──全てが謎だらけの相棒だ。
「活動の必要経費ですから。しかし、衆くんの持っていた夜鬼を見るカメラに関しては驚かされました。なんせ私は見たことも聞いたことも無かったですから」
「お爺さんの形見っつってたっけ? 衆」
幸彦は後ろを振り返り、衆に尋ねた。
「………………」
「おい、衆」
「……ッ、あ、何? ごめんごめん」
一拍挟んで、ようやく返答があった。まるで今、急に電源スイッチを入れたかのように。
「衆大丈夫ー? あ、もしかしてビビってる?」
「お前もビビってただろ、さっき」
「や……ちょっと。湖根さんが心配でさ。ごめん、町戻って先に探しとかねえか?」
いつになく元気のない声で、衆が言う。
「うーん……あまり賛同はできませんね。まずは今、目の前で暴れる夜鬼に対処すべきです」
「でも、何かあったら」
「大丈夫、全校生徒に校舎へ近づかないよう一斉メールを出しました。万が一ふらふらやって来たとしても、他の先生方が見つけて保護してくれるはずですよ」
「や、でも」
安藤の完璧な対応を聞いてもなお、衆は分かりました、とは言わなかった。
「衆」
幸彦も声をかけて、彼の肩を叩く。
「心配なのは分かるけど、今守んなきゃいけねえのはこの場所と、ここにいる皆だろ」
「そうだよ! 全部キッチリ守って、かっこいいヒーローなところネコちゃんに見せよ?」
楓も隣から声をかけると、衆はため息を吐いて顔を上げた。
「…………分かった。行こう」
ようやく足並みが揃いきると、三人で一枚ずつ、安藤から白い札を受け取った。
「では、頼みましたよ。私も避難誘導と逃げ遅れた生徒の捜索が終わり次第、すぐに合流しますから」
幸彦は頷くと、すぐに踵を返して校舎の中へ踏み入るのだった。
「……ここも違うか。2階にもいねえな」
校舎2階の端、社会科準備室を覗き込みながら幸彦が言った。1階、2階としらみつぶしに捜索して来たが、"化け猫"の気配も音もせず、カメラにも何も映らなかった。
結界のせいか、校舎内は深夜のように暗かった。その上さっき保健室で外の生徒と目があったが、認識されていないかのように何の反応もされなかった。つまり、今の校舎は"化け猫"が外界から分断して作ったテリトリーだと推測できる。
「私たちに合わせて、こっそり逃げてるのかな」
「だとしても、この静けさじゃ気づけそうなもんだけどな……とりあえず、3階も行ってみっか」
テリトリーならば、気づかれないよう移動する術を用意しているのかもしれない。しかしだからと言って、中を捜索せず外で待っていても仕方がない、というのが現状だった。
「衆、行くぞ」
「おう……っと、やべっ」
幸彦が振り返ると同時に、衆の手から何かが吹っ飛んでいった。筒状のそれはカンッ、カンッと音を立てて階段を転がり落ちていく。
「悪い、カメラの調整してたら乾電池が……先行っててくれ!」
「あい。すぐ戻って来いよ、危ねえから」
軽く手を振ると、衆は急ぎ足で階段を駆け降りた。
「じゃ、先上がるか」
「だね」
幸彦と衆は下り階段の裏へ消えていく衆を見送ると、3階へ向けて歩みを進めていく。一年の時は毎日3階の教室まで上がるのダルかったなー、と、どうでもいいことをふと思い出した。
そして、いつの間にか3階の踊り場に着いていたその時。
「……待って。足音聞こえるかも」
楓が立ち止まって、先行する幸彦の肩を掴んだ。
「ああ。俺も、妙な気配感じてる」
肩を掴んだ時にはもう、幸彦も立ち止まっていたのだが。
楓の聴覚と幸彦の直感。神からの賜物か、異常な存在を感じ取ることに長ける2人の感覚は、既に敵を捉えていた。階段の下へ戻り、顔だけを出して3階の左右を見回す。2回目に左を向いた時、幸彦の中で悪い予感が異様に強まった。
「ッ!」
その直後、手前の教室の壁が砕け散って破片が二人目がけて飛んできた。幸彦は居合のようなスピードで木刀を持ち帰ると、下から振り上げて破片を真っ二つにする。左右に分かれた破片は両脇の壁に衝突し、煙を上げた。
「あの教室にいる……!」
「つっても、姿が見えねえと……クソッ、衆は何やってんだよ!」
未だ戻らない衆のことを思い出し、幸彦は苛立ちの声を上げた。だがすぐに冷静になって、壊れた壁の方を向き直る。
「音が近づいてる……ゆっきー、来てるよっ!!」
「分かってる!」
眼前に強い邪気を直感で感じ取り、幸彦は木刀を構え直す。
今──! 教室から銃弾のように飛んできた、姿の見えない"それ"の攻撃に合わせ、幸彦は思い切り木刀を振り下ろした。凄まじい衝撃に腕が吹き飛びそうになるが、刀は硬く握りしめて離さない。
「んで……こっちか!?」
木刀を押し込んでくる重圧が消え去る。それは敵が次の攻撃を仕掛ける合図であった。またしても直感だけで木刀を横に振ると、今度は鞭のようにしなった夜鬼の一撃と木刀がぶつかり合った。
「ゆっきー、次来るっ!!」
「しまっ……がっ!?」
先ほどの鍔迫り合いを意識し過ぎてしまった。今度は一瞬で力を込めるのをやめ、3撃目を放って来た敵に、一方的な盲目状態で戦わされ不利な幸彦は気付くのが遅れたのだ。まっすぐ貫くパンチのような一撃が、慌ててガードした木刀ごと幸彦の体に押し込まれ、彼を吹き飛ばした。
「ゆっきー……っ!」
楓は階段の上から飛んできた幸彦の体を受け止めようと、両手を広げた。だが少女の力では吹き飛ぶ男の体を受け止め切ることはできず、減衰こそしたものの2人まとめて階段の壁に叩きつけられる。
「っ……悪い。畜生、強えな……」
「平気! もう、何してんの衆……!」
やはり視覚で捉えられなければ、勝ち目は限りなく薄い。だがすぐ戻ると言ったはずの階段の下の仲間は、いつまでも戻る気配すら無いのだった。
「………………」
夜鬼の声は幸彦には聞こえない。だが何か音声を発しながら、こちらへ一歩ずつ歩いてくるのが分かった。
幸彦はすぐに立ち上がろうとした。だがまだ、体に力が入らない。
「やっべ……」
幸彦が顔をしかめた、その瞬間。
「待てッ!!」
衆の声がした。何故か階段の下からではなく、3階の最奥の方から、だが。
「衆!? なんであっちから……?」
楓も驚きの声を上げる。だが何にせよ助けられた。彼女が聞いている夜鬼の足音が、幸彦たちから離れて彼の方へ向かい始めていたから。
「待ってくれ……湖根さん!」
「え……は!?」
幸彦の漏らした声に被さるように、衆のカメラのシャッターが切られる音がした。フラッシュが視界を奪った、0.1秒後。
「……んニャ…………」
よく知る黒髪の少女が、そこに姿を表していた。