#7「ある朝、ある母」
7時30分。幸彦とイラがほんの少し揉めていた朝。今井楓もまた、携帯のアラームの音で目を覚ましていた。
「んん……」
言葉にならない声をこぼしながら、ベッドから体を起こす。すぐそばの白いカーテンを開き、鋭く差す朝日を目が眩むほど浴びた。寝起きが悪くて、こうでもしないとしっかり脳みそが起きてくれないのだ。
真っ白で、広い割に物が少ない自室を出る。顔を洗って、歯を磨いて、着替えて髪を整えて。8時前にカバンと共に階段を降り、一階のリビングへ向かった。
ようやく意識が鮮明になってきた。食パンを一枚取り出して、牛乳をいっぱい汲んで、テーブルについていただきます、と一言。朝はあまり胃に入らない。凝った準備も面倒だし、これだけで十分だ。
「あら。今日も随分ゆっくりしたお目覚めね」
そんな、あまり聞きたくはなかった声がした。振り返ると、楓によく似た白い髪を伸ばした女が一人。眼鏡の向こうの表情は、ご機嫌という感じはしない。
「……おはよう、お母さん」
楓は食パンから口を離すと、ぼそっと一言だけ挨拶した。
「兄弟二人は受験や就職に向けて、朝早くから頑張ってるのにね。あなたは成績大丈夫なの? それに部活に入ってもいないのに最近出かけてばかりだし、どこをほっつき歩いているんだか」
「…………」
その前に挨拶くらい返したらどうなんだ。喉元にでかけた言葉を飲み込んだ。
「まあ、三人もいれば一人くらい出来なくたって仕方ないわ。だけど、あの子たちや私たちに迷惑はかけないで頂戴ね。それに、悪い友達とつるんで遊んでるのならすぐにやめなさい。害だから」
「ッ……ちょっと!」
我慢出来なくて、机を強く叩いてしまった。自分のことはまだ良い。だけど、それは。"彼ら"のことをそう言うのは──
「何か?」
鋭い視線。貫くような、反抗など許さぬような。自分が家族だということさえも否定するような。いつもそうだ。いつも兄たちと比べられて、いつも自分だけがそんな言葉をぶつけられて。
「……ううん。そうだね」
それでもそんな目に射抜かれると、何かを口に出すことは出来なかった。
「とにかく、勉強だけはなんとかしなさい。我が家の汚点にはならないでよ」
彼女はそれだけ言うと、廊下へ去っていった。
我が家。家。よく言えたものだ。少し大きくて綺麗なだけの、父も母も祖父も祖母も良い職について金を稼いだと言うだけの、この愛も温もりも無いただの系図を、家だなどと。
「………………やめよう、考えるの」
楓はパンをかじりながら、ポケットから携帯を取り出して。
『おはよー。イラちゃん大丈夫?』
オカ研のグループトークに、そんなメッセージを送った。
『一緒に学校行きてえって、駄々こねてた。めんどくせ』
「……フフッ」
幸彦からのメッセージに、口元が緩んだ。
そうだ、これで良い。家族なんてどうでもいい。一生無視でもしていればいい。自分には、ちゃんと居場所があるじゃないか。
いつも通りの時間が流れて、放課後になった。
「うへぇーー……理科わっかんないや」
「それな……細胞ん中に器官があるって何だよ。細胞は細胞だろ。それ以上でもそれ以下でもねえだろ」
夕焼けに照らされた教室で、楓と幸彦が一緒にため息のような声をあげていた。
「こりゃ、次のテストもサイコロ振るしかねえかな」
「ゆっきーは良いよね。運いいからそれでそこそこの点取れて……衆、一緒にストライキして試験やめさせようよー」
「高校生にストライキはねえよ」
「ククク……」
幸彦が一言ツッコむ横で、衆は意味深に笑みをこぼしていた。
「衆?」
「悪いな今井。オレにはサイコロもストライキも必要ない……ぜッ」
そう言い放ちながら、衆一枚の紙をカバンから取り出す。前回の定期試験の成績表だった。
「95点、96点、91……学年一位!? え、衆こんな頭良いの!?」
「悪いけどそう言うことだ。驚いたか?」
「すっご……!」
「すげえけど、去年の成績表ずっと持って誇示してんのどうなのよ」
驚愕する楓の横で、またも幸彦が一言添える。楓と衆の話が盛り上がってくるとよくある光景だ。
「特待生維持して、学費節約しなきゃいけないからよ。これでも結構頑張ってんだぜ?」
「そっかぁ……あっ、じゃあネコちゃんに勉強教えてあげたら? お近づきになれるかもよ〜?」
「いやいやいやいやっ!! そんな、オレなんかが恐れ多い……」
「え〜。奥手だなあ」
"ネコちゃん"という単語を聞いて、幸彦は教室の左前、呼音子の席に視線を向けた。
「そういや湖根、今日来なかったな。珍しく」
「だねー。怪我しちゃったって言ってたっけ……」
幸彦の言葉に楓が答える。入学から皆勤賞が続いていた彼女の突然の欠席に、驚いているクラスメイトも多かった。
「よし、衆! お見舞い行くよ!」
「ええっ!?」
「ええっじゃない! たまには行動起こさなきゃ、ずっと進展しないままなんだから。それで、元気そうだったら今日の分の勉強教えてあげるの。どう?」
「良いじゃん行こうぜ。"化け猫"探しは夜だし、時間あるだろ」
面白いことになりそうだと、幸彦も同意するのだった。
「えー……や、でも」
「おら、観念しろこの」
「ほらほらー!」
「うお、ちょ……!」
無理やり衆の手を引いて、教室を後にした。
「き、緊張する……」
『湖根』と書かれた表札。学校から10分ほど歩いて、呼音子の家にたどり着いた。薄い青色の、一言で言うなら普通の家。特別大きくはないがボロボロでもなく、庭には綺麗な花がほんの少し咲いていて、特別ではないが楽しい日々が送られていそうな、そんな場所だった。
「っ……落ち着けっ! 気合だ岬衆!! お前ならいける!!」
頬をパンパンと叩きながら、衆は自分を奮い立たせる。
「めっちゃ一人で喋るじゃん」
「しーっ。一生懸命なんだよ」
それを少し遠くから、幸彦と楓がツッコミとともに見守っていた。
「……おしっ」
一息ついて、衆は右手を前に伸ばす。そーっと、家の前のインターホンを押した。
「お、押しちゃった……く、来るなら来い!」
「何どうした? 戦う気なのあいつ?」
「まあまあ」
やけに気合いの空回った姿に、幸彦は当惑して呟いた。
「!!」
そうしているうちに、ドアが開き。
「はい〜。あら……呼音子のクラスのひと?」
玄関先に現れたのは、呼音子よりほんの少し背の高い大人の女性だった。黒く長い髪が似ているが、彼女と違い綺麗に一つ縛りでまとめてある。
「は、はいっ! あの、こ、こね、呼音子さんのお見舞っ……!!」
「あら、お見舞い? ありがとねえ」
女性──呼音子の母はカタコトの衆の言葉を見事に汲み取って、微笑みながらお礼を言う。
「だけどごめんなさい。あの子、今出かけてるのよね。私が帰ってきた時にはもう居なくて……」
「えっ……そうなんですか?」
「ええ。結構な怪我だったし、体も重いって言ってたのにどこに行ったんだか……」
「マジか。どこ行ってんだよあいつ」
「心配だね……」
不安そうな顔で話す彼女の声は、幸彦と楓の耳にも届いていた。
「そっか……わかりました。オレ、帰り際に探してみます。見かけたらお母さんが心配してたって、伝えときますよ」
「そう? ありがとねえ。あの子昔から危なっかしいから心配で……まあ、元気なのが良いところなんだけどねえ」
困りながらも微笑んで、彼女はそう語るのだった。
「じゃあ、お願いしていいかしら。私もこの辺り探してみるから」
「はいっ! 任せてください!」
失礼しますっ!と頭を下げて、衆はそそくさとその場を離れていった。母親はまた来てねー、と手を振っている。
「へー。これはこれで進展あるかもっすかね、今井先生」
幸彦は冗談めかした声色で、隣に隠れる楓に聞いた。
「………………」
「……楓?」
「……あっ、ん!? ごめん、何っ?」
狐につままれた、という様相そのものだった。
「どうした?」
「ううん! 何でもない。ほら、行こっ」
楓は首を振ると、立ち上がって衆の方へ歩いて行った。
「…………あんな風に言ってくれるのかな。あの人は」
誰にも聞こえない小声で、呟きながら。
「くっそー……見つからねえ」
衆は頭をかきながら、悔しげに根を上げた。かれこれ数十分。周辺を根気よく探したが、それらしい人影も目撃情報もない。まるで雲隠れだ。
「学校のそばまで戻ってきちまったな」
幸彦は言いながら、自分が立っている道路のはるか先を見据えた。数百メートル先に、通い慣れた白い校舎が顔を出している。
「とりあえず、湖根んちにもう一回戻って──」
言いかけた、その時。
ゴオオオオオオオォッ……。
「ッ……何だ!?」
「ちょ、あれあれ!」
雷鳴のような轟音と、小さな揺れが襲いかかった。混乱して周りをぐるぐる見回していた幸彦の視線は、楓の声と指した指に釣られて一点を見据えた。
「校舎が……!」
倒壊でもしたかのように、校舎の周りには大規模な砂埃が立ち込めていた。
「地震か?」
「校舎がああなるぐらいの地震なら、この辺も無事じゃねえだろ……っと」
衆の問いかけに幸彦が答えた途端、彼のポケットでもかすかな揺れが起きた。着信音と共に震える携帯を取り出すと、画面には「安藤」の2文字。
すぐに緑の通話ボタンを押す。耳に当てると、数十人はいるであろう人々の混み合った悲鳴や叫び声が一気に響き合って聞こえてきた。
『幸彦君! そっちは無事ですか!?』
聞き慣れた若い男の声。周りの喧騒に対して、安藤は随分と落ち着いているようだった。幸彦は音声をスピーカーにし、二人を手招きで呼び寄せてから口を開く。
「三人とも外いたから平気。それより何なんだよ、学校やばそうじゃん」
『説明は後です。少々危険で申し訳ないですが、すぐに学校へ戻ってきてください』
「別に良いけど……って、そっちに呼ぶってことは──」
『ええ。"化け猫"が、仕掛けてきたようです』