#6「家族のぬくもり」
「ふぃー……ただいま」
幸彦はため息のような声をこぼしながら、自宅の玄関を開けた。あれから時刻は4時半を回り、部屋は少し暗くなり始めていた。電気をつけ、リビングのソファに鞄を適当に投げる。
「うんしょ……」
「平気か? そのへん置きな」
「うん」
なにやら大きな袋を両手で抱えながら後をついてきたイラに、幸彦がソファの横を指差していった。イラは紙袋を置くと、それを背もたれにして、座れば良いのにわざわざソファの横にもたれかかって一息ついてしまう。帰り際、楓の家に寄って借りてきたお下がりの衣服だが、少し多すぎたかもしれない。楓がこれもカワイイ、これもイイかも、とファッションショーに夢中になりすぎたせいだ。
「とりあえず、昨日し損ねた洗濯して……ふあぁ」
呟いたその時、軽い眩暈がした。洗濯して、ええと、その後は……徐々に思考が鈍くなる。昨日疲れていた上にまともな場所で寝れなかったからか、体が充足した睡眠を求め始めているらしい。
「……ふぅ」
幸彦はソファに座り込むと、目を閉じながら一息ついた。このまま──いや、ここで寝ては昨日と大して変わらない。しっかり布団を敷いて、少しだけ寝よう。
「悪いイラ、ちょっと寝かせ……え?」
「どうぞ、どうぞ」
リビングの隣の、小さめの和室。そこには何故か正座して手招きしているイラと、綺麗に敷かれた幸彦の布団の姿があった。
「何? 心読めんの? 聞いてないけど?」
「読めないけど、寝たいの分かった。しいでんでん……以心伝心。ふふん」
イラはそう言いながら、カッコつけるように腕組みをする。カッコのつかない言い間違いをしつつ。
「以心伝心って……まだそんな長いこと一緒に過ごしてねえだろ」
「ん。でも、分かったから」
「そうかよ」
幸彦は和室に踏み入り、ブレザーを脱いで携帯のタイマーを1時間後にセットした。布団に潜り込んだ途端、睡魔は何倍にも膨張して夢の世界へ意識を押し込まんとしてくる。
「ありがとな。1時間ぐらいで起きっから、その辺の漫画読んでてもいいし、散歩行ってても──」
「? 行かない」
イラはか細い声で言い、幸彦の隣に座り込み始める。気にしていなかったが、よく見ると布団がもう一つ並んでいた。客人用の布団だ。やけに雪彦の布団に近い位置に枕を置いて、イラは体を彼女の掛け布団の下に潜らせる。
「一緒に寝る」
イラは言うと、いつのまにか手に持っていたリモコンで部屋の電気を消した。カーテンの閉まった部屋はだいぶ暗くなり、お互いの顔があまり見えなくなる。
「何だよ。お前も眠いのか」
もっとも、別に顔が見たいわけでもないので、幸彦はすぐ顔を上に向けたのだが。
「あんまり眠くない。でも幸彦が今ここで寝るってことは、今一緒に寝ればきっと凄いこと、起きる。ぜったいそう」
「え急に何? 俺への信頼デカすぎない? 方向もおかしくない?」
きっと目をキラキラさせているんだろう。そう思い呆れながら幸彦は聞き返す。
「うん。だって、楽しかったから」
「……?」
言葉の意味が掴みきれず、幸彦は彼女の方をちらりと見た。
「幸彦と一緒にいて、大変なこともあったけど、楽しかった。嬉しかったことも、いっぱいある。いままでずっとひとりだったから、一緒だとすっごく幸せ」
「一緒だから……幸せ」
ふと、頭によぎった。"三人"で、幸せだった子供の頃。二度と帰って来ない、あの日々が。
「そうだよな。やっぱ、一緒の方が良い」
ふと、思い出した。あの頃、胸の中に宿っていたあたたかさを。同じものが今また、帰ってきたような気がする。
家族──幸彦にとって彼女が、たった一晩でそんなにも大きな存在になっていたなんて。過去を乗り越えても、新しい仲間と出会っても埋まりきらなかったぽっかり空いた穴を、彼女が少しずつ埋め始めていたなんて。
「……守りてえな」
「何?」
「なんでもねぇ」
小さな声で言い返すと、いよいよ幸彦の意識は闇に溶けていった。
いつのまにか彼女と繋いでいた左手に気がついたのは、その直前であった。
翌朝。
「る……る、るす……ばん……?」.
天地がひっくり返った様な驚愕の表情と共に、イラはカタコトな一言を紡いだ。
「いっしょに学校、行っちゃだめ……?」
「そ、平日はダメ。生徒以外はちゃんと理由が無いと入れねえんだよ」
「理由、ある! 行きたいから!」
「日本語は難しくてな〜。それ理由ではあるだけど理由にならねえんだわ」
「むぅ……」
制服に着替え終わり、もう出発したいと言いたげな様子の幸彦は、イラの主張をきっぱり切り捨てるのだった。子犬の様にしょんぼりとする彼女にほんの少し罪悪感が湧いたが、仕方ないことだ。
「そこのゲームやってても良いし、漫画読んでても良いよ。小遣いと家の鍵渡したろ? 外出歩いてたって良いから。とにかく、学校は勝手に来んなよ」
そんじゃ。そう言って幸彦はドアを開けて出ていく。イラがもう一言食い下がろうか、と言葉を探し始めた時には、既にガチャリと再びドアが閉まっていた。
「……『一緒の方がいい』って、昨日言ってたのに」
そう呟いても、幸彦の耳に届いているはずもなかった。諦めて部屋に戻り、本棚を見上げる。表紙に黄色いアフロの男が描かれた、一冊の漫画本を取って開いた。
「…………」
黙々と読み進める。時計の針の音と、ページをめくる音だけが部屋でこだまする。
「……アフロの人の頭が開いて、リスが出てきた……」
ギャグ漫画だったらしい。頭が開いた男の隣のコマでは、オレンジ色のトゲトゲしたマスコットキャラと青いゼリー状の男も暴れている。
「……よくわかんない」
率直な感想と共に、イラは本を閉じた。
「幸彦、これ面白い?」
振り返って、そう聞こうとした。
「あっ」
誰かがいるわけでもないのに。
「……やっぱり、さびしい。出かけようかな」
イラは呟いて、昨日借りた楓の服を手に取った。
特に行く当てがあるわけでも無かった。だから来た道を。おととい幸彦たちと出会った廃墟から、花屋に寄って墓地へ向かったあの道をまた戻っていった。
「…………」
無言で歩みを進める。通りかかった服屋のガラスに、ゆるいパーカーを着た自分が映ったけれど、目もくれず先へ進んだ。ほどよい気温と涼しい春風、それに青い空。これ以上ない良い日なのに、何かが足りない気がしてならない。幸彦と出会う前は、ずっと一人で彷徨い続けていたのに。それを嫌だとは思っていなかったのに。
「幸彦、楓、衆。お話、したい」
ふと、春風に乗せて呟いた。
「あたしじゃダメ?」
そして、風の行く先でその声を捕まえた者がいた。
「イラちゃん、だっけ? やっほー」
「ん。ネコ」
「んニャー」
黒く長い髪。呼音子が私服姿で道の向こうから歩いてきていた。何故か、片手で杖をつきながら歩いている。イラがあだ名で呼ぶと、鳴き声の様な返事と共に空いている方の手を振った。
「ネコ、学校じゃないの? 幸彦は行っちゃったのに」
「ちょっと昨日の夜、足怪我しちゃったみたいでさー。あんまり覚えてないんだけど、この通り。だから病院で診てもらってたんだー」
2日ぐらい安静にすれば落ち着くって、先生言ってたけど。包帯グルグルの左足を見せて、呼音子がそう言った。
「それに、なんか体もだるくて。だから今日は学校休もうかニャ」
「たいへん。お大事に」
話をしようとか、一緒に遊ぼうなどと誘うわけにはいかなさそうだったから、イラはそれだけ言うのだった。
「ありがと。じゃあまたね、イラちゃん」
呼音子は踵を返して歩いていく。
その背中に、なにやら揺れるものが見えた。
「…………? ネコ、待って」
「んニャ?」
イラの声に、呼音子は立ち止まって振り返る。だが腰の辺りで揺れていた細長い何物かは、イラがまばたきをするうちにどこかへ消えてしまっていた。
「やっぱりしっぽ……ううん、なんでもない。でも何か困ってたら、幸彦に言ってみて。幸彦、きっと助けてくれる」
「んニャ……?」
呼音子はきょとんとしたが、すぐにまた笑顔に戻り。
「んー……分かった。覚えとくねっ」
そう言うと、また歩き始める。今度こそ遠ざかっていく背中を、イラはじっと見つめていた。
「しっぽ、気のせい、なのかな」
いつのまにか、時計は12時を指していた。