#4「記憶の行方」
柔らかな日が差した。昨晩の死闘が嘘のように、体に痛みも疲れもなく、心地良かった。
「……死んだ?」
だから不安になって、そう呟いて目を開く。体を起こして辺りを見回す。そこが昨日と同じ墓地であることを確認して安堵すると、幸彦は立ち上がった。まだ早朝のようで、朝日は上空というよりもほぼ真横から伸びてきていた。
「変だな……」
昨日の戦いで荒れた墓を出来る範囲で修復しながら、幸彦は疑問を感じていた。怪我も疲労も全く無いというのは、気のせいではない。頭から血を流し、一瞬気絶するほどのダメージを受けたはずなのに、体がピンピンしているのだ。タフさには自信があるが、だからといってあの傷がたった一晩で治るのは明らかにおかしい。
(やっぱ、あいつが何かしてんのか?)
青い髪の少女──イラの顔を思い浮かべながら、幸彦は独白する。昨日のあの一撃を考えても、やはり彼女は普通じゃない。
(お、いたいた)
そんなことを考え散らばった墓石を拾い集めていると、奥の方で眠っているイラが目に入った。近寄ってその肩を撫でると、
「…………ん」
気の抜けた微かな声とともに、その瞼がゆっくりと開いた。宝石のような空色の瞳が左右を一往復した後、幸彦の顔の方を見て止まる。
「ゆきひこ」
「やっと起きた。立てるか? 帰んぞ」
そう言って差し出した幸彦の手を、こくりと頷いてイラは握るのだった。
5分ほど歩いて、幸彦の自宅にたどり着いた。日当たりが少し悪いが安い、小さなアパートの2階。その一番端の部屋に『207 運辺』と書かれているのを確認すると、幸彦はカバンから鍵を取り出して穴にはめた。
「……やべ。開けっぱだこれ」
鍵を回しても手応えを感じない。施錠がなされていない。そう理解すると、幸彦は慌ててドアを開けた。
木のフローリングの上に最低限の家具や生活用品と、少しの漫画本とゲーム機だけが置かれた質素な自宅。そのキッチンの方から、なにやら物音がする。
「おやおや、幸彦くん。帰ってこないから心配しましたよ」
「なんだ、先生か……」
幸彦は安堵すると、靴を脱いで中へ入った。隣にいたイラも、彼に手招きされて靴を脱ぐ。
そのままキッチンへ向かって見てみると、声の主──ひとりの若い男が鍋でなにやら作っていた。枯れ葉のような茶髪とメガネが特徴的な、長身の男。
「いや、"なんだ"じゃねえや。不法侵入してんじゃねえよ」
左目をメガネの上から前髪で隠しているその顔はミステリアスさを感じさせるが、それもそうだろう。不法侵入の不審者なのだから。
「鍵が開いてましたので。それに隣部屋のよしみ、担任と生徒のよしみ、その上顧問と部員のよしみじゃないですかぁ」
「全部言い訳になってねえ」
幸彦はかるくあしらうと、キッチンと繋がったリビングに向かい、ソファの上に適当にカバンを投げ捨てた。
「…………」
イラは周りをきょろきょろしながら、そんな彼の後ろをトコトコとついて行く。やがて男と目が合うと、困った顔でそっぽを向いた。
「その子は?」
「親戚。ちょっと預かることになって、その帰り道でトラブってさ。それでこんな時間になった」
「なるほど……はじめまして。幸彦君のクラス担任の、安藤晴明と申します。分野は民俗学と力学のハイブリッドです」
「ぶん……? うん、はじめまして。イラ」
イラの視線に合わせるように片膝を突き、従者のようにお辞儀する教師の安藤。そんな安藤に彼女は三言だけ返すのだった。
「ところで。嘘は感心しませんね、幸彦君」
「っ……なんだよ、嘘って」
「少々怪しいと思いましてね。御祖父母との同居を拒否して一人暮らしをしている君が、親戚の方を預かるという流れは」
痛いところを突かれたような幸彦の反応を見て、安藤は何かを確信したのか、さっきまでとは一転した神妙な面持ちになって言葉を続けた。
「別に……怪しくはねえだろ。俺は父さんと母さんが引き取った養子だから、関係無い親戚の世話にはなりたくなくて一人暮らししてんだよ。別に親族と仲悪いわけじゃねえから」
目を逸らしながら、そう言った。言っていること自体は事実だが、この場でイラのことを誤魔化す言い訳としては少々不自然だと分かっていたから。
「ふむ……」
案の定、安藤の顔色は良くならない。言い訳を紡いでいくのに必死な幸彦は、彼の顔色などいちいち見ていなかったが。
「ん」
だから、気付くのが遅れた。
「ゆきひこ、いじめたら怒る」
そう言いながら、両手を広げて安藤の前で通せんぼしているイラに。頬をぷっくり膨らませている彼女に。
「……ふふっ、いや失礼。子供に敵視されてしまうなど教師失格ですね」
勇敢だが間抜けなその行動が、ようやく安藤の口元を緩ませた。ナイス愛嬌ー、と幸彦はほっとしながら独白する。
「分かりました、ひとまずそういう事にしておきましょう。さーて、それでは」
安藤はそう言ってすたすたとキッチンに戻ると、先ほどの鍋の蓋を開けて。
「朝食にしましょうか。先生からのご馳走ですよ」
出汁の効いた味噌汁の香りが、ソファに座る幸彦の元まで香ばしくやってくるのだった。
「んで、美味えんだよな……」
「うん、うん」
「毎日飯だけ置いて、どっか行っててくんねえかなぁ」
「それはかわいそう」
朝食を食べ終えて顔を洗い、幸彦とイラは外へ出ていた。あの掴みどころのない男が作ったとは思えない出来の味噌汁や焼き鮭を思い出して不思議がる幸彦に、イラもこく、こくと頷く。
「とりあえず、お前の力のことは他の人らには秘密な。昨日の夜鬼は俺がどうにかしたってことにしとくぞ」
「うん。自慢話すると、嫌われちゃうから」
「そういうワケじゃねえけど」
やがて二人は、大きなガラスの戸の前で足を止める。湊原第一高校──幸彦たちの学校の昇降口だ。
「そこのスリッパ履いてけ」
「うん」
イラは幸彦が指差した先、昇降口の端に積まれたスリッパを一足持ち出して校舎に上がった。幸彦も上履きに履き替えて上がると、イラを手招きして階段に足を乗せる。目指す教室は3階だ。
「これが、学校?」
「そ。昨日会った二人いたろ? あいつらが待ってっから」
左右をきょろきょろしながら尋ねるイラに、幸彦はそう返す。たん、たんと階段を踏む音ばかりが鼠色の廊下に響く。
「学校行ってねえの?」
「わからない。でも、行った覚えは無い。だから行ってみたかった」
「ふーん……」
イラは見る限り小学生、あるいは中学生になりたてだ。それなのに学校に行った記憶が無いとなると、かなり大部分の記憶を失ってしまっているということになる。
親も家も分からないと言っていた。家のことも、学校のことも分からないのなら──
「逆にさ、何なら覚えてる?」
そんな疑問が浮かんだ。尋ねられたイラは、階段を上がりながら顎に手を当てて上を見上げる。
「んーと…………あっ」
そんな風によそ見をしたからか、知らぬ間に足を踏み外していた。
「おまっ……」
幸彦が一歩後ろにいたのが幸いだった。バランスを崩して後ろへ流れるように転落しかけたイラの体を両手で受け止め、想定していたよりも重いその質量を踏ん張って支えながら立たせてやると、「危ねえな……」と声を漏らすのだった。
「ん。ごめんなさい」
「いいって。ほら、行くぞ」
頭を下げるイラを横目に、幸彦はまた歩き出す。
「……あ」
ふと、イラがまた声を上げた。
「何だよ。なんか覚えてることあった?」
声に反応して振り向くと、幸彦が尋ねた。イラはこくりと頷いて、また口を開く。
「わたし、幸彦に抱きかかえてもらった。うん、覚えてる」
そしていつになく真剣な表情で、そう言うのだった。
「は……?」
幸彦はそう返すしかなかった。頭を撫でてやったり、肩に手を置いたりはしたが、抱きかかえた事なんて──
「……ぶふっ! あ、そーゆーことね!」
幸彦は何かに気づいたように突然笑った。
「?」
「いやさ、それ今の話だろ! そりゃお前覚えてるわ、今さっき起きた事なんだから……んなマジな顔でボケんなって! ククッ……」
幸彦はクスクスと肩を震わし続ける。予想外のことでツボに入ったらしい。
「……そういうこと、なのかな……」
おかしさのあまり、イラがそう呟いたのを聞き逃した。
「……うん。多分、そう。それでいっか」
イラも幸彦が笑ってくれたことが嬉しかったから、適当に結論づけてまた歩き出してしまうのだった。