#3「イラ」
まだ終わってない。
立て。
お前はまだ、何も守れていないじゃないか。
守ると、誓ったじゃないか。
「ゆき……ひこ…………」
血を流して動かなくなった幸彦を見て、少女が掠れた泣き声を漏らす。何も覚えていない、何もわからない彼女にとってたった一つの希望だった彼が、目の前で力尽きたのを見て、絶望することしかできなかった。
そして──そんな絶望が、彼はこの世で一番嫌いだから。
「………………お、う」
だから。彼は死にかけたボロボロの声で、だが確かにそう応えた。そして傷だらけの体に鞭を打って、ゆっくりとまた立ち上がった。
「悪い。ちょっと……寝ちまってた」
「?」
三つ目の夜鬼は血まみれの彼が生きていることを不思議がり、今度こそトドメを刺そうと左足を上げる。
幸彦を踏み潰そうと、巨大な足が迫る。死が質量を宿して降り掛かってくる、と言うような様相だった。
「とろい、んだよ」
呟き、幸彦は吹っ飛ぶように横へ跳んで、踏みつける夜鬼の足を避けた。失血でくらくらする頭ではまともに着地も出来ず、また地面に転がる。トロいのはどっちだ──思わず自分に突っ込んでしまい、こんな状況なのに口元が緩んでしまった。
夜鬼は上半身を傾けると、再び身動きが取れなくなった幸彦に向け、今度は少女を掴んでいない方の腕を伸ばす。そうして捕まえようとするのを──。
「食らえッ!」
「!?」
幸彦は待っていた。体をひねり、倒れた隙に隠し持っていた石を、残った力を振り絞って投げつける。
「!!!!!!」
夜鬼の顔に真っ直ぐ飛んでいった石が、右の目に突き刺さった。夜鬼は苦しげに両手で目を押さえて数歩後退し、そのままバランスを崩して派手な音と共に石の地面に倒れ込んだ。もっとも、この音も夜鬼が見えていない他の人間には聞こえないのだろうが。
「あっ……!」
夜鬼が目を押さえたために手の中から解放された少女が、小さな悲鳴と共に着地する。
「無事、か?」
「うん。土のとこだった」
途切れ途切れな言葉で案ずる幸彦に、少女は地面を指差しながら答えた。
「おし。じゃあさっさと逃げろ」
横たわりながら、幸彦は駆け寄ってくる少女に言う。少女は何も言わずに幸彦の元まで走ると、そこで立ち止まった。
「……は?」
幸彦が声を漏らした。
「できない」
少女がそう言って、彼の前で通せんぼをするように両手を広げたから。
「幸彦、ボロボロ。だから逃げて。わたしがなんとかするから」
その声は震えていた。
「わたしには……わたしには、何も無いけど。あなたは友達がいる。"おはか"にも、ちゃんとお花を持って来なきゃいけない」
そのか細い指は震えていた。
「だから……だから。あなたが……生きて」
小さな体を震わせ、流暢に話せないほど怖がっているのに、それでも守るように幸彦の前に立っていた。
「ふざ……けんな。ビビってる、くせに」
「うん。怖い……でも、これでいい」
「ッ……良いわけ、あるかよ!」
「いいの」
「良くねえ!!」
「いい!」
涙ぐんだ声で、少女が叫んだ。
「……ありがとう。話してくれて。頭、なでてくれてありがとう。うれしかった。だから、わたしはもういい。わたしはもう──」
夜鬼は再び立ち上がり始め、三つの目で2人を凝視していた。少女は怯えながら、逃げずにその目に立ち向かい続けていた。
「違えよ」
「……!」
幸彦は地面が抉れるほど両手を強く握り締め、血に塗れながら無理やり立ち上がる。足を引き摺るように少女の隣へ歩み寄ると、その肩に手を添えた。
「お前が良くたって……俺が良くねえんだよ!」
幸彦は叱るように、強くそう言って。だけどその後、柔らかく微笑んだ。
「さっき、話しただろ。誰もひとりぼっちなんかじゃない、って」
俺はさ。幸彦はそう続けた。
「父さんと母さんが死んだ時、心がぐちゃぐちゃになって。大事な人が死んでこんな思いするぐらいなら、もう誰とも関わりたくないって思って、ずっと1人で生きてたんだ。でも無理だった。結局俺は人が恋しかったから、気づいたら衆と楓と友達になってた」
ひとりぼっちじゃないってか、"ひとりぼっちじゃいられない"のが正しいかもな。そう話す幸彦の顔を、少女は涙ぐんだ目で見つめていた。
「俺はさ……多分、ワガママなんだよ。ひとりぼっちじゃいられなくて、そばにずっと誰かがいてほしい。けど、その誰かがいなくなる悲しみはもう味わいたくねえんだ」
だから──だから、運辺幸彦は。
「俺は。強くなるって決めた。失いたくねえから、二度と失わねえように、強くなって俺が全部守る。そう誓ったんだ」
そんだけ。そう言うと、幸彦は左手で引きずっていた木刀を両手で構えた。体がボロボロなせいで、木のはずなのに鉛のように重たい。だけど守りたいから。守るために、しっかりと両手で握りしめた。
「ゆき……ひこ……!!」
少女は泣きながら、嗚咽するようにその名を呼ぶ。その涙だけで、自分には十分だと思った。
「俺の方こそありがとな。そばにいてくれて。俺と出会ってくれて。お前のことも、ちゃんと守るよ」
もう、木刀を振る余力までは無い。次の攻撃できっと死ぬだろう。やり残したことは多いけれど、まあ悔いはない。少女を庇うように前に立ちながら、幸彦はそう思った。
ふと、木刀が軽くなった。
「……?」
「いっしょに」
見ると、少女がそう呟きながら、幸彦の手の上から木刀を握りしめていた。
「幸彦は、わたしを守りたい。わたしは幸彦を守りたい。だから守る。わたしたちで、わたしたちを守る」
涙を流しながら、少女はそう言った。
「プフッ。なんだそれ。滅茶苦茶じゃねえか」
あまりにトンチンカンなことを言うから。こんな状況だというのに、幸彦は思わず笑ってしまうのだった。
「!!!」
夜鬼は完全に立ち上がり、2人を踏みつけようと右足を上げていた。威圧的な殺意とともに、巨木のような足が迫り来る。
「お願い。幸彦」
「……わーったよ。そこまで譲らねえってんなら、そのワンチャンに賭けてやる」
幸彦は右手で。少女は左手で。木刀を握り締めると、少し後ろに引いた。
「精一杯気合を込めろ。足に向けて真っ直ぐ突き出して、跳ね返すぞ」
「うん」
赤いオーラが小麦色の刀身に宿り始めた。結局これがどういう力なのかは、分からずじまいだったな──そう思いながら、幸彦は木刀に気合を注ぎ込んだ。
「気合。気合!」
少女もそう言いながら、強く木刀を握りしめた。その手から青いオーラがほんの少しだけ流れ込んでくるのが、幸彦の目に見えた気がした。
(気のせいか……)
幸彦はすぐに正面に目を向ける。足はすぐそこまで迫って来ていた。さあ、一か八か──。
「……って熱っつ!!??」
一瞬の間を置いて、幸彦は叫んだ。木刀を握りしめた右手が、炎に焼かれるように熱かったから。
「な…………はぁ!?」
幸彦は木刀の方を見る。さっき気のせいかと思ったあの青いオーラが、再び木刀に宿っていた。
「気合……気合……気合!」
少女は繰り返し呟きながら木刀を握り締める。集中しすぎて、幸彦が手を離していることにも気が付いていないらしい。
そして、木刀には青いオーラが蓄積し。それは最早オーラというよりも炎、いや爆炎のように輝いていた。幸彦が宿せる全力・最大のオーラと比べても、その輝きはレベルが違った。辺りを眩しく照らし出す蒼に、今が昼間なのではないかと思わず錯覚する。
「!?」
夜鬼も異変に気がついたのか、足を引っ込め引き下がろうとする。だが、もう遅かった。
「やあああああああぁぁぁっ!!!」
少女は思い切り木刀を前に突き出した。オーラは巨大な槍のように真っ直ぐ飛んでいき、肉を焼き尽くすようにして夜鬼の巨大で禍々しい胸を一瞬にして貫いた。
「──────」
最早、夜鬼から殺意は感じられなくなった。ただの黒い骸となったそれは、灰のようにその体をすり減らしていき、やがて消滅した。
「……んだよ、今の」
訳がわからない。訳がわからなかった。ただの少女のどこにあんな力が──?
「……ッ」
「あっ……おい!」
木刀を落とし、力尽きるように座り込んだ少女を見て、幸彦は体を引きずるように彼女の元へ向かった。
「大丈夫。ちょっとつかれた」
「そっか……いや、それより──」
今のはなんなんだ。そう尋ねようとした時、思考がショートした。
「幸彦!?」
「……悪い」
一瞬、脳が活動停止した気がした。どうやらまた、倒れ込んでしまっていたらしい。今もまだ、頭がぼーっとする。幸彦も幸彦で疲れ果てていたようだ。
「平気だよ。一晩寝れば治る。体のタフさは自信あんだ」
「うん。分かった」
そう言うと、少女は安堵したように微笑んだ。
「幸彦。ちゃんと守れたね」
「おう。なんとかな」
体はボロボロなのに、なぜか少しも苦しく無い。それどころかなんだか気分が良いなんて、どうしたんだろう。二人ともそう思っていた。なんだかおかしくて、二人は顔を合わせて笑った。
「……名前さ。思い出すまで、俺が考えた名前で呼んでも良いか?」
「うん。かっこいい名前がいい」
「かっこ……あー。多分かっこいいんじゃねえかな」
何故かキリッとした顔になって、少女が答えた。
「俺、マジでお前に会えて良かったと思ってる。今この時に。だからさ」
幸彦は少女の顔を指差し、また口を開いた。
「時。どうよ」
「……うん。イラ。わたしはイラ。ありがとう」
静寂の中、柔らかな夜風が吹いた。