#15「ここにいる理由」
どうしてあんなに強いんだろう──部屋で膝を抱え、イラは考えていた。
イラには何も無かった。生まれた時のことは覚えていない。気が付いたらそこにいた。だから、何故生まれてきたのかも、何をすればいいのかも分からない。過去も未来も、何もかも分からない存在、それが彼女だ。
それでもただ一つ、分かることがあるとしたら。
「…………私はまだ、幸彦に、なにも返せてない」
玄関の鍵は忘れずに閉めて。転ばないように靴紐を結んで。まるで人間のように振る舞いながら、家を後にした。
何も分からないけれど、でも空っぽではない。彼女の中には、運辺幸彦がいる。自分を肯定してくれた彼の声が、頭を撫でる彼の手が、イラの心を幸福感で満たしている。だから、自分も彼のようになれたらいいと思った。
「ううん。無理」
幸彦はあまりにも優しすぎる。誰かのために自分より強いものに立ち向かえる彼と、周りより強い力を乱暴に振り回した自分は、あまりにも違う。きっと、自分は彼のように優しくはない。ばけものなのだから。
それでも。それなら。
「私が、幸彦の力になる」
せめて、彼の役に立つばけものでありたかった。
「出て、きて」
湊原第二高校の目前まで辿り着くと、伏せていた顔を上げ、イラは言った。今度は虚空へ向けた独り言ではなかった。
「仕事があるというのに……のこのこと、どうしたんです? 祓われる気になりましたか」
今までのひょうきんな彼とは違う、冷酷な声。
白衣に白髪のオカ研顧問は、瞬き一つの間に目の前にふっと姿を現していた。
「私の力、かえして」
「ああ……幸彦くん達が気がかりですか。案の定勝手に動き回っているようですが……本当に危険な状況になればすぐに私が対応しますよ。先ほども私の仕掛けが一つ作動したようですしね」
ご心配なく。安藤はそう付け足した。
「それは、ありがと。でも私も、この手で、幸彦を守りたい。だから──」
──重力。突如流れ込んでくる、鉛を飲まされたような苦しさ。うつ伏せで透明な巨人に踏み潰されるような感覚。
「……ッ!?」
地面のコンクリートにヒビを入れるほどの重圧に顔を歪ませながら、イラはなんとか正面を見上げた。
「下手な言い訳が出来るだけ、夜鬼にしては知恵があるようですが……交渉の相手が悪かったという所ですね」
「違っ……私は、ほんとに……がっ!?」
内臓が潰れそうなほどの重み。ぺしゃんこになって死んだのではないかと、一瞬自分を錯覚するほどの重力。彼の方がよっぽどばけものだ──胸の内でこぼしながら、イラはどうにか両手に力を込めようとした。
「既にここ一帯には特殊な結界を貼りました。ここであなたがどうなろうが、外の人間からは見えず、感知もできません。分かったら消滅させられる前に引き返して、部屋でじっとしていることです」
そこまで言われて、イラにもようやく分かった。
まだ彼が刃を振り下ろしていないだけで、自分はもうとっくにギロチンに縛り付けられていたのだと。
「私はね。もうあなたに随分と猶予を与えていましたよ」
ちょっと甘すぎるくらいにね──安藤はそう付け足した。
「夜鬼は人を襲う敵です。本当なら、存在すらしてはいけない。だから消します。誰かが殺されてからでは遅いですから」
存在してはいけない。敵。ばけもの。
面と向かって言われて、再確認した。自分はその言葉に反論など出来ないと。
「…………そんなの、わかってる」
そして、だからと言ってうなずいてそのまま死ねるほど、自分は空っぽではないのだと。
手足にありったけの力を込め、刃を食いしばる。立った。重くて立てないけれど、立たないといけないから、立った。
「私は……ばけもの。いつか、他の夜鬼みたいに、暴れるかも。だから、いつか、殺してもいい」
足が震える。崩れ落ちそうになる。だけど、イラは痛みを堪えて踏ん張った。彼ならきっと、ここで倒れたりはしないと思うから。
「でも、それまで……その時までで、いいから。私に、幸彦を守らせて」
「言っているでしょう。その役目は私が果たします。だから、あなたは──」
「それじゃ嫌だッ!!」
イラが叫んだ。潰れそうな体で無理やり声を捻り出したせいで、肺が痛む。それでも、また息を吸った。
「幸彦が、私に名前をくれた! 居場所、くれた! あったかいものを、くれた! 何もかも、もらった! なのに……なのに、まだ何も返せてないから!」
途切れ途切れになる言葉を、それでも紡いだ。
「私が……私がこの手で、何かを返す前に死ぬなんて、絶対嫌だッ!!」
やりたいことは、ただそれだけ。
ただ、隣でぬくもりを分かち合いたいだけだった。
「それが、本心ですね」
数秒の沈黙の後、安藤が静かにそう尋ねた。
「……うん。だから……お願い」
イラはそう答え、重圧と痛みに震えながら頭を下げる。
「………………はぁ」
返答は一つのため息だった。
「……?」
飛んだ? 体が跳ね上がって──違う、重くなくなった。不思議な能力が解除されたのだ。同時に、体の痛みと疲れが引いていく。この回復力も、夜鬼の超常的な力の一つなのだろう。
「あぁーーーもう!! 全く、我ながら情けない……あれだけ言っておきながら鬼になりきれないとは!!」
「せん……せい?」
「半端者!! 嘘つき!! 一生独身!!」
自虐しながら自分の頭を殴りつける。唐突にいつもの安藤に戻られ、イラは困惑を隠さずにいた。
「いや正直ね、イラさん……最初は容赦なく消すつもりでいたんですよ。ただ学校を壊したとはいえ、生徒を守ってくださった恩はありますし、最後に話ぐらい聞いてやってもいいかと……それで、結局これです」
「……? どういう、こと?」
「だから! 一旦保留! ひとまず許すってことですよ!」
「ん。ありがと」
苦言の一つも漏らさずに、イラはうなずく。酷い目に遭わされたことより、説得が通じたらしいことへの嬉しさの方が大きかった。
「絶対、幸彦の役に立つから」
「そうでないと困ります。では、アパートに戻るとしましょうか。あなたの封印を解くのに、色々準備が必要なのでね」
「ん」
一音だけの返事とともに、イラは歩き出した安藤について行った。
「……向こうで怒っていますか?有夢さん」
その最中。誰にも聞こえない声で、安藤は空に向けてふと尋ねた。
「あなたを殺した者たちを、僕は許してしまった」