第3回
気がつくと空の色は茜色に染め上がり、カラスも寝床へと帰っていくところであった。夕陽が古城のような洋館に当たり、燃え上がっているようだった。ツタのようなものが壁にまで侵食しており、館の前の庭もひどく荒れ、花壇には雑草が不規則に生え散らかしていた。ここまで手入れがされていないということは人は住んでいないのだろうか。
ユウは荒廃した洋館を見ながら夜のことを考えていた。洋館の後ろを見ると一本の小径が繋がっていた。しかし、もうじき暗くなる。これ以上歩くのは危険だろう、幸いにも寝床にもありつけたのだから今晩はこの洋館で過ごすことにしよう。僕は洋館の方に足を踏み入れることにした。塗装が剥げ赤錆が吹いている門は開きっぱなしになっており、入るのは簡単だった。青々とした薔薇の蔓が巻き付かれていたアーチをくぐると平面幾何学型の庭園が広がっていた。門の外から見るよりも広い庭だ。石膏の彫刻は魔物や悪魔のようなものが施されており悪趣味であったが、バラをふんだんに使った庭園で手入れはなされていないがかつては美しかったことが窺えた。庭の中央には池があり幾重にも重なった木の葉が浮かんでいた。リヴァイアサンだろうか?龍のような怪獣の彫刻を池が囲んでいる。気味が悪い。
数十段の階段を上っていくと洋館である。
「こんな森にあるんだもしかすると魔女の住処かもしれない」
僕はせせら笑いを払いながら階段を上る。走り続けたせいか足をあげるたびに太ももの裏につるような痛みが走る。上るたびに自分の体重と鎧の重みが足にかかり、体重という存在がなければいいのにと少し考えていた。ようやく館の扉の前までたどり着き、僕はゆっくりと扉を開けた。中からは生温くて埃臭い空気が入ってきた。僕の肺のなかを侵していくようだ。中には人気どころか灯一つついてはいなかった。玄関の中にはガシャガシャという金属音だけが鳴り響くのみで水を打ったように静かだった。
薄暗い玄関を見回すと中央には大きな階段があり、左右には長い廊下が広がっていた。廊下の先は暗く見えなかったがそれほど広い館なのだろう。まぁベッド、いや雨露をしのぐことができるなら贅沢は言わない。冒険の中では宿に泊まることは数少なかった。ほとんどはテント泊だ。四人はさすがに入らないので二つテントを作って二人ペアで寝ることになっていた。アンリと僕、ジョーとエレナでテントを分けていた。魔物の夜襲に備えるためパーティの中でも強いアンリとジョーは別れて寝ることは当然だったが、男女で分けた方がいいのではないかと少し思っていた。しかし、アンリは「私は寝相が悪いから迷惑を掛けられないわ。ユウ、一緒に寝てくれるわよね?」と聞かなかったので僕はアンリと夜を過ごすことが多かった。アンリの寝相が悪かったことなど一度もないのだが特に不満もなかったので受け入れていた。
ユウが寝室を探そうと左の廊下へ歩き出そうとしたとき、
「どなたかいらっしゃるのですか?」
どこからか若い女の声がした。僕は暗がりの中を見回すと、奥の部屋から背の低い影が出てきた。よく見ると車椅子に乗っていた。車椅子には喪服のような黒いドレスを着ており、カールがかった白い髪が特徴的な少女が座っており、人形のような華奢な腕で必死に車椅子を押して私の目の前にやってきた。
「お客様ですか。嬉しいですこの館に人が来るなんていつ振りでしょうか。ご拝見するに騎士様とお見受けしますが」
「ええ。旅の途中に仲間とはぐれてしまいまして。森に迷い込んだらいい洋館を見つけまして。まさかお嬢さんがいるとは思わず...」
「いえ。もう遅いですし、よろしければ旅のお話でもお聞かせくださらないでしょうか。私のような不具者にはそれくらいの楽しみしかありませんの」
と自虐気味に笑った。そして思い出したように自己紹介をした。
「申し遅れました。わたくし、ビアンカと申します。以後お見知り置きを」
「僕はユウ。プライオン王国から旅を続けています。ビアンカ、とお呼びすればいいですか」
「まぁプライオン王国から!西の国からのお客様は初めてだわ。お好きなようにお呼びください是非言葉も崩してもらえれば。あまり硬い会話は苦手ですの」
「ありがとうビアンカ。ここは君1人が住んでいるのかい?」
「いいえ、召使いと2人で暮らしてますの。メル!」
「はい。お嬢様」
僕の背後から声がした。私は不意に振り返るとそこにはメイドがいた。セミロングの黒髪を上で纏め、端正な顔立ちをしていた。切長の目で僕の全体を眺めた後何も言わず会釈をした。
「ユウ...先にお風呂に入ってきてはいかが。その、あなたとても臭うわ」
ビアンカは言いにくそうに手で鼻を押さえながら入浴を促す。メイドは「浴場へ」と口数少なく案内する。僕も風呂に入りたかったところだ。頭は痒いし、鎧の下は汗でベタベタだ。額や顳顬には脂がギラギラと浮かんでいる。
浴場に着くと、「客人用のものですが」とパジャマを差し出してきた。「ごゆっくりどうぞ」と静かに帰っていった。物静かなメイドだ。
重く窮屈な鉄製の鎧を脱ぎ、汗で濡れたシャツを脱ぐ。うっすらと割れた腹筋の隣には生傷が絶えない。もう痛みはないが、僕はこの傷を見るのが嫌いだ。色々なことを思い出す。
浴場に入るとまるでプールのような大きな風呂があった。大理石でつくられた浴槽にはワニの石像の口から湯が注入されていた。
「1人で入るのがもったいないくらいだ」
1人で入るには大きい浴槽に入る。長旅の疲れが取れる。
暖かい風呂など何ヶ月振りだろうか。やはり沐浴では身体の疲れはとれきれない。風呂場を挟む帳が揺らめいた。
帳の向こうからビアンカを抱いたメイドが現れた。僕は絶句した。まさかお嬢さんが一糸纏わぬ姿で現れてくるとは。ビアンカはゆっくりと浴槽へ沈んでいく。スカートが濡れたことにもメイドは気も止めずそのまま浴場を後にした。
「お湯加減はどうかしら」
ビアンカはバレッタで髪を留めあげ、クラゲのように肢体をお湯の動きに任せていた。
「ああ、とてもいいよ」
「それは良かったわ」
「ビアンカ、その、胸くらいは隠してくれないか。こう解放的だと目の置き所に困るのだが」
ビアンカは脚や腕をひらひらと広げており、豊満な胸とピンクの突起が露わになっていた。女性経験の少ない僕には刺激が強かった。しかし、ビアンカはポカンとして
「どうして?わたくしは構わないのだけれど」
「僕が困るというか...」
そうなの、とビアンカは首を傾げながら両腕で胸部を隠してくれた。この様子では一緒に入ってきたのも冗談ではないようだ。
「いつもこの時間にメルが髪やからだを洗ってくれるの。もうすぐ戻ってくると思うわ。」
しばらくするとメイドが石鹸と布を持ってきた。バレッタを取り髪を解き、石鹸を泡立てて白い糸に泡を馴染ませていた。ビアンカは目を閉じ気持ちよさそうにしていた。
僕は浴場の壁画に視線を移していた。体が暑くなってきたが、これは風呂の熱量によるものではないことは自分でも分かった。壁画には魔物と人間の戦いが描かれているようだった。宗教画だろうかどうもこの洋館には悪魔や魔物が描かれたものが多い。
「ユウ」
ビアンカが声を掛けたかと思うと「身体を洗ってくださらない」と突拍子もないことを言い出した。僕は閉口した。メイドもゆっくりと首を縦に振っていた。洗ってくれということだろうか。僕はどぎまぎしながらメイドから布を受け取った。
「脚だけ...洗うよ。他のところはメルさんに任せます」
メイドは条件を受け入れたのか頷いた。僕はガラス細工のようなスベスベした左足を持ちあげた。力を入れずとも簡単に持ち上がった。布を脚に当て擦っていく。
「かゆいところがあったら教えてくれ」
「とても気持ちがいいわユウ」
ビアンカは僕とメイドに手足を持たれてからだを洗われていた。セミロングの白髪が浴槽の外に広がり、メイドに腕や胸を丁寧に磨かれていた。偶に「んっ」という艶めかしい声を発し、僕は興奮を抑え込むのに必死だった。僕は大根を洗っているだけなのだと自分で言い聞かせていた。メイドが終始無表情だったこともあり余計恥ずかしかった。
「大したものはないですけど、どうぞ召し上がって」
風呂にあがり、僕は広間に案内された。豪邸の食卓と聞くと長テーブルにやけに距離を離して対面で食べるようなイメージを持っていたが、8人掛けのテーブルに対面で食事となった。ビアンカに話すと「そんなのは絵本の世界くらいよ」と笑われた。だが、絵画にシャンデリア、別珍の椅子など僕からすれば十分絵本の世界だ。ビアンカは車椅子を動かし、定位置についた。
「ずっと一人での食事でしたからユウと食事が出来て嬉しいわ」
メイドと二人暮らしだものな。例え豪勢な食事であっても一人で食べるのは味気ないものだろう、僕は少し同情した。
「今日は干し肉しか食べていないからお腹が空いたよ」
「そうでしたの。では、すぐに用意をメル!食事を」
ビアンカが叫ぶとメイドはワゴンで食事を運んできた。赤い絨毯をワゴンが滑走していく。空腹であることとは別にラグジュアリーな感じがして興奮する。
前菜のスープとサラダが机に置かれた。なんということのないコンソメベースのスープであったが、レースのテーブルクロスと荘厳な内装のお陰か食欲をそそった。
「遠慮せずに頂いてください」
ビアンカの言葉に甘え僕は先に食事にありついた。ビアンカはワイングラスに注がれた水に口を付けていた。ドレスからネグリジェに着替え、体型がより強調されている。
「そういえば、ユウはプライオン王国から来たのでしたね。どうしてこのような地まで?」
「僕は王立の冒険者養成学校に通っていて、卒業した後仕事がもらえるんだ。僕たちのパーティーはこの先の魔王を討伐するため派遣されたんだ」
ビアンカは「魔王.....そうでしたの。」とスープをスプーンで掬い啜っていた。
「仲間とはぐれたと仰ってましたわね。他の方も王国の方でして?」
「うん。アンリとジョーはプライオン王国の生まれでエレナはフロイダ公国の出身だったな。エレナは魔法師でね。アンリは僕と幼馴染なんだ」
「そうですの。でもどうして冒険者になろうと思いましたの?決して冒険は楽ではないでしょう?」
僕はメインディッシュの鴨肉に手をつけていたが、ナイフを持つ手を止める。
「長く....なるけど」
僕はあまり乗り気ではなかった。これまでの冒険話は僕が聞いた大人たちのものとは違い情けないものだ。しかし、ビアンカは目を輝かせて「ええ。もう寝るだけですしゆっくり旅のお話を聞かせてくださいな」と話の催促をしていた。
「分かったよ。僕と幼馴染の女の子アンリが冒険者を志すようになったのは....」
この夜が長い長い旅話のはじまりだった。