二話
「…何一つ…見つからない…。」
私は城の執務室で、行儀悪く机に突っ伏して呟いた。王子妃教育の卒業試験の為、ルイーズの弱点を探し始めて早1週間。しかし、付け入る隙が全く見つからない。勉強も運動も魔術も軒並み学年トップ3以内に入る実力を持ち、生徒会活動もそつなくこなし、生徒や教師からの人望も篤い。改めて、我が婚約者殿は非の打ち所のない人物らしい。
「どうしたらいいんだ…。」
心苦しいが、何とか彼女には試練を受けてもらう必要がある。とはいえ、これでは彼女に何らかの危機に陥ってもらう事など不可能だ。そのきっかけになりそうなものすら見つからないのだから。私はもはや何度目になるか分からないため息を吐いた。
「随分お疲れのようですね、殿下。」
どのくらいそうしていたのだろうか。不意に頭上から声が聞こえて、私は顔を上げる。そこには見知った若い男がお盆を片手に立っていた。
「…レナード?」
「ノックはしたんですよ?お気付きにならなかったようですが。」
「…どうしたんだ、その恰好は。」
「ちょっと貴方にお話がありましたので、メイドにお茶を淹れてもらってきたんですよ。」
肩を竦めてそう言うと、現れた男――レナードは踵を返して部屋の入口の応接セットの方に移動し、持っていたお盆の上のティーカップとポットをテーブルに並べる。
「ほら、話を聞いてあげますから、こちらへ。」
「え、いや、しかし…。」
「王妃様から仰せつかったんですよ。相談に乗ってやって欲しいとね。」
面倒なのに来てやったんだ、と言わんばかりの表情でそう言うと、彼は私を応接用のソファに促した。
この男の名はレナード。レナード・クレイトン。そう、つまり、ルイーズの一つ年上の兄だ。彼は今年の春に学園を卒業し、父侯爵の下、王城で財務部の文官として働いている。兄妹揃って優秀な性質らしく、半年経った今では既に何人かの部下を従えているらしい。
私はルイーズと婚約してからは侯爵邸によく通っていたので、必然的に彼とも幼馴染のような関係だ。…妹を奪っていく男として、若干の敵意を向けられてもいたのだが。とはいえ、優秀な彼とはやはり馬が合うし、仲は良い方だと思っている。砕けた口調もいつもの事で、今や誰も咎める者はない。
私が困惑しながらソファに移動すると、彼もまた向かいのソファに腰かけた。
「…それで?我が妹に何をやらかそうとしているんです?」
にっこりと有無を言わせない笑顔で彼がそう言った。…ああ、これだから嫌だったんだ。
「い、いや…それはまだ…。」
「そうですか。…全く、王族というのは面倒なものですね。」
ため息を吐いて、レナードは自分の紅茶に口を付ける。私も同じく一口紅茶を口に含み、窺うように彼を見た。
「母上から全て聞いたのか?」
「まあ、大体は。」
面白くなさそうに頷き、彼はティーカップを置くと手を胸の前で軽く組んだ。
「危機に陥った時の立ち回り方を見る、と言われてもね。身内の欲目を差し引いても、あいつは優秀ですよ。危機になんてそうそう陥る事はないでしょう。もし暴漢やら人攫いに襲わせたとしても、魔術で吹っ飛ばして終わりです。まあ、予め薬でも盛って弱らせておけば…分かりませんがね。」
「そ、そんな事は断じてさせん!」
彼女に危害を加えるような真似は例え芝居でもさせるつもりはない。私がはっきりと否定すると、レナードは一瞬目を丸くして、すぐにふっと笑みを浮かべた。
「…それを聞いて安心しましたよ。万が一、そんな手を使おうとしているなら、今すぐにでも父に婚約破棄を進言しようかと思っていましたが。」
「…だが、彼女には弱点が見つからないんだ。」
「まあそうでしょうね。」
レナードはこっくりと頷いて、再びティーカップを口に運ぶ。
「なら、他人を使うしかないのでは?」
「?どういう事だ?」
「どこにでも、優秀な人間を陥れようとする輩はいるものですよ。」
そう言って、レナードは不敵な笑みを浮かべた。
その翌日。
私が中庭を見回りに歩いていた時だった。
「カーレル様!」
聞こえた声に私は反射的に顔を顰めた。馴れ馴れしく私の名を呼びながら近付いてくるのは、クラスメイトのシェリル・リーズレット男爵令嬢。学園入学当初から、彼女はこうして度々話しかけてくる。
普通、婚約者を持つ異性に軽々しく近付く事ははしたないとされる行為だ。しかし彼女は、『クラスメイトと仲良くするのは当たり前の事でしょう?』が持論らしく、誰彼構わず親しげに近寄っていく。一部の男達の間ではそんなところが純粋で愛らしいと人気があるそうだが、私にはさっぱり理解できなかった。とはいえ、立場上邪険に扱う事もできない為、最低限の距離を保って接しているというのが現状だ。
「どうかしたかい?リーズレット嬢。」
「いえ、お姿が見えたので嬉しくなってしまって!」
用もないのに話しかけるな、と心底思うが、それを顔には出さずに営業用の笑顔を貼り付ける。
「そうかい。すまないが私は今生徒会の見回り中なんだ。用がないならこれで失礼するよ。」
「あ、待ってください!」
立ち去ろうとする私に、彼女が慌てて手を伸ばす。
「まだ何か?」
「あ、あの、実は…ご相談したい事があるんです!」
焦った様子でそう告げる彼女。引き止める為の口実のようにしか見えなかったが、それでも相談があると言われては、生徒会長として放置もできない。私は仕方なく、彼女の話を聞く為に近くの東屋に移動した。
「それで、相談というのは?」
速やかに立ち去りたい私は早々に本題を切り出す。
「えと、気を悪くされないでいただきたいのですが…。」
「…どういう事かな?」
「その、ルイーズ様の事なのです…。」
彼女が話し出したのは、入学から今まで、度々ルイーズから嫌がらせを受けているという事だった。暴言に始まり、教科書を破かれたり、ものを隠されたり、集団で囲まれて暴力を振るわれたり…。それを何とかしたい、というのが彼女の言い分だった。
まあ、それが事実ならば生徒会としても何か対策を打つ必要があるだろう。そう、事実ならば、だ。
「…それで?証拠はあるのかな?」
「え、証拠…ですか?」
「ああ。仮にもルイーズは私の婚約者だ。その彼女を証拠もなく私に疑えと?」
そもそも、相談する相手を間違えている。彼女の事を婚約者の私に話してどうしようというのか。生徒会に相談するにしても、彼女に関係ない人物を選ぶべきだろう。現に今、私の怒りは最高潮だ。貴重な時間を使って話を聞いてやったというのに、こんなデタラメな、自分の婚約者を貶める話を聞かされるとは。私の静かな怒りを感じたのか、彼女は焦ったように視線をさ迷わせながらポツリと呟く。
「え…と、破かれた教科書と、その時一緒にいた友人…くらいでしょうか。」
そんなもの、いくらでも捏造が可能じゃないか。そう反射的に言いかけた時、頭の中に昨日のレナードとの会話が過って、私は口を噤んだ。
「…殿下?」
「いや…何でもない。…君の言い分は分かった。少し調べてみよう。」
私が何とか取り繕うようにそれだけ言うと、彼女は自分の言い分を信用してもらえたと思ったのか、嬉しそうに笑った。…私はひとかけらも君の話を信用などしていないのだがな。
とにかく彼女にはそのままお帰り願って、私は生徒会室へ向かって歩きながら、先ほど閃いた案について考えていた。
…あの娘の話を利用すれば、ルイーズの試験に丁度いいかもしれない。第三者によって無実の罪に陥れられた時、彼女が未来の王子妃としてどのような行動を取るのか。しかし、それにはもう少し、インパクトが必要だ。あの娘が自分の被害妄想を大きな声で語ったとしても、何の信憑性もない。適当にあしらわれて終わりだろう。
簡単にはあしらえない場所、真正面から勝負できるような状況が必要だ。そして、ルイーズが私にも誰にも頼れないような状態にする必要がある。その為には、私があの娘の言い分を信じていると思わせた方がいいだろう。
そこまで考えて私はため息を吐き、自分の頭をかきむしる。
自分で考えておきながら、気が進まない計画だ。これは自分にとってもルイーズにとっても好ましいやり方ではない。それに万一失敗したら…自分も彼女も悲惨な未来が待っている。
それでも、迷っている時間はない。期限の刻は迫っている。
「…大丈夫だ。ルイーズなら。」
彼女なら絶対に上手く対処してくれる。これまでずっと見てきたのだ。
彼女に賭けよう、私達の未来を。
決意した私はしばらくの間ルイーズと距離を置き、我慢してシェリルに付き合う事にした。表向きは仲の良い友人程度には見えるようにしておかなければ、色々と不都合がある。彼女の明らかな作り話は、聞いていて不愉快以外の何者でもなかったが、仕方がない。あと半年足らずの辛抱だと、私は自分に言い聞かせた。
過ごしている内に分かった事だが、どうやらシェリルは私の他にも高位貴族の令息ばかりを狙って近づいているらしい。なんと狡猾な娘なのだろうか。その相手が私の級友で、宰相の息子であるグレンや騎士団長の息子であるザキだった事にも驚いたが、それよりも彼らがシェリルの話を信じきっている事に何より驚かされた。
「殿下!殿下もシェリル嬢が気の毒だと思うでしょう!?」
「あ、ああ…そうかもしれないな。」
「あんな女が婚約者だなんて、殿下も大変っすね。」
真実も知らず、あの女の言葉だけを信じてルイーズを非難する彼らに、私は内心で激しい苛立ちを感じながらも、これまでの人生で身に付けたポーカーフェイスを駆使して何とかその場を取り繕う。
「殿下。私、殿下があのような方と無理矢理結婚させられるなんて黙っていられません!私に是非協力させてください!」
シェリルの言葉に、一体何をだ、と突っ込みたい衝動に駆られるが、それも何とか押さえて笑顔でかわす。そうして私は彼らと過ごす中で、ルイーズの卒業試験の決行日を、学園の卒業パーティの日に定めた。どういう意図かは知らないが、シェリルの希望でもあったそれが、確かに一番効果が高いと判断したからだ。
シェリルはルイーズと婚約を破棄する為に自分を利用すれば良いと言ったが、嘘でもこの娘と婚約するとは言いたくなかったので、丁重に辞退した。婚約破棄の宣言だけで十分だろう。後は多少ルイーズを追い込めるような証拠を提示させる事くらいだが、まあそれは本人達に任せるとしよう。そこまで付き合ってやる義理も理由もない。
それよりも、私は万が一の時の為の準備を進める方を優先した。計画としては、私がシェリルへのいじめを理由にルイーズに婚約破棄を宣言し、その冤罪に対し、彼女がどう立ち回るかを両陛下に見ていただくというものだ。聡明な彼女なら、こんな頭の弱い連中の言いがかりなど簡単に躱す事ができるだろう。しかし、王家に連なる者としてはそれだけでは足りない。如何に今後を考えて、最善の一手を打てるか、これが重要だ。
考えたくもないが、万が一彼女が不合格になった場合、私はこの婚約破棄を現実のものにせざるを得ない。とはいえ、それはあくまで王家の事情だ。このような謂れのない罪で婚約を破棄された令嬢だなどと世間に思わせるわけにはいかない。だからこそ、その場合はこの婚約破棄の設定をひっくり返す必要がある。その為の準備だ。これにはこの計画の起因ともなったルイーズの兄、レナードの協力を仰ぐ事にした。
そうして迎えた学園の卒業パーティ当日。
それぞれの進路も確定し、共に学んだ仲間達と自由に過ごせる最後の夜という事で、会場は文字通りお祭り騒ぎだった。私としてもこの空気を壊すのは忍びない。だからこそ、最初の間はなるべく普通に過ごしていた。とはいえ、この後の事を考えるとルイーズに近付くわけにはいかない。せっかくの学生最後の夜がこんな事になるなんて、半年前には思ってもいなかったというのに。私はルイーズに妙な気を起こす輩が現れないか警戒しつつ、シェリルやグレン達の傍で時間が経つのを待った。
ダンスも何巡目かを迎え、パーティも終盤に差し掛かった頃。私は意を決して壇上に登り、周囲と談笑している生徒達を見下ろした。後ろにはシェリル、グレン、ザキが控えている。ルイーズもちょうどホールの真ん中辺りのテーブルで仲の良い友人と談笑しているのが見えた。
…すまない、ルイーズ。
私は今から、君にとても嫌な思いをさせてしまう。
心の中で彼女に謝罪しながら、グッと拳を握りしめる。
…それでも、私は信じているから。
君ならばこの試練を、必ず乗り越えてくれると。
「楽しんでいるところすまない。皆に聞いてもらいたい事がある。」
私の上げた声に、周囲の者と会話していた卒業生達が何事かと私に視線を向けた。その中には勿論、ルイーズのものも含まれていて。そんな彼らの視線を受け止めた私は、一度目を閉じ深呼吸する。ここからは、完璧な仮面をかぶらなければならない。昔から敏い彼女には、すぐに私の嘘がバレてしまうから。
私は自分に言い聞かせ、目を開けた。そうしてもう一度、大きく息を吸い込む。
…さあ、始めようか。一世一代の大芝居を。