顕現
「汝、己が血肉を以て現世へと我を喚び出し、さして我に何を望む?」
凡そ人のものとは思えない厳然たる声が室内に響いた。まるでトンネル内のように音が反響して声が幾重にも聞こえる。
窓のない広い方形の部屋。壁板はきっちりと隙間なく打ち付けられており、外からの光が内に射し込むことはない。また、唯一外界との繋がりを持つ扉も外から閂で間隙なく閉ざされ、部屋の内部は暗闇に覆われている。部屋を灯す光は片手で数えられるほどの蝋燭だけ。今にも消え入りそうなか細い炎が部屋の中央をぼうっと照らしている。部屋に独りいる彼女には視界にぼやけた光が映るだけ。部屋は広く、その上光源も足りない。彼女のいる扉側以外の壁面は視認することさえできなかった。蝋燭の炎が照らしているのは、恐らくこの部屋の中心。そこには一本の注連縄が手前と向こうを別つように張られている。
____ここは境界である。こちらとあちらを分ける境界。現実と幻想を揺らす境界、人と神を結ぶ境界。下界と天上界を繋ぐ境界。生と不死を隔てる境界。ここは人の世で最も神に近い場所。そう、言い聞かされてきた。全国に鎮座する神社と同じ、それ以上の力場である。幼い時分から何度も何度も、毎日のように言われ続けた。それでも未だに信じられない。目の前で起こる超常的な現象が____
暗闇に支配された部屋の中に、ソレは目映い光と共に現れた。何もなかったはずの場所に、注連縄を基準線にして彼女と対称の位置にソレは立っていた。一目で人ではないと断定できる。存在そのものが人とは違う。しかし、それは儚い霊体ではない。人に害を為す妖の類でもない。人よりも、幽霊よりも、妖よりももっと上位の者。この場所の曰を差し引いても、少なくともそうであることを彼女は認識していた。
部屋を灯す蝋燭の炎は掻き消え、ソレに差す後光が部屋全体を明々と照らしている。後光が影を落とし、ソレの容貌の仔細はわからないが、漆黒で艶やかな短髪を持ち、足には足袋、白を基調とした羽織袴を着用していた。両手首と両足首に鈴を結いつけており、ソレが身を動かすたびに透き通るような鈴の音がしゃなりと鳴る。
「さあ、汝の願いを述べよ」
暗闇の中に輝いている者が一つ。注連縄越しに見るそれの姿は余りにも神々しく、心底圧倒される。抱いていた思いも、叶えたい願いも、状況に合わせて目まぐるしく動いていた考えも、すべてが頭から抜け落ちた。頭が空っぽになって彼女は答えに詰まる。しかし、ソレと目の前で相対することの重圧が彼女に答えを急がせた。
「____私と、結婚して!」
結果、咄嗟に口をついた言葉はそれだった。突然の求婚、旧知の仲でもなければ、お見合いをしている相手でもない。そもそも相手は人間ですらない。どう考えてもそれは頭のおかしな人間の言葉である。彼女自身もきっと、落ち着いた状況でこの時を顧みれば、赤面して両手で顔を覆うだろう。しかしソレは一瞬目を見開かせ驚いた様子を見せたが、すぐに口角を吊り上げて笑った。
「その願い、確かに聞き届けた」
ソレは歩き始め、ゆっくりと彼女に近付く。手足に結いつけた鈴の音を響かせながら厳然とした様子で歩いている。部屋の中央まで来て、注連縄を跨いで地に足を着ける。その時彼女はそれを目撃した。床は一面平面であるはずなのに、どこにも段差なんてないはずなのに、ソレは確かに上段から下段に下りた。まるで家の中と外を繋ぐ玄関のようにそこに段差があった。ソレはこちら側に降りてきたのだ。
しゃなりと鈴の音が鳴り、注連縄の向こう側が虚無に変わった。
それはこちら側からは越えられない境界である。あちら側から扉を開いたであろうソレが地に降り立ったことで、高天原はその扉を閉ざす。一度こちらに来てしまえば簡単にあちらに帰る方法はない。そんな大凡一方通行な道程をソレは越えてきた。躊躇いはない。彼女はその悠然とした姿に呆然と見蕩れていた。
ソレは自分の背後で起こっている境界の消失に毛ほども関心を見せず、歩を進め続けた。しゃなりしゃなりと鈴の音を響かせ、今まさにソレは彼女の目の前にいる。片膝をついて彼女との視線の高さを少しでも是正する。蝋燭の炎が消え、光源を失った部屋において、光を放っているのはソレのみである。正確にはソレを照らす後光である。
「では、私の求婚を受けてくださるかな?」
「____え____」
ソレは彼女の手を取り確認を取る。が、しかし彼女の返事は曖昧なものだった。
「__あ……えーと…………親が許してくれないかなー」
「それならば先に御両親に挨拶をしに行こうか」
目を泳がせて焦りを隠せずにいる彼女に、ソレは次善案を出す。
「__絶対に許してくれないと思う…………います」
彼女は申し訳なさそうに言う。丁寧に言い直そうとしてしまうほど。
「絶対に?」
「絶対に」
確認を取るが返ってくるのは肯定の言葉である。彼女の言葉にソレは思案する。
「一応確認を取るけど、君は結婚をしたいと思っているんだよね?」
そこには最早初めの厳かさも、その後の丁寧さも残っていなかった。
「それはもう!」
彼女はソレの羽織の肩口を力任せに引っ張るが、ソレは微動だにしない。代わりに彼女の体がソレに引き寄せられ、胸に抱き着くような形となった。予想以上の喰いつきだった。そんな彼女の様子を見て、ソレはある決心をしたのである。
「____わかった。それならば『駆け落ち』をしよう」
「『駆け落ち』?」
「愛し合う男女が、家族や周囲の人間の反対を押し切って、遠くに逃げてでも添い遂げようとすることだよ」
「私、あなたのことを愛していませんが?」
純粋な眼差しで彼女は問いかける。彼女の質問は最もである。最もであるが、だからこそソレは肩を落とす。
「僕も君のことを愛してはいない。何せ今が初対面だ。お互いに何も知らない状態なんだから、愛することも、愛されることもできはしないさ。でもそれはさして重要じゃない。愛し合うことはこれからだってできるのだから」
それは『結婚』であっても同じことだ。
ソレの説明を聞いて彼女は納得を見せる。そして彼女にとっての最重要の事実確認をする。
「『駆け落ち』をすればここから出られますか?」
「もちろんだとも」
返ってきた答えは是である。それならばもう彼女にとって迷う理由など一つもない。
「それなら! 『駆け落ち』よろしくお願いします」
「ぶふっ__」
彼女は深く頭を下げた。自分の未来のためにお願いをするのである。にも拘らず、ソレは吹き出すように笑った。ソレにしてみればそんな莫迦げたお願いなど聞いたことがなかった。要約すれば、初対面の相手に『駆け落ちしてください』だ。こんなに面白い人間は見たことがない。ソレが笑っていることに対して不思議そうに見上げる顔がまた可笑しくて、ソレは笑いの土壺に嵌っていく。そうしてソレはこっそりと彼女に対する好感度を上げて、もとい、愛を芽生えさせているのだった。
一通り笑い切った後、ソレは彼女の願いに対する返答をする。
「その願い、叶えて進ぜよう」
ソレは彼女を抱き上げた。左腕を彼女の背に、右腕を腿の裏に回して____俗に言うお姫様だっこである。
「どうして私を抱きかかえているの?」
彼女の間の抜けた問いに、ソレは嬉々として答えた。
「古来より、男が女子を攫うときは、こうするのが習わしなんだよ」
「私、攫われちゃうのね!」
目を輝かせて、随分と嬉しそうに笑う。彼女のそんな様子にソレは気分をよくするのだった。
「では手始めに、ここから出ることから始めよう」
それが、彼女の最初の願いだ。初めから____彼女がソレを喚び出した時からそれが彼女の望みだった。それを失っても、彼女はソレに求婚をしていた。それは嫁に行けば家から出られる。という知識から咄嗟に導きだした答えだろう。だから彼女はあんな質問をしてきた。
ソレが扉に手をかざすと、ごとりと音がして外の大きな閂が地面に落ちる。あとは軽く押すだけでギィーと軋む音をさせながら分厚い扉が開いた。その扉の先に在るのは____光だ。それは彼女が待ち望んだ外の世界。求めて止まなかった太陽の光だ。
彼女は自分を抱きかかえているソレを見つめる。外の光に照らされて、その容貌が確と見える。面長で整った顔立ちに、優しく彼女を見つめる双眸。キリッとした男性然とした眉目と、彫が少なく鼻も高くない日本人風の顔。それは暗闇の中、暇を持て余した彼女が夢想していた運命の人の容貌そのものだった。ソレ____いや________彼は彼女に笑いかける。
「さあ、行こうか」
この瞬間、彼女は彼に恋をした。幼い頃から一日の大半をこの暗闇の中で過ごした彼女にとって、この檻の中から連れ出してくれる存在こそが英雄であった。いつか自分だけの英雄が自分を助けてくれると、毎日のように夢想していたのである。そして、それがあったからこそ彼女はこの境界に呑まれながらも壊れずに済んだのである。彼は、それこそ出会うよりもっと前から彼女にとっての心の拠り所となっていたのだ。
これは神に愛された人間と、人間を愛した神様の恋物語である。
いずれ続きを書く予定。もし気に入っていただければ続編期待コメントをしてください。




