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『内緒のはなし』

作者: pino

 

 お見舞いのために、受付で名前を書いてから病室へ。普段通り、三〇五号室が目的地だ。最初は何度か道に迷ってしまったし、病院の人に迷惑をかけてしまったけど、今なら目をつぶってだって行くことができる……は言い過ぎか。

『こんにちは』

『あら、渡辺さんのところのお孫さんね、こんにちは。おばあちゃん、来るの楽しみにしていたわよ』

 丁度病室から出てきた看護師さんに挨拶をする。何度も通っていたらそりゃ顔も覚えられるよね。

 私は病室のドアを開ける。

『おばあちゃん、来たよー』

「おっ、よく来たね」

 おばあちゃんは白い清潔なベッドの上で上体だけ起こしていた。病人用の服を着ているのにもかかわらず快活に笑っているから忘れてしまいがちだが、れっきとした病人である。

『体起こしてて大丈夫なの?』

 私はベッドの横にある椅子に腰かけながら尋ねた。微々たる違いではあるが、前回お見舞いに来た時よりも線が細くなっている気がする。

「大丈夫、ハルは心配し過ぎなんよ」

 そう言っておばあちゃんは枕元にある録音機のボタンを押す。

『本当は声も出してもらいたくないんだけど……やっぱりやめようよ、多分きつい時間が増えるだけだよ、診てもらってる先生からもいろいろ言われてるんでしょ? 声のこと』

「先生は安静にしていればまた普通に生活できる、なんて言ってるが、ありゃ嘘だね、自分の体のことくらい分かってるさ。ウン十年って使ってる体なんだからね。……ってことで私は声を出すのをやめる気はないよ、何より折角声が出せるのにもったいないじゃないか」

『でも…………』

「ほらほら、そんな顔しなさんな」

 カッカッカッと、病室におばあちゃんの笑い声がこだました。



 *



 〝声死〟というものが存在する。

 文字通り声の死ならばまだいいのだけれど、少し違う。声が出せなくなるのではなくて、声が出せなくなるのと同時に死んでしまうのだ。

『――い、――ル』

 声を出せば出すほど声は高くなっていき、死期が近づいていく。つまり私たち人間は、一生のうちに出せる声の量が決まっている。だからこそテレパシーで意思が伝えられるように進化したらしい。普段私たちはこちらで会話している。詳しい原理は知らないけれど、蝙蝠かイルカと似たような感じだった気がする。

『おーい、――ルさんや』

 でも今、おばあちゃんはそれを知っていてもなお声を出し続けている。それって、早く死にたいってことなのだろうか。あんなに楽しく話しているのにそんなこと考えるはずない、と思いたいけど――

『ハルッ!!』

『ッひゃい!!』

 急に耳元で名前を呼ばれてビックリして上ずってしまった声。目の前には腹を抱えながらも声を殺して笑う男友達が一人。学校の教室であんな声を出すなんて……周りからの視線が痛い。これが漫画のシーンならきっと今の私は顔が真っ赤だ。

『彰人か……驚かせないでよ頼むから……』

『いや、めちゃくちゃ神妙、っていうか変な顔してたから声かけたのに気づかないんだもんさ、どちらかと言えばお前が悪い』

『……反論できません』

『よろしい、で、何考えてた?』

 彰人が目の前の席に座る。案外小さいころからの付き合いだが、こういうとき彰人は頼りになる。一人で悩んでいても仕方ないか、と思い直して私はおばあちゃんのことを話すことにした。


『――――なるほどね』

 どこから取り出したのか、いつの間にか彰人はあんぱんを片手に私の話を聞いていた。

『で、お前はできれば止めさせたい、と』

『そりゃそーだよ、少しでも長生きしてほしいし』

『ふーん、でもまぁ俺だったら好きに話したいなぁ』

 彰人が二つ目のあんぱんを取り出す。

『そのこころは?』

『今までほぼ喋ってこなかったんだろうし、死ぬ前くらいめいいっぱい話しとかないともったいないだろ』

『あ、おばあちゃんと同じこと言ってる』

『下手なこと言えないけど、そこはばあちゃんの好きにさせてやれば? いっぱい話したほうがそのばあちゃんも喜ぶだろうし』

 そう言って彰人は三つ目のあんぱんの袋を開ける。

 三つ目……?

『……あんた何個あんぱん持って来てるの』

『え、五個』

『一つ頂戴』

『……後で金払えよ』

『了解です』

 当たり前かもしれないが、そのあんぱんは甘かった。



 *



 私がおばあちゃんのお見舞いにこんなに頻繁に行っているのは病院が近いから、という理由もあるが、何より相談したいことができたときおばあちゃんを真っ先に頼る癖がついているからと言っていいと思う。両親は共働きで日中は家にいなかったから、小学校卒業までは家ではなくそのままおばあちゃんの家に帰っていた。中学校でも同様である。そのためかやはり高校に入学してもこの癖は変わらないらしい。かといっておばあちゃんは楽しそうに聞いてくれるから、変える気もさらさらない。

『ハァー……』

 今日も学校が終わり次第病院へ。バス一本二十分ほどで着く。ただ、バス代は授業の合間の間食を減らすことでやりくりしている。夏は暑くて食べようという気にはなれなかったけれど、涼しくなり、秋だなぁ、と思うと何故か食欲が出てきてしまうものだ。先日のあんぱんは少々違うのだが。

「何か、悩み事かい?」

『えっ、あっ、えーと……』

 病室に入ってすぐに問われて言葉に詰まる。いつもなら遠慮なく相談事を口に出すのだが、今回の悩み事はちょっと複雑だ。一呼吸置いて椅子に座った後、私は遠慮がちに応えた。

『……〝声死〟ってなんであるのかなーって、思って……』

 消え入りそうな調子で疑問を口にすると、おばあちゃんは目をパチクリさせた後、にんまりと顔をほころばせた。

「ふーん、ほぉー、ふふふ、誤魔化したね」

『……誤魔化してない』

「じゃあ、そう言うことにしておこうか」

 ふふふ、と軽く笑うおばあちゃん。

「それで、どうしてそう思ったんだい?」

『おばあちゃん最近ずっと喋ってるでしょ? だからいろいろ考えてたんだけど、声出したから死んじゃうっておかしくない? 他の動物だって鳴いたり声みたいなもの出したりするのに、何で人だけそんな弱点みたいなものがあるのかなって』

 おばあちゃんは目を閉じながら頷き返す。

『どう思う?』

 少しの沈黙の後おばあちゃんは応えた。

『…………確か、偉い学者さんたちは自分で死ぬ時を決められるようにするため、とか、いつまでも生きていないようにして数をあんまり増やさないように、とか言っていたね、あぁ、間違えてどうしても残しちゃったなんてのもあったっけ』

 まあ、それは違うと思うがね、とおばあちゃん。

『じゃあ、おばあちゃんは?』

「私かい? 私は――」

 と、そこまで言っておばあちゃんは口を閉ざした。

「んー、内緒にしておこうかね」

『……え?』

 からからと笑うおばあちゃんの顔は、いたずらが成功したときの子供みたいに楽しげだった。



 *



『それで、彰人はどう思う?』

 お見舞いに行ってから数日後、自分で考えてもおばあちゃんが内緒にした内容がわからなかった私は、その内容を彰人にも質問した。

『え、それって自分で死に時を決められるようにとか、進化の過程の名残とかいうやつじゃないっけ』

『あー、そっちと同じになったか―、使えない奴め』

 私がそう言うと彰人は眉根を寄せた。

『いや、どう思うも何もなんで俺に聞くんだよ。俺はお前のばあちゃんじゃないんだから分かるわけないだろ』

『え、だってほら、結構前に聞いたときは同じ事言ってたから今度も考え方同じかもしれないじゃん』

『ンなわけあるか……』

 彰人は不機嫌そうにしながら教科書を丸めて、私の頭をポンと叩いた。

『あ、やったな、代わりにジュース一本ね』

『その前に俺はこの前やったパンの代金をまだもらってないんだけど?』

『あ、じゃあそれ取り消しで』

『ふざけろ』

 彰人が再度教科書を持ち上げた。 


 いたっ。



 *



 だんだん気温が下がってきて、冬の訪れを実感してきたころ。もうすぐ冬休み。お見舞いもいっぱい来られるな、と考えながら、特に相談事もなく学校の話や、両親の話をしていた時だった。

「そういえばハルは、もし声に出すとしたら最初に何を口にするつもりだい?」

 いつになく穏やかな声でおばあちゃんは尋ねる。今まで意識していなかったが、その声は秋のころに比べると高い声になっていた。

 私は心の中にある不安を、懸命に外に出さないように努めた。

『全く……何にも考えてないや……それより、あんまり声を出そうって思わないから、そんなに考えたことなかったかも』

 生まれたころの赤ん坊だったり、物心つく前だったりしたのなら声を出していたのかもしれないが、両親から声を出さずテレパシーのほうで会話するように教えられてからはほぼ声を出したことがない。

『おばあちゃんは最初に何を話したか覚えてる?』

「さあねえ……、赤ん坊のころじゃ流石に覚えてないねえ」

『いや、そこまで最初じゃなくって!』

 無邪気におばあちゃんが笑う。

「そうだねえ、最初に口に出したことねぇ、覚えているよ」

 そう言って私の頭に手を置くおばあちゃん。ちょっと恥ずかしかったが、その細くてしわくちゃな手に、暖かく包まれているようで心地よかった。

「ちょうどハルくらいの年だったかね」

 優しい手が私の髪をすく。目が、懐かしそうに細められていた。私は次にくる言葉を聞くため身を乗り出す。

『それで、最初はなんて声に出したの?』

「それは――――」

 おばあちゃんが意地悪そうに口元をゆるめる。

「内緒さね」

 いつか聞いたものと同じお預けの言葉に、私は肩を落とした。



 *



 その日は新年が明け、始業式が終わった次の日。新年最初の授業が行われていく日である。幸運なことに今日は午前の授業が終わり、みんなが昼ご飯を食べようと散っていく。私もその例にもれず昼ご飯を食べようと動き出した時だった。

『渡辺、居るかー』

 担任の先生が呼びに来た。少し様子がおかしい。

『あっ、はい、います』

『ちょっと』

 手招きする先生にとりあえず返事をして、教室の外へ。なぜ呼ばれたか不思議でたまらなくて聞いてみた。だが『取り敢えず来い』とだけしか言ってくれない。ただ、いつも落ち着きのある先生が少し早足になっていることや、さっきの表情を見る限り私は、一抹の不安を感じずにはいられなかった。


 学校の玄関にたどり着くと、そこには深刻な顔をした両親がいた。二人とも急いできたのだろう。服が仕事着のままだ。というより、なぜ二人共学校に来ているのだろう。二人ともかかわる重要な事? それに私も? それって、まさか、

『ハル、しっかりと聞いてね、今日の朝――』

 お母さんが私の目を見て話す。その眼はとても悲しそうで、泣きそうで、辛そうで。


『――おばあちゃんが、亡くなったの』



 *



 それからのことはおぼろげにしか覚えていない。学校を早退して、連れられて病院に行って、おばあちゃんをみて、お通夜になって……

 気が付いたらお葬式だった。

 親族の人がみんな黒い服に身を包んで、花を手向けるのと一緒に焼香をしていく。

 私の順番になった時、目の前には白い花に囲まれて、安らかに眠るおばあちゃんがいた。つい数週間間に会ったはずなのに、数年間会っていなかったかのような、久しぶりにおばあちゃんに会った、そんな気がした。ちょっと前まではあんなに元気に笑っていたのに。あんなに元気に話していたのに。目の前のおばあちゃんはピクリとも動かない。もう、話すこともできない。

 だから、泣かなかった。おばあちゃんが死んだら絶対私は泣くだろう。子供じみた考えかもしれないけど、ここで泣いたら、負けたような気がするから。いたずら好きのおばあちゃんに、どこかでからかわれるような気がしたから。


『ハル、泣かなかったね』

『……うん』

『絶対泣いちゃうと思ってたけど』

『……うん』

 お葬式とそのあとの色々が終わって、私はお母さんと一緒に家に戻っていた。お父さんはまだ挨拶や片付けがあるからと言って帰ってきていない。

 私がソファーで膝を抱えて座り込んでいると、お母さんが何やら箱のようなものを持ってきた。

『ハル、実はね、おばあちゃんがハルに残していったものがあるの』

 そう言って渡されたのは、よくお菓子の詰め合わせなどが入っている四角い缶だった。フタには油性ペンで大きく「ハル以外開放厳禁!」なんて書かれている。

『多分、最初はハルに見てもらいたいものなのね、そうじゃなきゃこんなに大きく強調して書かないもの』

『……ちょっと開けてくる』

 私は自分の部屋にこもって、鍵をかけた。そしてそっと缶を開ける。パカッという気が抜ける音がした。中に入っていたのは、手紙と、少し古めの音楽プレーヤー、それと、

『指輪?』

 私はひとまず、手紙を開いた。そこに書いていたのはほんの数文だけ。

『ハルとのお話が全部詰まっています

 大切にしてください

 おばあちゃんより』

 指輪に関しての説明は何もなかったが、それを読んで、私はイヤホンを耳につけ、音楽プレーヤーの電源を入れる。

 聞こえてきたのは、おばあちゃんの声だった。

『「私かい? 私は――」』

 最初に聞こえてきたのは秋ごろの会話の一部。〝声死〟について話したんだっけ。

『「んー、内緒にしておこうかね」』

 そういえば結局おばあちゃんの意見、私、聞いてないよ。

『「何か、悩み事かい?」』

 私、いつも悩んでばっかりだよ。

『「ふーん、ほぉー、ふふふ、誤魔化したね」』

 あの時は、言えなかったんだよ。言っとけばよかったって思ってるよ。

『「そうだねえ、最初に口に出したことねぇ、覚えているよ」』

 それも聞いてないよ。気になって仕方がないんだよ?

『「ほらほら、そんな顔しなさんな」』

 そんなこと言われたって、こんなの聞かされたら……

『無理だよっ……!』

 私は必死になって自分の目からあふれてくるものを拭った。けれど、どれだけ拭っても、それはあふれることを止めてはくれない。

『なんで、なんで……』

 どうしようもなくやりきれなくなって、泣いた。

『なんで死んじゃったの……おばあちゃん……!』

 みっともなく、泣いた。


 ひとしきり泣いた後、一つおかしなファイルを見つけた。今までの音声は日にちが題名として使われていたけれど、そのファイルだけ【無題】と書かれていたのだ。けれど確かに音声が入っているファイルである。私はそのファイルを再生した。

『「よし、これで最後だね」』

 聞こえてきたのはやっぱり、おばあちゃんの声だった。

『「これ、録音したものを聞いてて気づいたんだけど、ハルは声出してないんだから、ハルがなんて言ってたのかは録音されてなかったんだよ。私も馬鹿だねぇ、こんなことならその機械じゃなくて新しく買ってもらえばよかった」』

 あぁあぁ、何やってんだか、と言いながらおばあちゃんが首を振る姿が目に浮かぶ。そのあと、病院食はあんまりおいしくなかっただとか、看護師の人はいい人だったとか、たわいない話をしていたが、おばあちゃんが楽しそうに話している声を聴くだけで、私は少しだけ元気になれた気がした。

『「おっと、そんなことを言いたいんじゃなかったよ、声の無駄遣いだねこれじゃ。前、ハルが質問したまま内緒にしてたことがあったからね、流石に答えとかなきゃと思ったんだよ」』

 おばあちゃんはそう言った後、優しい声で話した。

『「声は、これは大事な事なんだぞ、って相手に伝えるためにあるんだと、私は思っているよ。そうじゃなきゃ、無駄に寿命を縮めるだけだもんねぇ。寿命を減らしてでも伝えたいことなんだ。声に出せば相手も大切なことだと思ってくれるだろう?」』

 だから、と、おばあちゃん。

『「その中でも、最初に口に出すことは伝える相手にとっても、自分にとっても大切なことになるんだよ。ハルもよく考えてから声を出すことにするんだね。」』

 私は心の中で、うん、と返事をする。

『「ちなみに私が最初に声に出したのは、私より先にくたばったおじいちゃんの名前だよ。ハル、悪いことは言わないから私を見習うんじゃないよ」』

 おばあちゃんはそれからおじいちゃんに対する文句を色々と言って満足したみたいだった。

『「とにかく、ハルと話せて楽しかったよ、じゃあ、元気でね」』

 それが、音楽プレーヤーに残されていた最後の言葉。

 実は他にも入っているのではないかと思ったが、本当に入っていないようだった。


 自分の部屋を出て、リビングに入るとお母さんが夕飯の準備をしていた。お母さんが左手につけている結婚指輪を見て、そういえば、と、指輪の説明をされていなかったことに気が付く。

『どうだった? 箱の中身は』

 私がお母さんの問いに『コレだった』と音楽プレーヤーと指輪を見せるとお母さんはとても柔らかい笑みを浮かべた。

『お母さんこれ何だか知ってるの?』 

『何って、指輪でしょ?』

『そうじゃなくて』

 お母さんがクスクスと笑う様子は、直接血はつながっていなくても、まるでおばあちゃんみたいだった。

『それはね、おばあちゃんがおじいちゃんからもらったものなの。音楽プレーヤーも、指輪も。きっと、ずっと大事にとっていたんでしょうね』

 おばあちゃん、『「先にくたばっちまった」』とか言ってたけど、おじいちゃんのこと大好きだったんだね。

『……絶対大事にする』

 私は丁寧に、それこそガラスの陶器を扱うよりも優しく、その二つを元の缶の中にしまい込んだ。



 *



 いつか私も、おばあちゃんみたいに大事な人ができるのだろうか。その人と大切な思い出を作るのだろうか。そして、思い出が詰まった何かを、大事にとっておいたりするのだろうか。

 私は服の中にしまうようにつけている指輪を取り出す。チェーンを通して、首に着けられるようにしてみたのだ。普通なら、学校でアクセサリー類をつけていたら注意されるから着けることはないのだが、おばあちゃんの形見だから肌身離さず持っていたかった。

『……なあ、ハルさんや』

『うわあっ! はいっ! ナニッ!』

『お前、帰らないの?』

 横には彰人がいた。前もこんなことがあった気がする。

『え……?』

『みんなもうとっくに帰ったり部活行ったりしてるぞ』

 周りを見ると本当に誰もいなかった。教室はすっからかん。クラスメイトも先生も誰一人としていなかった。

『別に自分の世界に浸っても誰も文句は言わないだろうけど、ほどほどにしとかないと自分が困るぞ』

 あれ……?

『何、心配してくれてんの?』

 私がそういうと、彰人は目をそらす。

『いや、特に』

 このリアクションを見て、私の心の中に、ちょっとだけイタズラしてやろうという気が起きた。

『じゃあなんで君はまだここにいるんだい』

『……忘れ物があったんだよ』

『何を』

『……教科書』

『いつも置いて帰るのに?』

『課題やろうと思ったんだよ』

『いつも私が見せてる気がするんだけど』

『……たまには自分でやろうと思ったんだよ』

『ふーん、へぇー、じゃあ、そう言うことにしておこうか』

 悔しそうにする彰人。なんとなく私もおばあちゃんの気持ちが分かった気がする。


 だから、どうせなら、とっておきのイタズラをしてみたかった。


「ねぇ、彰人……」


 私は彰人のほうを向いて、名前を呼んだ。

 彰人の表情と言ったらそれはもう面白かった。驚きと呆れと嬉しさと疑問とが一度に噴きだして、全部が一緒になったりごちゃ混ぜになったりした顔。それでも平静を装おうと頑張っていた。

『……何』

 ただ、まだ目はあちこち彷徨っていたけれど。


 私は、やりきった、と満足したのと同時に、やってしまったな、という思いもまた感じていた。おばあちゃんの言いつけを反故にしてしまったのだ。

『んーん、何でもないよ、ちょっと呼んでみただけ』

 おばあちゃん、いつになるかは分からないけど大切な人を見つけて報告に行きます。その時に最初の言葉も報告します。

『……はぁ? 何でもないってなんだよ! ほらっ、言え!』

 暖かい家庭を築いて、幸せになります。

『いやいや、ほんとに何でもないから』

 孫も見られるように、長生きしてやります。

『だぁー! 本当に何なのさ!』

 そうして私が死ぬときになったら、その時は、その孫に、

『それはね――』

 きっと、おばあちゃんみたいに、大切なものを送ります。

『内緒、だよ』



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