ふわふわとんぼのめ
おじいちゃんが死にました。
おじさんやおばさんは、みんな忙しそうに動き回っています。
たくさんの人が、八畳の間に寝かされた、おじいちゃんの所へやって来ます。
かちゃかちゃガチャガチャ、たくさんの湯飲み茶碗が運ばれていきます。
たくさんのお客さんに、一つずつ湯飲み茶碗が配られます。
わたしは、一人で小学校の前の細い通りまで歩いてきました。
グレーのスーツを着た男の人が、小学校の前の通りを歩いています。
まっすぐと駅に向かって、音も立てずにスタスタと歩いていきます。
小学校からはたくさんの子ども達の声が響いています。
グレーのスーツを着た男の人には、子ども達の声が聞こえていないようです。
まっすぐ駅に向かって小学校を通り過ぎて行ってしまいました。
隣の大通りからは、バスやトラックの通り過ぎる音が聞こえてきます。
グレーのスーツを着た男の人は、バスやトラックの音に紛れて、消えていきました。
小学校からは子ども達の声が響いてきます。
わたしは小学校の前の通りで、ふわふわと捨てられた赤い風船を見つけました。
風船に描かれた一匹のとんぼが、わたしを見つめています。
その時、後ろの方でおじいちゃんの歩く音がしました。
振り返ってみましたが、おじいちゃんはいませんでした。
おじいちゃんは、おうちの八畳の間で、白いハンカチをかぶせられて寝ているはずです。
わたしは、とんぼに見つめられながら、風船を拾い上げました。
ふわふわふわふわ、とんぼは揺れながらわたしを見つめています。
わたしは、上を見上げました。
空には、さらさらとした薄い隙間だらけの雲が、ゆっくりと左に向かって流れています。
わたしはもう一度、ふわふわと揺れているとんぼと目を合わせました。
そして、空に向かって手を伸ばしました。
とんぼは、隙間だらけの雲へ向かって、ゆっくりと飛んでいきます。
ふわふわふわふわ。
雲の隙間に向かって飛んでいきます。
次の日も、かちゃかちゃガチャガチャ、たくさんの湯飲み茶碗が、台所と八畳の間を行ったり来たり、何回も運ばれています。
わたしは、一人で小学校の前の通りまで歩いてきました。
グレーのスーツを着た男の人が、小学校の前の通りを歩いています。
スタスタと音も立てずに、通り過ぎようとしています。
わたしは、とんぼが飛んで行った方を見上げました。
隙間だらけの雲が、左に向かって流れています。
とんぼはいませんでした。
ふわふわぁ、ふわふわぁ。
突然、空からたくさんの赤いハートが降ってきました。
グレーのスーツを着た男の人は、赤いハートの降る中を、スタスタ音も立てずに通り過ぎていきます。
わたしは赤いハートを一つ拾い上げました。
とても生暖かい、ふにふにとした手触りです。
わたしは、グレーのスーツの男の人に赤いハートをあげました。
「はい、これあげる」
グレーのスーツの男の人は、初めて立ち止まりました。
きゅっと革靴の音が小さく鳴ります。
男の人は、わたしを見つめています。
次の日は、みんなが朝から黒い着物を着ています。
湯飲み茶碗の音は聞こえません。
わたしは、小学校の前の通りに向かって歩きました。
グレーのスーツの男の人は、今日もスタスタ、音も立てずに歩いています。
小学校から、チャイムが聞こえてきました。
わたしは、上を向いてとんぼを探しました。
とんぼはいません。
赤いハートも降ってきません。
グレーのスーツの男の人は、いつものように通り過ぎませんでした。
立ち止まって、チャイムの音の中で、空を見上げています。
わたしは、グレーのスーツの男の人を見ました。
グレーのスーツの男の人は、空を見た後、わたしに向かって
「きれいな空だね」
と言いました。
「きっと、とんぼがくれたの」
「空を?」
「ううん。空から降ってきた赤いハート」
「昨日くれた、僕には見えないもののこと?」
「空なんて、いつから見てなかったんだろう」
グレーのスーツの男の人は、そう言って、もう一度空を見上げました。