第九十二話 メイドに惑わされます。
朝、目が覚めた。ベッドからコロンと落ちて冷たい床に身を晒す。頭がぼんやりする。
『私とお付き合いしませんか? 先輩』
「あぁぁぁ!」
「相馬君! どうしたんですか?」
「大丈夫。何でもない。叫びたい気分になっただけ」
思わずため息をつく。何を動揺しているんだ。冗談に決まっているではないか。扉一枚隔てた廊下では、心配そうな面持ちの陽菜が立っているのは見なくてもわかる。
暗い夜でも、近くだから見えた。真っすぐ見つめるうるんだ目、つやつやの唇。息がかかりそうな距離で、思わず見惚れた。
「うがぁぁぁぁ!」
「あの、入って良いですか? 何かあったのなら聞きますよ」
「大丈夫だ。陽菜」
顔を洗って走ればこの悶々とした胸の内は晴れるだろうか。あんな唐突に言われたんだ、誰だって動揺くらいするさ。
ジャージを着て部屋を出る。案の定、陽菜が立っていた。
「それじゃあ、行ってくる」
「本当に大丈夫ですか? 具合が悪いのでしたら言ってください」
「大丈夫。じゃっ、また後で」
階段を下りていく。気分転換だ、けれどそんな時に限って、玄関先でばったりと会ってしまう。目を泳がせてしまう僕、いつも通りにこやかな表情の乃安。
「おはようございます。先輩」
「おはよう」
「日課ですよね? いってらっしゃいませ」
いつも通りの対応にほっとする。昨日の夜は、「考えておいてください」とだけ言われた。あとは僕の返事待ちという事だ。
「迷っちゃいけない案件なんだけどなぁ」
はぁ、後輩にあっさり惑わされるとはな。簡単な準備運動して、無我夢中にダッシュしていく。神社で止まる気にならず、さらに走って行けば、いつもよりも遠いところまで来ていた。
河原で風を感じる。火照った体にはご褒美のような涼しさ。それでも晴れない迷い。
息が整っていく。脳に酸素を回す余裕が出て来る。冷静になって、脳がこの先の行動の判断を下す。
「戻ろ」
くるりと振り向く。前髪を伝って汗が滴り落ちる。土手の上、ランニングしている人、犬を連れて散歩している人。川に朝日が走る。
「ただいま」
「お帰りなさいませ。随分ゆっくりでしたね」
「うん。ちょっとね」
今日は特に予定は無い。みんな家でゆっくりしている。二人もいれば、午前中のうちにやるべきことは終わってしまうらしく、テーブルを三人で囲み、その手にはトランプを持つ。
「そういえば、乃安は友達とかと予定は無いのか?」
「それがですね、仲良い子はいないことも無いのですが、個人的に連絡を取り合う子はいないですね」
あれ、闇に触れた? 困ったように笑う様子にそう思わされた。
そういえば僕はあまり知らない。乃安が家にいる時以外、どんな風に過ごしているのかを。知らないという事は恐ろしい事だ。知らなければ思い込める、決めつけられる。
「それよりも相馬君、スペードの八、持っていますよね。出してもらえませんか?」
「無理。陽菜がハートの五出すまで止めるよ」
「くっ」
既に二回パスしている陽菜は出すしかないだろう。あと一回パスすれば負けだ。いや、もう負けは避けられない。
渋々と陽菜がハートの五を出す。僕はニヤリと笑いながらハートの四を出す。
「あっ、ハートの三です」
ハートの二と一を持つのは僕。なら僕はハートの二を置く。
「……パス」
陽菜は負けた。
夕方、一人僕は散歩に出かける。とりあえず、公園で一人で考えたかった。
「なあなあでうやむやにするのは駄目だよなぁ」
一番星、二番星、星が見え始める。ここからは暗くなるまであっという間だ。山に吸い込まれるように夕日は消える。代わりに、月や星が空を照らす。
「わからねぇ」
どうしたら良いんだろう。どうして僕は迷っているんだろう。断れば良い、なのに僕は断るというのが嫌だ。
傷つける事にならないか、とか、そんな事を考えてしまう。
「はぁ~」
「まあまあ、そんな悩まなくても、焦らなくて良いですよ」
「そうか、それは良かった」
「むしろ、真剣に考えてくれているのが嬉しいです」
「いつの間にいたんだな、乃安」
短いズボンにノースリーブのシャツ。涼し気な恰好をして隣に座っていた。
「陽菜先輩、心配していました。何か悩んでいるのではと」
「うん」
「だから、私は返事を急かしません、ゆっくりじっくり、考えてください。先輩の周り、美人さんばかりじゃないですか。私も、一応容姿の試験、高得点なんですよ」
それに関しては異論は無い。反論のしようはない。僕が意識しないようにしていただけだ。
「私、思ったんですよ。先輩は今の私のご主人様。先輩が最初のご主人様で良かったって。だから、先輩に
も、私がメイドで良かったって思ってもらいたいなって」
「えっ?」
「さぁ、戻りましょう。陽菜先輩が待っています」
顔を赤くして立ち上がり、僕にそう促す彼女の手は僕の手を握る。引っ張られるように歩く。
「乃安、僕は君が来てくれて良かったって、思っているよ」
「……私の恥ずかしい台詞、忘れてくださいね。でも、ありがとうございます」
するりと手が離れ、それでも二人並んで歩く。その時気がついた。あれ、わりとあるぞ。京介よ、乃安は着痩せするタイプだ。
「どこ見ているんですか? 先輩。私のなんか見てもつまらないですよ。布良先輩とかの方が迫力ありますって」
聞いたことがある。胸の大きさの基準は、男女でずれがあるという事を。なるほど、本人は自覚していないパターンか。
って、何を考えているんだ僕は。
「はぁ、僕は駄目だ」
「急にネガティブにならないでください」
雑念に雑念を重ねて、一番重要な問題から目を逸らす。そんなことが許されて堪るか。こんなので、付き合い直すなんてできるわけがない。
だからと言って、妥協するかのように乃安と付き合うのも乃安に失礼だ。
そうこうしているうちに、家に着いてしまう。結局、結論なんて出ないままだ。
「おかえりなさいませ」
「ただいま。ごめん、遅くなった?」
「全然です。むしろ丁度良いくらいですよ」
陽菜はいつも通り、僕を受け入れてくれる。今はそれが苦しかった。
「さぁ、夕飯にしましょう。今日はですね、ひっぱりうどんってご存知ですか? 茹でたうどんを納豆と鯖を混ぜたもので食べるのです。簡単なものですがきっとおいしいですよ」
「うん」
箸を手に取り、いただきますは三人で。麺を取って納豆と混ぜてすする。
「って、うまっ!」
「ありがとうございます。麺から作った甲斐がありました」
さっきまで感じていたもやもやしたものは何処へやら。案外僕は単純なのかもしれない。
今の生活は確かに楽しい。一緒にいるのが苦ではない、いや、一緒にいたい人といられる生活がつまらない筈が無い。
あぁ、そっか。無理に選ばなくて良いじゃないか。今の生活を守ろう。それが僕のやるべきことだ。
「どうかされましたか? 相馬君」
「ん? なんでもない」
「そうですか。今、とてもすっきりしたような顔していたので。何か良いことでもあったのだろうかと」
「まぁ、間違ってはいない」
そう、間違っていないはずだ。選ばないことを選ぶ。これがきっと、誰も傷つけない。そんな答えだ。
「もしもし、布良先輩、唐突にどうしたのですか?」
「んー、ほら、進捗はどうかなぁって。乃安ちゃん、お付き合い申し込むとか言ってたじゃん」
「そうですね、陽菜先輩は気づいていないようですよ」
三人で過ごした賑やかな空間から一人、私は自宅であるアパートに戻る。相馬先輩は引き払って家に来たら良いのにと言うのだが、私はそうしない。そうしたら、駄目な気がする。
「んー、そっか。そうなんだ。ふーん。陽菜ちゃん、油断大敵だよぉっと。じゃあ、私が取っちゃっても文句言えないよね」
「あれ、何で布良先輩まで?」
「あれ、言って無かったけ? 私の好きな人」
「……結構罪な人ですね、相馬先輩」
「そうだよー。でもね、どうしてかな、放っておけないんだよね、相馬くんって」
「その気持ちはわかりますよ」
簡単に崩れちゃいそうなくらい脆いのに、大丈夫なふりして飄々と振る舞って、実は無理をする。怖いのに怖くないふりをして向かっていく。一度気づいてしまうと、気にせずにはいられない。そんな人だ。
電話の向こうの布良先輩の表情を想像する。いつもの人懐っこい笑顔を浮かべているのか、それともたまに見せる儚げな笑顔か。
「でもさ、乃安ちゃんってさ、うん、やっぱ今の無し」
「言いかけた事ならちゃんと言ってくださいよ」
「うーん、聞くのは野暮かなって。相馬くんの答え次第だよ、この質問がちゃんと聞かれるのは」
「はぁ、まぁ、良いですけど」
「そういえばさ、明日でしょ、旅館」
「そうですよ。準備は終わりました?」
「うん。もっちろんだよ」
部屋の隅に纏められている旅行鞄をちらりと見る。来るのは五人。私と、相馬先輩、陽菜先輩、布良先輩、桐野先輩。
「そろそろ寝なきゃ駄目ですよ。明日は早いです」
「そうだねぇ。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
ごろんとソファーの上に横になる。今日はこのまま寝てしまおう。ちらりと頭に浮かぶ相馬先輩のこと、私のしている事は陽菜先輩に対する裏切りに当たるのか。いや、陽菜先輩のことだ、怒らない。陽菜先輩の言う事なんて、簡単に想像がつく。
「それじゃあ、駄目なんですよ。先輩」
ソファーで寝られるように用意してある掛け布団をかけて、そのまま私は明日に備えて眠った。





