第八十八話 狂犬物語 4
「忘れ物はありませんね?」
「うん、陽菜、行ってくる」
「はい、お気をつけて」
陽菜に見送られ、家を出る。荷物は少ない。最小限にとどめた。何もかもを捨てようと思い、それでも残ったたった一つの物が、今は温かい。遠出するとは思えない荷物の量でも、そのたった一つのそれのおかげで心細さは無い。
「帰ってこない覚悟を決めてたのにな」
陽菜と恋人関係を解消して、そして何の憂いも無く、京介の所へ向かおうと思ったけど。それはあまりにも無責任だった。今ならはっきりとわかる。その決意は今まで関係を築いてきた人たちに対する冒涜だと。
「さぁ、行こう」
電車はちゃんと調べてある。問題は着いてからの事だ。京介を見つけられるか。それだけだ。
「まぁ、何とかなるか」
本気でそう思える。笑ってしまうくらいに今の僕は気楽だ。改札の前、腕を組んで僕を待つ影。よく知るその姿はわかりやすいくらい不機嫌で、よくわからないけど嬉しそうな表情もしている。
「やぁ、夏樹」
「やぁ、相馬くん」
「わざわざお見送り?」
「まぁ、そんなところ」
電車までは少し時間がある。自販機で買ったコーヒーを差し出す。
「夏ならもう少し涼しい物の方が嬉しいかな」
「ごめん」
「なんてね、貰った物に文句を言う私の方がおかしいよ」
駅のベンチ、朝の通勤ラッシュも落ち着いた時間帯は人もまばらだ。季節は夏。気温もどんどん上がっているように感じる。照らされた道路は眩しく輝いて、通り過ぎる人々は忙しく顔を拭う。
「何だか良いね。夏だね。あっ、そうそう。相馬君がいない間、私が陽菜ちゃんといるから。女の子同士のパジャマパーティー。乃安ちゃんも来るっていうから楽しみ」
「良いね。その荷物はそういう事か」
「そういう事。さて、そろそろ行こうかな。電車ももうすぐ来るみたいだし」
「そうだね」
「それじゃ」
「うん、陽菜の事、頼む」
「うん。相馬くんの友達で、陽菜ちゃんの友達の私が、頼まれましょう。頼れる委員長に任せて」
敬礼のポーズをして、見送ってくれる夏樹に手を振って僕は改札を抜ける。同時に入って来た電車に乗り込む。
町が流れていく。人が畑が田んぼが山が家が流れていく。
「陽菜先輩、良かったのですか? どうして別れてしまったのですか?」
相馬先輩が家を出て、すぐ。玄関に立って動こうとしない陽菜先輩に私は声をかけた。
「どうしてでしょうね。私は、それが相馬君のためだと思ったのですが。私が押し付けたものは間違っているとは思っていませんけど、相馬君の覚悟を無駄にするのも違うと思ったので」
「でも、でも……」
「なにより、私は嬉しかったのです。相馬君の全てに、私が含まれていたことが。そして、捨てることを何よりも惜しんでくれたことが」
「せんぱい?」
「さぁ、乃安さん。もうすぐ夏樹さんが来ますから掃除をしましょう、おもてなしの準備をしましょう。ちゃんと普段着は持って来ましたね? メイド服は駄目ですよ。私たちの身分は内緒の事ですから」
こちらを見ようとせず、そう言う先輩の頬に流れたものを私は見逃さなかった。
そして数秒、振り返った先輩の顔は綺麗に微笑んでいて、私の事を包み込んでくれた。
「駄目ですよ、私たちの役目は、笑顔で主人の帰りを待つことも含まれるのですから」
「そうですね」
包み込んでくれる体が震えているのを私は気づかないふりをする。私は言いたい、相馬先輩は大丈夫だと。けれど、そんな簡単に言ってはいけない事も知っている。
待つしかできない辛さ、私一人では陽菜先輩をきっと支えきれない。
「せんぱい、その、えっと、上手く言えないですけど、あの……」
どうにか言葉を絞り出そうとするけど、相応しい言葉が見つからない。迷っている私の唇に指が伸びる。
「大丈夫です。ありがとうございます。私たちが信じないで、誰が相馬君を信じるのですか?」
目を赤くして、それでも笑顔を見せてくれる。私の先輩達は、本心を隠そうとし過ぎる。
そして鳴る呼び鈴、ガチャリとドアが開かれる。
「ヤッホー、んん? 何この素晴らしい状況。写真撮って良い?」
「駄目です。夏樹さん。それと、着替えて来るので少々お待ちを」
「えー、もうこのままで良いよ。可愛いし。陽菜ちゃんのコスプレ趣味、生きててよかった。乃安ちゃんも良いね。着せられたのか着たのかによって萌える部分も変わってくるけど、どっち?」
しんみりとした雰囲気を一気に吹き飛ばしてくれる夏樹先輩が、とてもとても頼もしく見えた。
見慣れない街並み、降り立った地は確かに見慣れないけどそこまで違うという印象は受けない。
宛は無い、頼れるのは断片的な情報と直感。人気が無く、戦える場所。京介の話からは相当あれた街だと思われたが、その様子も無い。だからとりあえずと向かう場所が無いのだ。
「工場の辺り、行ってみるか」
港はどこだろう。RPGの主人公の気分だ。だけどそんなことは言ってられない。そろそろ気を引き締めなければ。
知らない道を歩く。スマホ片手に、とりあえず海の方に向かう。いつ、どこで、どのように戦うのか、僕は知らない。
知らないことだらけだ。その事に気づいて思わず身震いする。怖いわけでは無い、驚いただけだ。
歩いて行くうちに、潮の匂いに気づく、いつだったか、この匂いは生き物の匂いだと聞いたことがある。
海に沿って、工場を一つ一つ見て回る。工場というより倉庫だ。鍵がかかっていたり、開いてはいるが中身は空っぽだったり、人の気配が無い。
「手掛かりは無いか」
このまま見つけられずに退散なんて、恰好がつかない。バイクの音に耳を澄ませるが、それは一台だけ。一応見に行くがそれは郵便屋さんのバイク。
「はぁ、学校か、後は」
今度は歩いて三十分、その学校もまた平和なもの。話に出てきた京介の後輩は三年生か。段々数を減らしいなくなったらしいけど、そうか、確かに普通の学校だ。
見えるのはせいぜい、車の中で腕時計を確認しながら書類を眺め、電話をかけているおじさんくらいだ。
「はぁ、困った」
校門の辺りをぶらつく。探す宛が無い。大人しく帰るしかないのか。太陽は登りきり、そろそろ傾き始める。部活動をしている生徒の声が響く、普通の学校じゃないか。これでは。
「あの、何をしているのですか?」
「あっ、いえ。道に迷ってしまって」
「そうですか。どちらに、向かわれるのですか?」
さっきまで電話をかけていたはずのおじさんが、車の窓から顔を覗かせていた。
「友達に会いに来たのですけど、とりあえず駅に戻って連絡しようと思いまして」
「なるほど、駅ならその道をまっすぐ行って、二つ目の交差点を右に行けば看板があるので」
「ありがとうございます。そういえば、その友達もこの学校出身でした」
「ふむ、名前聞かせてもらえますか」
「桐野京介です」
そう言うと、目を見開いてこちらを凝視する。
「元気にしているのですか?」
「はい、野球部で、ピッチャーしています」
「そうですか。でしたら是非、彼の家まで乗せていきましょう」
促され、助手席に乗り、歩きとは比べ物にならないスピードに揺られる。
「家庭訪問以来ですよ、懐かしいものです。友達もできましたか。県外に送り出したときは不安でしたが、いやはや、嬉しいものです」
「担任の先生だったのですか?」
「はい、しかしながら、私は良い先生とは言い難いです。彼に迫った選択肢は、今でも正しかったのか自問の日々ですよ」
懐かしむようにそう言う。車は住宅街に入っていく。ハンドルを切った時にちらりと見えた腕時計はとても高そうに見えた。
「さぁ、着きましたよ。ここです」
「ありがとうございます。あれ、先生も会うのですか?」
「えぇ、顔が見たくなりました」
先生と一緒に車を降り、見上げたのは普通の一軒家、より少しグレードの高い家。
「結構金持ちなのか」
「そうかもしれませんね」
とりあえず呼び鈴を鳴らすと、すぐに中から足音が聞こえた。
『はい』
インターホンから聞こえた声は紛れもなく京介のもの。
「僕だ。相馬だ」
『は? 何でこんな所に』
「殴りに来た。お前を」
「はぁ?」
流れる沈黙。そりゃそうか。そういう反応になるのは理解できる。
『……とりあえず、上がれよ』
「おう、お前の担任の先生もいるから、中学の」
そう言うと中からどったんばったんと騒がしい物音が聞こえ、バンと音を立てて扉が開いた。
「マジかよ。なんで!」
「やぁ、桐野、久しぶりだね」
「マジで先生だ。どうしてこんなところに」
「いや何、暇だったものでね」
再会はあっさりしたもので、殴るという決意はどこに行ったのか。顔を見た途端ホッとしてしまい、握り拳は解けていた。
何より、そこかしこに見える生傷が気になってしまった。
「どうしたよ。あぁ、お前にやられた奴は大したことねぇよ。手加減し過ぎだっての」
「お前が頑丈過ぎるだけだ」
そして、僕は聞きたいことを聞くことにした。
「もしかして……終わった?」
「おう、ばっちり勝ったぜ」
なんてこった。僕の覚悟を返せと本気で思った。





