第八十四話 メイドは見守ります。
さて、怒っている女子の機嫌を取る。これ以上に難しい問いは少ないだろう。普段は温厚な人ほど怒ると怖いと言うが。あぁ、確かにそうだ。「ぷんすか!」なんて生易しいものではない。その怒りは凍える吹雪のよう。向けられた視線は一見普段と変わらないが、その奥に見える冷たさに一瞬で背筋が凍った。
「どうしたの? 相馬君。私の隣の席なんだから、座りなよ」
「あっ、うん」
京介の事をあれこれ考えながら、しかし学校をおろそかにするわけにも行かず来てみたが、昨日夏樹から来たメールの事は失念していた。
夏樹は何も話さない。僕もどう話しかけたら良いかわからない。その場だけ世界から切り離されたような感覚、僕と夏樹の間に断層でもできたような、そんな感覚。
陽菜もどう手を出したらいいのか困っているのか、遠巻きに見守っている。
「相馬くん、私、信用無い?」
「そんなことない!」
「ならどうして誘わなかったの?」
ん? ちょっと待て。冷静さを取り戻した僕の脳が囁く。
「なんで僕が京介の家に行った事知っているの?」
「昨日ね、先生から連絡があって、その時に先生が言っててさ。それで、まぁ。はい。怒ってます。素直に認めましょう! さぁ吐きなさい。何で後輩ちゃんを連れて行って私を誘わなかったのか!」
机を挟んで正面。高らかにそう宣言し、机をバンと叩く。グイっと顔を近づけ逃がさないよと言外に示す。
「えっと、ごめん」
「うん」
「近い」
「それが?」
「ごめんなさい」
「私が聞きたいのは、理由。オーケー?」
「OK」
「発音良いね。それはどうでも良いけど」
ぷんすか、何てものじゃないな。これは。目を逸らすのはマズいだろう。これでは陽菜に助けを求められない。どう説明したものか。
「また、蚊帳の外なんて、嫌だから。陽菜ちゃんの時みたいに」
そう呟いて、席に戻る。突然の解放の理由は直後に鳴ったチャイムの音が説明した。同時に入って来た担任の先生が教卓に立ったのを合図に、いつものように夏樹の「起立」という声が響く。切り替えの早さに舌を巻く。
本当は一人で行きたかったなんて言ったら怒るだろうし、地元に戻ったであろう京介を追いかける事すら迷っているなんて言ったらもっと怒るだろうな。
腫れはひいた顎。それでも思い出したように少し疼く。何で迷っているのか、それは僕の中で明確な答えとして出ていない。
そうやってぼんやりしている間に、気がつけば一時限が始まり、授業に入り込めないまま昼休みになる。いつものように陽菜の席に集まり、京介がいない今に慣れつつある。その事が少し怖くなる。
「はぁ」
顎が痛い。
『二年の日暮相馬くん日暮相馬くん。職員室までお願いします』
「ちょっと行ってくる」
こんなタイミングで呼び出しか。心当たりが多すぎるな。
入りづらい雰囲気、苦手意識を持っている場所。職員室。入れば担任が手招きしている。その傍にはスーツを着た四十代くらいのおじさんが立っていた。
誰だろう。記憶に無い顔だ。
「桐野京介の父です」
ぺこりと頭を下げ、名刺を差し出される。その堂々とした態度は確かに京介の姿が重なった。
「桐野君の事で連絡したら来てくださったので。学校での彼の様子を話せるのは君でしょ。桐野君のお父さんもぜひ会いたいとのことだったので」
先生が申し訳なさそうに言う。僕より頭一つ背が高い京介のお父さんはきっちりとしたスーツ姿に少し疲れを滲ませているように見えた。
「日暮相馬君、で良いんだよね。息子が良く話していたよ。良いダチができたと。だから申し訳ない、息子の今回の事は」
「いえ、事情を把握できていないので。何が起きているかすらわからないので」
「わかった。そこから話そう」
場所を移して面談用の教室。京介のお父さんと僕と二人で向かい合い座る。
「学校から京介が来なくなったという電話が来たのはまさに京介が帰って来た日だった。すぐにどこかに行ってしまったけどね。昔の経験から知っているのだよ、止められないって。大学で教鞭取ってる人間が自分の家の息子に手を焼いているのも情けない話だけどね。何で帰ってきたのか、何で今更昔に戻るのかはわからない。まぁ、でも。私が悪いのかもしれない。私のように大学の教授になるというなら好き勝手して良いという約束。こんなもの、将来を縛るだけの責任放棄じゃないかと今更後悔しているよ」
深々とため息を吐く。手元に置かれていたお茶を一口飲むと、またため息を一つ。
「京介は……。理由が無ければあんな行動をするとは思えなくて。だから、わからないなら、確信が無いなら行動するべきではないと思えて。あいつが助けを求めているとは思えない。もし僕が余計なことして、そのせいであいつの目的を駄目にしてしまったらそれこそ、あいつのダチとは言えないんじゃないかって」
「立派な考え方だ。踏み込んで良い場所と良くない場所をよくわきまえている。若者らしくは無いが」
「それで、京介の事情というのは」
「ふぅ、聞くのかい?」
「はい」
「そうか。わかった。ただし一つ言っておきたいことは、こんなことしておいてなんだが、私の息子は非常に律儀なものでね。ボイスレコーダーに伝言を残して行ったのだよ。これを聞けばわかるだろう。少々長いが、聞いてくれ」
イヤホンを耳に着ける。流れてきた声は久々に聴いた、あいつの穏やかな声だった。





