第八十一話 メイドと新米メイド 下
「調子はどうですか?」
体温計を片手に部屋に入ると、乃安さんは窓辺に佇んでいた。
「駄目ですよ、寝ていないと」
「大丈夫です。良くなりました」
「それなら良いのですが、とは言いません。ベッドに戻りましょう。それで、何を見ていたのですか?」
「先輩が、心配そうに眺めていたので」
「相馬君が?」
「はい、すぐにどこかに行ってしまいましたが」
相馬君の狙いは、何となくだがわかる。
乃安さんをベッドに寝かしつけて、椅子に座り体温を測る。ピピっとすぐに音がする。静かな空間に、その電子音はとてもよく響いた。
「平熱です。良かったです」
「えへへ、心配し過ぎですよ」
「えっ?」
「それが先輩の素の部分ですか?」
ニコニコと、自然な動きで私をベッドに招き入れ、腕で拘束する。
「どうしたのですか?」
「よくこうして一緒に寝たじゃないですか。夜泣きする私をあやすために」
「そんなこともありましたね」
近い。幼さと大人びた雰囲気、美人と可愛いが同居した顔が目の前にある。息もかかる距離、どうして良いかわからなかった。
「先輩、私駄目ですね」
「駄目というのは」
「倒れちゃいました」
「それは……」
私もでしたよ、そう言おうとして、なのに舌が絡まる感覚。言えない、言おうとしているのにそれが言葉
として出てこない。
愚かな、見栄を張ろうだなんて。そんな葛藤を知ってか知らずか、乃安さんは構わず話し続ける。
「先輩、私、成長していますか?」
「それは、当然です」
そう、その通りだ。私は言うべきこと、やるべきことはわかっている。今の乃愛さんの実力なら、それができるはず。
ただ、私は怖い。それを認めてしまうのが怖い。ちっぽけなプライド。だけどそれが傷つくのが怖い。
先輩の責任、か。うん、そうだ。私は先輩だ。先輩が後輩に追い抜かれてしまうのが怖いわけがない。でも、目の前の後輩の実力を認めるのも先輩の役目だ。
「乃安さん。一つよろしいですか?」
「はい」
「今日の夕飯、あなたに一任します。自分の感覚に任せて作ってもらえませんか?」
そう言われた乃安さんに浮かぶ明らかな動揺。当然だ、彼女は私の真似をし続けてきた、それをやめろと言われたのだ。誰だって戸惑う。
「大丈夫です、乃安さん。あなたならできます」
確信をもってそう伝える。
「……はい、わかりました。やってみます」
軽く頭を撫でてベッドを出る。乱れた服装を整えて部屋を出る。
「正しい答えが無いというのは、何とも難しいですね」
成長著しい後輩を持つのは幸せなことだ。しかしそれは一般論だ。良い言い方すればそれは負けず嫌い、でも本質はもっと醜い感情。
「さて、材料だけでも用意しましょう」
仕事を意識すれば、こんな自己嫌悪も薄れる。後はたまに思い出してその度に自分の未熟さを認識すれば良い。
「あの、陽菜先輩」
「はい、なんでしょう」
「なんで今日、私に料理させたのですか?」
心配だから今日は泊らせることにした。私の部屋に敷いた布団の上に正座して、そう問いかける後輩、成果は思った以上。私の見込んだ、というか恐れた通りの結果だった。料理に関しては私の上を行っていた。このことを自覚させる。私はそうすることにした。
「相馬君の表情を見たでしょう。あなたは私なんかよりずっと良い腕を持っています」
「そんな、私なんか」
「過小評価は時に嫌味になるので、注意しましょう」
「すいません……。あの、先輩どうして頭を撫でているのですか?」
「どうしてと言われましても、そうしたくなったからでしょうか」
私の一番の得意分野で勝った人とは思えないしおらしさですよ、本当に。
「ベッドに寝ている間に派手に世界地図書いたり、前髪を調整しようとしてデコ丸出しにしたり、植木の手入れをした後にメイド服を直さなきゃいけなくなったりと困った人だったはずなのですがね」
「私の恥ずかしい過去を次々と上げ連ねないでください」
「それで、相馬君に最初に近づいた目的はなんですか」
「……嫉妬です」
「はい?」
「陽菜先輩のいろんな表情を引きだせてる相馬先輩に嫉妬したんです」
「そんな事ですか?」
「そんな事が、です」
頬を膨らませ、そっぽ向いてしまう。そんな頬を指でつついて萎ませる。そうするとまた膨らませる。
「ふふっ」
「なんですか」
「いえ、私は幸せな先輩ですね、と」
「先輩はメイドを続けるつもりですか?」
「そうですね。迷っています。正直」
「私、言われました。メイド長から、自分の道を見つけてこいと」
「それは……」
「だから私、料理人目指そうと思います。先輩が見つけてくれた才能、もっと伸ばしたいです」
迷いなく、まっすぐにそう言い切って、そんな表情に思わず見惚れてしまう。
「あの、どうして頬を、痛い! ちょっ、イィィィィィ」
「あっ、すいません。思わず」
「思わずで何てことするのですか~」
涙目で睨んでくる。それでも本気で怒っていないことがわかるのはそれなりに長い間一緒に過ごした時間があったからだろう。
「頑張ってください。応援します」
「むぅ、その顔はずるいです。怒るに怒れないです」
「どんな顔ですか」
「教えません」
そっぽ向く横顔、まだ紅いその頬を指でつつく。頑なにこちらを見ようとしない、柔らかい頬の感触、ぷにぷにと楽しむ。
「遊んでいませんか?」
「遊んでいます」
「もう」
諦めたように向き直ると、小さく息を吐く。
「先輩は、相馬先輩の事、好きですか」
「はい」
「即答ですかぁ」
「どうしてそんな呆れたように」
「いえいえ、気にしないでください。そろそろ寝ましょう」
電気が消える。窓から月明かりが差し込み、横になりながらこちらを見つめる乃安さんの存在を教えた。そうやって見つめ合っている。そんな時間は長くは続かない、気がつけば私は微睡の中にいた。
扉が開いて、誰かが出て行く気配がしても、その睡魔に打ち勝つことはできなかった。
「相馬先輩、それで、どうでしたか、今日の夕飯は」
「言ったじゃん、美味しかったって」
「私、ちゃんと聞いていたんですよ。相馬先輩は陽菜先輩でしか満足できないと」
「曲解できそうな表現は避けようぜ」
さてさて、寝る前のこの部屋に乃安が来たのは二回目か。
「陽菜も褒めてたじゃん。僕も素直に満足したし」
「はぁ。いえ、未だに実感が無いのです。私は、先輩の事を超える日が来るなんて思わなかったので」
まぁ確かに。僕も父さんをルール無しの真っ向勝負で倒しても手加減されたと疑うだろう。だからその気持ちは理解できた。
「だから、正直、料理人の道を目指すと先輩に宣言したのですけど、今になってそんなこと言っても良かったのかなと」
「目指すのも、宣言するのも自由だろ。迷うことも恥ずかしがることも無い。そうだろ?」
床にお互い正座して向かい合っているこの状況なら、多少恥ずかしいことを言っても大丈夫だ。困ったように頬を掻く乃安に畳みかけるように口を開く。
「憧れに縛られることが無くなって戸惑うのもわかるけど、突然与えられた自由に何をしたら良いかわからなくなるのも理解できるけど、とりあえずは、目先の事から頑張る事をお勧めするよ」
まぁ、これは派出所から来たというのなら心配はしていない。
「テスト対策、してる?」
「はい、もちろんです。派出所で勉強していたので」
ですよね。心配なのは僕だ。寝る前に目を通していたノート。一年生で基礎固めもしていたし、春休みを使って予習していたおかげで大丈夫だと思われるが、それでも長年の積み重ねで恐怖はある。
「二年生の範囲も教えられますよ。先輩がわかりにくかったらどんどん頼ってください!」
「うん、その時は頼むよ」
前向きになった後輩が、頼もしく胸を張る。先輩の威厳なんてあったものじゃない。
少しは先輩らしい話しはできただろうか。それはその成果がこれからあるかだろう。見守って行こう。
「それでは先輩、おやすみなさいませ」
「うん、おやすみ」





