第八十話 メイドと新米メイド 上
自分らしさを追求することほど難しいことは無い。
自分の家で朝ご飯を作りながら、手の動きから何から何まで観察する。手つき、火加減。細かなところまで陽菜先輩の動きそのまま。そりゃそうだ。私はずっとあの人に憧れていた。媚びるような笑みを浮かべることなく、自分の仕事を、淡々と完璧にこなして、それを誇る事も無く。
でも私は先輩のようにはできない。私は完璧にはできない、だから媚びるように笑う。そうしなければただの印象の悪いメイドだ。理想をすり減らして、道化のように笑う。すり減らし続ければいつか、この理想は粉になって風に吹き飛ばされて、そうすれば空っぽの機械のように、仕事ができるのだろうか。
「できた」
時刻は三時。三十分後には家を出なきゃ。相馬先輩の家でも食べるけど、それまでにお腹が鳴ったら恥ずかしい。盛り付けようと皿を取り出す。
「あれ」
突然、力が抜けて、床が近づいてくる。おかしいな。何で。
「遅いですね」
乃安さんは真面目な人だ。なのに、五時になっても現れないなんて。
「途中で事故でもあったのでしょうか」
交通量の少ないこのあたりで、それは考えづらい。
「おはよう」
「あっ、相馬君。おはようございます」
「あれ、乃安は?」
「まだ来ていないです。どうかしたのでしょうか」
「寝坊かな。ちょっと見て来るよ」
「えっ、いえ、私が」
「ランニングのついで」
家を出て行く相馬君を見送る。大丈夫でしょうか、そんな心配を、仕事で覆い隠そうと私は台所に向かった。
トントンと扉を叩く、乃安のアパート、部屋は知っている。
「大丈夫?」
返事は無い。呼び鈴を鳴らしても中から応答の気配は無い。嫌な予感がする。ドアノブを回す、駄目だ、鍵がかかっている。
「どうすれば」
ん? ドアノブが回って。
「せんぱい、あっ、ごめんなさい。遅刻しちゃって」
青を通り越して白い顔。その額に手を乗せる。
「よし、ちょいと失礼」
「え?」
その体を背負う。とりあえずうちに連れ帰って陽菜に診せよう。
「あの、重くないですか?」
「全然」
「ていうか、えっ、ちょっと待ってください。歩けますよ」
「良いから、病人は静かに」
「病人じゃありません! 違います」
その言葉に反して、僕の背中にぐったりともたれかかる様子は、説得力を無くすには十分だった。僕は黙って出発した。
「なるほど、倒れられましたか。少々無理をさせ過ぎましたか。とりあえずここで休ませましょう。そうですね、ふむ、どうしましょう」
家に帰り、陽菜に頼んでベッドとその他諸々を用意してもらい、今に至る。学校に行くかどうか。看病は必要だろう。熱を測ったら三十九度、病院にも連れていきたい。
「私が全てやるので、相馬君は学校に行ってください。これは私の後輩の不始末です。先輩である私が責任を取ります」
「でも」
「派出所の規定、後輩の失敗は先輩がフォローせよ。部下の失敗は上司がフォローせよ。です」
何も浮かばない表情、それでも強い使命感が感じられた。
「わかった。任せる」
「はい、任せてください」
学校へ向かう。二人きりにして大丈夫だろうか。少し不安だ、でもそれでも、陽菜の意志を無下にすることもしたくはなかった。
「陽菜先輩、ごめんなさい」
「気にしなくて良いです。今は休んでください」
思い出す。私もこんな事があったなと。あの時の私も、こんな表情をしていたのだろうか。不安気に、看病する私を見上げる。そんな目を。
「陽菜先輩、懐かしい呼び方ですね」
「あっ、すいません」
「その呼び方の方が、呼びやすそうじゃないですか。これからもそれで良いです。それで、弱っているうちに聞いておきたいのですが、一体派出所から何と言われてここに来たのですか?」
「それは……」
タイミングを間違えたでしょうか。いえ、質問が不躾と言うか、何と言うか。
「ただの興味から来た質問ですから。気軽に答えてください」
「それはもう少し違う場面で使う言い回しですよ」
あれ、何か間違えましたか。
「先輩、相変わらずですね。相変わらず、先輩は先輩で、媚びないのですね。指示内容ですか、陽菜先輩には内密にしろと言われたので、すいません」
「そうですか。それなら仕方ありません」
冷やしタオルを頭の上に乗せる。冷たさに驚いた様子でピクッと反応に、少しだけ悪戯心をくすぐられる。
「はい、お口開けてください。林檎を摩り下ろしたものです」
「あ、ありがたいのですが、その、えっと。自分で食べられますというか、それ一口分とは言えないというか」
「何を言っているのですか? 病人はいっぱい食べなければ駄目でしょう」
「あっ、はい。そうですね。いえ、はい、わかりました」
そう、乃安さんは押しに弱い。あまり変わっていないことに安堵しつつ、一口分の適正な量に調整する。
「昼はお粥です。風邪というわけでも無いようですし、すぐに良くなるでしょう。夕方までに下がらなかったら病院に連れていきます」
「はい、ありがとうございます」
相馬君ならすぐに病院に連れていくだろう。どうにも調子が狂う。心配しているのに、どうしても冷たさが残る。過去に引きずられている、そんな感覚がある。
突き放すように接しようとして、それでも手を離しきれない。そんな感覚。
しばらく会わなかった、接し方を忘れている。昔と今、変わっている私、だというのに昔のように接しようとして空回っている感覚。
わかっている。彼女にとって昔の私は憧れだった。
今の私はどうなのだろう。彼女にとって憧れでいられているのだろうか。今の私を否定したいわけでは無い、それでも彼女の夢を壊したくない。
「陽菜先輩? どうかされましたか?」
「いえ、なんでもありません。それではしっかり休んでください」
ほら、駄目だ。ここは次に検温に来る時間を告げて立ち去るべきだった。甘さが残っている。昔は心配なんて欠片も抱かなかったのに。やるべきことを淡々と、機械のようにこなすだけ。そんな簡単な事ができなくなっている。
彼女の先輩としての私は、そうでなくてはならない。
相馬君を乃安さんに任せ、派出所に行って、一年に一度の定期報告をして、その後、簡単な研修を受けて、それから後輩の様子を見て、指導して。それらを終えて帰る直前、メイド長から聞いた彼女の話。
「お前の所に乃安送り込んだ目的、知りたいだろ」
「そうですね」
「どうするかはお前と乃安が決めろ。憧れの先輩さん、責任取ってな」
「どういう意味ですか?」
「先輩の責任ってやつだ。未来ってのは一人で決めているように見えて、周りの誰かに動かされた結果だ。完全に自分で決めるのはそれ相応の力が必要だ。乃安にもお前にもそれはまだ無い。あいつの方向性を決めるのは陽菜、お前の行動次第だ」
よくわからない。つまりは私にどうしろと。
「言われたことをやるのは得意。それの応用、やるべきことを見つけてそれをやるのもできる。だけど、陽菜、お前に決定的に足りない、自分の意志を考える力を養え」
「違いが判らないのですが」
「わかれ」
自分なりに理解して、考える。そして、まだ決まっていない私は、中途半端な態度を取っている。
全然成長していない。
「私はメイドですよ。メイド長」
「そうだな。だが言っておく。私はお前をメイドにしておくつもりは無いと」
相馬君が帰って来た。思い出す。そういえば今日は午前授業だったと。
「おかえりなさいませ」
「ただいま。乃安は大丈夫?」
「はい。これからまた検温してどうするかは決めようかと」
「了解。僕はちょっと出かけて来るよ」
「どちらへ?」
「うーん、とりあえず二時間したら帰って来るよ」
「はぁ、分かりました」
着替えて出かけてしまう。意図がわからない。
学校からの帰り道だった。あの人から連絡が来た。
「よう、少年。お願いがあるのだが良いか? 良いな。よし、一つ頼みがあるのだが、乃安と陽菜を二人きりにして欲しいのだが」
「はぁ、今二人きりの状態なのですが」
「それは良い。そのまま一日放置しておいてくれ」
「えぇ」
「どうせまだお互い気まずい状態だろ。荒療治かもしれないがここは一つ、可愛い後輩と彼女のためと思ってな」
相変わらず言っている意味がわかるが、その意図を話さない。しかし、目的は決して悪いことでは無いのはわかるから厄介だ。
「わかりました。その通りにしますよ」





