第七十四話 メイドと二年生になりました。
「えーっ! 陽菜ちゃん、髪、切っちゃったの?」
「はい」
始業式の日、教室に入って早々、僕らを迎えたのはそんな夏樹の心の底から残念がる声だった。
「色々遊びたかったのに」
「ご自分の髪でやれば良いじゃないですか」
「それじゃ意味ないの!」
頬を膨らませてそう言う夏樹。
「それなら私が夏樹さんの髪で遊びましょう」
「えっ?」
後ろに回ると慣れた手つきで髪を編んでいく。
「この間私にやった一本三つ編みですよ」
「似合うね」
夏樹のイメージに合うと思う。
「あはは、恥ずかしいね。でも今日はこれで過ごすよ」
肩に手を置かれたのを感じて振り向く。
「頼んだ」
死んだ魚の目をした京介に差し出されたのはプリントの束。
「これ、宿題じゃん」
「おう、頼んだ」
「宿題を計画的にやるという約束は?」
「今日わかったんだよ。机の中に入っていたの今まで忘れていた」
五教科それぞれ十枚ずつ、計百枚。
宿題あるある。当日になって新たな宿題が発見される。あるのか?
「それじゃあ、また後で」
京介が自分の席に戻り手元に残されたプリントを見る。
「三人で分けよっか」
夏樹が十枚ほど持って行く。
「そうですね」
陽菜が結構な量を持って行く。
「仕方ないか」
シャーペンを握る。
長期休み明け恒例の宿題終わっていない軍に仲間入りをした僕らは懸命に手を動かし続けた。どうにか先生が来るまでに終わったのは幸いといった所か。答え写しただけだけど。
ここまでの僕はある重要なことを忘れていた。
「ドキドキしますね」
黒板に貼られた一枚の紙に群がる生徒たち。その人垣に阻まれ僕らは内容を確認することはできない。
「そもそも忘れていた僕に何の感慨も無いのだが」
「クラス替えを忘れるとは……。相馬君、結構重要なイベントですよ」
「そうなのか」
「そうですよ。場合によっては新学期スタート時に孤立の可能性もあるのですから」
あちこちで興奮した声が響き合い、人垣が裂け僕らにもクラス分けの結果が見えるようになった。
「まぁ、予想通りですね」
「そうだね」
「同じクラスですね」
「安心したよ」
孤立は免れそうだ。
「とりあえず移動しましょう。夏樹さんたちも同じクラスのようですし」
「だね」
新学期早々良いことがあった。高校三年間は二年生が一番楽しいと言われている。学校にも慣れて受験のプレッシャーもそこまで大きくない、だからこそ楽しんで生活できる。
教室に入っていく。他人の教室に入る時に感じる違和感と抵抗感、これからはここが自分の教室なのだと言い聞かせる。
指定された席順通りの場所に荷物を置き、とりあえず陽菜と夏樹のもとへ。
「感心しませんですよ日暮氏」
「どうかしたの入間さん」
「なるほど確かに、最初は馴染みの人の所に行きたいものですよねです」
頷きながらそう言い、ビシッと僕の顔を指さす。
「ですが! ここは他のクラスメイト、特に新しいクラスの人と交流するべきでしょうです。陽菜ちゃんと姉御はその間私が見ておくです」
「いや、それなら君も交流しなよ」
「私は良いのですよ。というか最近のあの二人は、日暮氏にデレデレ過ぎて少し嫉妬しているです」
「あの二人がなんだって?」
「むっ、鈍いうえに難聴とは。憎いですね。業が深いですね」
よくわからないことを言って二人のもとに行ってしまった。さて、どうするか。入間さんの言っていることは正しい。だがしかし、無理だろ。
「うん、無理だ」
「相馬! 少し出かけるぞ」
「いきなりどうした」
ニヤニヤしながら肩を組む京介。
「一年生がそろそろ来始めるからな。可愛い子いないか見に行くんだよ」
「そんな事大真面目にする奴いたんだ」
「当たり前だろ」
階段を上っていく。一年生教室を四階、二年生三階、三年生二階という構造。少し前まで僕らの教室だったからか、まだこちらの方が馴染みがある。
「何だよ誰も来てねぇじゃねぇか」
「早すぎても目立つし遅すぎても目立つ。丁度良い時間という物を探っているのでは?」
「お前じゃあるまいし……おっ、いるじゃん」
「あっ、本当だ」
一人読書をしている女の子。あの後ろ姿、さっきの子か。
「ポイント高いな。胸が少々足りないけど」
「後ろ姿だけでわかるのかよ」
「無論だ」
そのどや顔はあまり衆目にさらすべき顔では無いが、的外れの事は言っていない。
「どれ、あとは野球部のマネージャーに来てくれることを祈って退散しますか」
「声かけないのか?」
「見に来ただけだ」
「へぇ」
結局特に何事も起きることなく、僕らの下校時刻になった。まだどこか二分された雰囲気のある教室でのホームルームを終えて僕らは学校を出た。
「そういえば、あの後輩さんの事は思い出しましたか?」
「全然だ」
中学の頃、そこまで仲良かった後輩はいなかった。
「でもあの方は知っていましたよ」
視線が鋭い。突き刺さるような視線は今にも僕に穴を開けそうだ。
「怒っている?」
「はい、とても」
どうしたものか。
「うーん」
電車に揺られる。隣に座る陽菜は静かに僕の言葉を待つ。
家に着く。悩む僕の目の前に紅茶が置かれる。
「陽菜」
「はい」
腕に抱え込んでそのままソファーに寝転がる。
「私、まだ許していませんよ」
「知ってる」
「どうして怒っているかわかっていますか」
「わからない」
「気にしていなかったからですよ」
腕の中で体を回しそっぽ向いてしまう。
「せめて、思い出せないにしても考えてあげるべきだったかと。もうすこしだけ。あの時呼び止めて聞いてあげるのも良かったかと。相馬君は他人に無頓着過ぎます」
腕を解いて台所に行ってしまう。
ため息を一つ。これは長引くな。意外と根に持つタイプなのかもしれない。
少し頭を冷やそう。
外に出る。散歩してくるとは言ってきたから大丈夫だろう。
「陽菜の逆鱗に触れてしまったか」
公園のベンチにふんぞり返るように座る。小学生たちはまだ春休みなのか公園で元気に駆け回っている。
その中に、明らかに異質な存在がいる。
「一、二、三」
声を上げるたび、華奢な腕によって振るわれた竹刀は寸分たがわず同じところでピタリと止まる。
しばらく見ていると百を数えたところで休憩を始めた。
タオルで汗を拭い空を眺める様子はそれなりに公園に溶け込んではいるが、竹刀はお巡りさんに見つかったら厄介だろう。
思い出せないなら聞けば良い。
「や、やあ」
「えっ? あっ、先輩。こんばんは」
少し嬉しそうに笑ってくれた。こんな印象の良い子を僕は覚えていないのか。
「僕と君ってどんな接点あったけ? 名前も思い出せなくて」
そう言うと少しだけ顔を赤らめる。表情に出やすい子のようだ。きょろきょろと辺りを見回すと向き直る。
「秘密で、良いですか?」
「どうして?」
「自分でも恥ずかしくて。でもあの出来事のおかげで、剣道に本気で取り組めるようになったので」
「剣道部なんだ」
「はい」
竹刀を握る手に力が籠るのが見えた。
「強くなります。日暮先輩みたいに。私の名前、知らないのも無理ありませんよ、名乗ってませんから。朝比奈乃安です」
そう言うといそいそと竹刀を片づけてぺこりと一礼。朝の時のように、だけど足取り軽く走っていく。
「うーん、教えてもらえないか」
陽菜の怒りは正当で、むしろ今まで甘やかされすぎていたと言える。知らない人に対して無関心すぎるのは直すべきことだろう。
「ただいま」
「おかえりなさいませ。夕飯そろそろできるのでどうぞ」
玄関まで出てきた陽菜、視線が優しい。
「えっと、会ってきた、後輩ちゃんに」
「どうでした?」
「教えてくれなかったよ」
「そうですか」
頭に手を乗せられる。
「よしよし、よく頑張りましたね」
「なぜ子ども扱い」
「ちょっとした罰ゲームです」
「そうか」
むにっと頬を摘まみ上げる。
「笑えばもっとそれっぽいぞ」
「なるほど」
そう言って不敵に挑発的に笑う。
「さぁ、夕飯にしましょう」
「お、おう」
テーブルに着けばその上に座って来る。
「この体勢で、食べさせてください」
また随分と。可愛らしい仕返しだな。
「どうしたのですか? 顔を抑えて」
「何か恥ずかしくなってきた」
その後、陽菜の全力の罰ゲームに顔の赤みが引くことは無かった。
そして本格的に学校が始まる朝。
「おはようございます。先輩」
「おはよう」
駅で待っていた朝比奈さん。見つけた途端嬉しそうな表情になるのは何と言うか、嬉しい。
「朝比奈乃安さんですね。初めまして、朝野陽菜です」
「初めまして。朝野先輩」
「相馬君。部活入らなくても後輩できたじゃないですか」
「そうだね」
新鮮な空気を肺いっぱいに取り込む。親しくできそうな後輩ができたという事実、背筋が伸びる。
「先輩方、部活入っていないのですか?」
「はい。私も相馬君も」
「そんな……」
あれ、どうしてそんなにショックを?
「剣道教えてもらえると思ったのです」
肩を落として歩き出す。罪悪感が湧いてきたが剣道はやったこと無いからどうしようもないことだ。いきなり後輩の期待を裏切ってしまったのは申し訳ないが。
「申し訳ありません、朝比奈さん。相馬君、剣道やったことありませんよ」
「えっ?」
「陽菜」
それを言うのは駄目だろ。見栄を張るのも駄目だけど。こっちを見る朝比奈さんの目が驚愕と尊敬の色が現れる。ん? 尊敬?
「ということは独自の流派ということですか? 是非とも教えてください!」
「えっ……? いや、変な癖つくとまずいし」
「大丈夫です。お願いします。教えてください」
「ちょっ、近い近い」
零距離。思わずのけぞってしまうほど。
「あの、今日も公園行くのでお願いしても大丈夫ですか?」
「うん、OK。わかったから離れて」
満足気に笑う後輩。でもまぁ、後輩ができたという高揚感、嫌な感情は無い。
「じゃあ、放課後ね」
「はい!」
なぜ僕に剣道を? という疑問は一旦置いておこう。





