第六十七話 メイドと覚悟を決めます。
「お兄ちゃん、帰ろう」
「あっ、うん」
練習終わり、腕を絡められそのまま前に引かれる。陽菜は困ったかのように目を泳がせる。
「「お兄ちゃん?」」
部長と入間さんが首を傾げる。そりゃそうだ。むしろ僕がここまで落ち着いた気分でいられる方がおかしい。
陽菜が二人を教室の隅に呼び寄せる。上手くごまかすのかかいつまんで教えるのかは陽菜に任せよう。
「夏樹、歩きづらいし一旦離れよう」
「えー、陽菜ちゃんは良いのに?」
「陽菜より背が高いし、それに当たってる」
さっきから腕に弾力のある感触が……。
「お兄ちゃんなら良いよ」
そう言ってさらに強く腕に抱き着かれる。
「陽菜」
「はい」
呼ぶだけで意図が通じたのか帰り支度をすぐに済ませて来る。
家路につく。どうするべきか考えなければならない。それはわかっていることだ。ただそれだけをわかっているだけだ。
布良さんの家、誰もいない。
「それじゃあ、僕らは帰るから」
「えっ、帰っちゃうの?」
「うん」
わかりやすい帰らないでアピール、僕はどうすれば。
「相馬君、私、先に帰ります」
「えっ?」
「相馬君は夏樹さんが落ち着くまでここにいてあげてください。泊まる際はご連絡を」
「……わかった」
そう言うと一礼して出て行く。
「お兄ちゃん、隣座って」
テレビの前に置かれているソファー、促されるままに座ると膝を枕に寝転がられる。
「えへへ」
無邪気な笑顔、未だに何が起こったのかがわからない僕には夢でも見ているような状況。
「ただいまー」
玄関の方から声がする。この状況はマズい。
「おかえりー」
布良さんが立ち上がり玄関に走っていく。
「お兄ちゃん、何しているの?」
「えっ、あぁ。お邪魔しています」
「あら、いらっしゃい」
スーツに身を包んだ布良さんのお母さん。仕事帰りに買い物したみたいでパンパンの買い物袋を持っている。
「夏樹、あなたは一旦部屋にいなさい。日暮さんと大事な話があるから」
「えー、もう。早く終わらせてね」
意外と素直に従う布良さん。部屋に行ったのを確認して僕に座るよう促す。
「どんな様子ですか?」
「僕をお兄ちゃんと呼んでいます」
「なるほど」
何やら納得すると鞄からファイルを取り出す。中には新聞の切り抜きが入っている。
「これは?」
「夏樹の兄、夏生は交通事故で亡くなりました」
静かな声で言われた言葉。でもそれは、夏樹さんのあの時呟いた、僕と陽菜が触れようとしなかったあの言葉と繋がらなかった。
『お兄ちゃんを殺したの、私だ』
暗黙の了解のように、僕と陽菜はその言葉について議論を交わさなかった。
「交通事故というのは?」
「はい。あの日、夏樹は小学五年生でした。私は警察から聞いた情報しか知りませんが。二人は仲良く歩いていたそうです」
仲良く歩いていた二人は交差点で信号を待っていた。そこに大型トラックが突っ込んできた。先に気づいたお兄さんが夏樹さんを突き飛ばし、一人轢かれた。即死だったそうだ。
「目の前で兄が死んだことにより心を閉ざし、たまに呟くことは私が先に気づいていれば、と。お医者様と相談して、夏樹の記憶を封印することにしました。上手くいくか確信はありませんでしたが、どうにか普通の生活を送れるようになりました」
目の前にいつの間にか置かれていたお茶を一口、似ているようで違う、僕と布良さん。ふと眺めた扉の向こう、あそこで毎晩夏樹さんはお兄さんに思いを馳せていた。
「今は、ご迷惑をかけて申し訳ありませんがお付き合いください。お医者様と今相談しているところなので。すいません」
深々と下げられた頭。もし、何か望みがあるなら……。
「わかりました」
だから今はやれることをしよう。
マンションを出て陽菜に連絡。電車に乗って僕は速足で家に帰る。今は陽菜に会いたい。気がついたら雪道の中走っていた。
「おかえりなさいませ、うわぁ!」
玄関で出迎えた陽菜に思い切り抱き着く。
「どうかされましたか?」
「どうかしてる。今はこうしていたい」
「はぁ、わかりました。私で良ければいくらでも」
「陽菜が良い」
こうしているだけで、不安も焦りも消えていく。ざわついていた何かが静まっていく。
「ん? 陽菜、泣いた?」
「えっ? 相馬君、何をおっしゃっているのですか? 泣いていませんよ」
「目、赤いよ」
「気のせいです」
そっか。陽菜と布良さんはやっぱり友達だ。切っても切れない友達だ。
「やっぱり陽菜は僕がいないと駄目みたいだね」
「そうですよ。相馬君は私がいないと駄目ですから。放っておけません」
束の間の安息と言える時間、少しの時間、僕らは笑い合った。
「なるほど、そんな事が」
布良さんのお母さんから聞いた話を陽菜は静かに受け止めた。
「相馬君はどう受け止めましたか? 境遇としては似ていると思われますが」
「全然違うよ。僕は自分から忘れた、布良さんは忘れさせられた。これは大きな違い」
布良さんは向き合おうとした、僕は向き合う事を拒否した。布良さんは助かろうとしなかった、僕は助かりたかった。
「明日、夏樹と話してみる」
「そうですか、ところで相馬君、相馬君は布良さんと呼ぶのと夏樹と呼ぶの、どちらがしっくりきますか?」
「えっ、うーん。わからん」
「そこも考えてみた方がよろしいかと」
「わかった」
陽菜が考えてみた方が良いというという事はきっと大事なことなのだろう。
「おはよう、夏樹」
「お兄ちゃん、おはよう」
昨日と変わらない。虚ろさが消えてはいるがいつもと違うのはわかる。
「おはようございます、夏樹さん」
「うん、おはよう」
朝の通学路、駅前で布良さんは待っていた。僕の左側につくと、そのまま腕に抱き着いてくる。
「今日も練習頑張ろう」
「むっ」
隣で何かが燃え上がった気がしたがそれもすぐに収まる。
話すと言ったがどう切り出せば良いのだろう。何事も言うのは簡単だ。向きあえ、乗り越えろ。そんなことはわかっている。それでもできないから困る。
布良さんも僕もそうだ、そこは共通点だ。
右腕の袖が引かれる。陽菜の目、強い意志が感じられる目、僕の手を引く時の目、弱気になった僕を立ち上がらせるときの目。
やろう。踏み込むしかない。知ってしまった以上、後戻りはできない。
「お兄ちゃん?」
左腕に込めた力が抜ける。不安げな目、それを見たとき、僕の中で出来上がった決意が揺らぐ。布良さんをこれ以上壊しても意味が無い。そのリスクを背負って僕は挑めるのか。壊れてしまったとき、僕は責任をとれるのか。
雪が降り始める。振り始めた雪はさらに濃く、町を白く染め上げる。
「日暮君、練習全然身が入ってないね? 疲れてる?」
「えっ、そんなこと無いですよ」
「布良ちゃんに変な罰ゲーム課す元気があるわけだし、確かにそれは無いか。ちゃんと集中しなよ」
「はい」
陽菜は罰ゲームと言ったのか。
「はい、昼休憩」
部長の号令で昼食の時間になる。
「どうぞ、相馬君」
「どうぞ、お兄ちゃん」
「えっ? 二つ?」
「ギルティだね、日暮君。本来なら吊し上げるところだよ」
食べきれるかな……。ここはこうするか。
「あっ、美味しい。陽菜も食べてみなよ」
「本当ですね。美味しいです」
「やった。褒められた」
味見戦法とでも呼ぶか。布良さんの性格なら不機嫌になることは無いはず。
「入鹿もいただきますです」
部長に入間さんにと一口ずつ食べる。あれ、量があまり変わってない。三口なら当然か。
「そういえば姉御、罰ゲームいつまで続けるのです?」
「罰ゲーム? 何だっけ?」
「入鹿さん」
「あっ、ごめんなさいです」
入間さんのいたずらっ子のような笑み。
「部長と入鹿さんには罰ゲームを指摘されたら一週間延長なので、指摘しないであげてくださいと言ったのですが……」
耳打ちされたのはそんな内容。いや、それじゃあ逆に指摘したくなると思う。
「ねぇ、お兄ちゃん。今日の帰りも寄って行ってくれる?」
「うん、わかった」
一見平和で、いつも通りで、楽しい風景。もういっそ現状維持でも良いのではないかとも思う。それでも頭にちらつくのはいつも背中を押してくれる布良さん。
「取り戻したいってのもエゴだよな」
小さく呟く。傷つかないために自分を守る体勢に入った人を無理矢理外に引き出そうと僕らはしている。僕らは正しいことをしている。それを自信を持って僕は言えない。
「それでも人は前に進むべきです」
耳元で囁かれた厳しい言葉。
「辛くなったら休んでも良いです。ちゃんと立ち上がるのであれば。それを支えるのが私の役目ですから」
「陽菜、ずっと気になっていたのだが」
「はい」
「心読めるの?」
「相馬君の事は何でもわかりますよ」
自信満々の言葉に敵わないという事を思い知らされた。





