第二十六話 メイドを連れ戻しに出かけます。2
陽菜がいた。
一瞬だけだが、陽菜がそこにいた気がする。
「くっ」
気合を入れろ、わずかに残った体力を振り絞る。乾いた雑巾から水を絞り出すようなものだがそれでも無理やり立ち上がる。
「まだやる気? あんた別の方向で化け物ね」
「陽菜! 聞こえているだろ!」
叫ぶ。体力が無いなら気力で、気力が無いなら無理やり湧かせろ。
「お前、退職願の提出先、間違えているぞ!僕に出したって無効だぞ!自分で言っていただろうが!それにだ、あんな一方的な手紙だけ残して出ていくだなんてふざけんな!言いたい事だけ言ってあとは忘れてくださいだと、そんなこと許して堪るか!出てこい陽菜!あんな別れ方、僕は認めないからな!」
全てを吐き出した。正面を見据える。
「言いたいことは終わり? ここまで楽しい時間をくれたから最後に言いたいことを言うくらいは許したけど」
「あとはそこを通してくれたら言うこと無いね」
「それは無理」
結城さんは凶暴に笑う。
「では、お帰りくださいませ。お客様」
ご主人様の声が聞こえる。掠れていてよく聞こえないが、言いたいことは伝わって来る。私は、靴の底にいつも仕込んでいる針金で鎖を外した。
立ち上がったは良いが一歩も動けねぇ。これは駄目だな、さすがに耐えられない。どうしてかスローに見える動き。それでも足が震えて、内臓がひっくり返ったような気持ち悪さを感じて、朝何も食べなくて良かったなと考えて、そこまで考えて痛みが思考の邪魔をして。
あぁダメだ。これでは。頑張ってもできないことがあるのは現実。全力を尽くしても届かないところがあるのは事実。なら最後に潔く散るのはどうだろうという理想を思う。
僕は目を瞑り、とどめの一撃を待った。
「諦めるのは早いです。ご主人様」
そんな言葉とともに結城さんの拳を受け止める黒髪のメイド、結城さんはすぐに間合いを取る。
「おいロリメイド、邪魔しようってのか?」
「その通りです脳筋メイド。雇用関係を重んずるのはメイドとして当然と考えます」
この二人、やっぱり仲悪いのかな。
「はぁ? あんた辞めてきたんだろ、今更守ろうってのかよ」
「ちゃんとやめていたら私はこの派出所を優先していたでしょう。しかし私はまだ雇用関係を解消できていませんでしたので、ご主人様を守ります」
「ふーん、まぁ良いや。あんたあたしに勝てたことあったけ?」
「無いですね。しかし、ご主人様と闘って満身創痍のあなたに負ける気はしません」
二人が構える。しかしお互い動かない。静かだ、不気味なくらい静かな時間が過ぎる。
「そこまで!」
そこに場違いな陽気な声が響く。
「はっはっはっ。相馬、随分とボロボロじゃないか。まだまだ父に勝つには程遠いな」
えっ?
「旦那様」
「やぁ朝野さん。息子が迷惑かけたね」
父さんが悠々と歩いてくる。
「おいおい、遅いじゃないか恭一。待ちくたびれたぞ」
「どうもです。先輩」
二階からスーツを着込んだ女性が覗き込んでいる。ていうか先輩? 駄目だ、頭がふらふらする。
「相馬君!」
視界が暗転する。力が抜ける。父さんが来たなら大丈夫だろう。うん。あのメイド長とかいう人がどれくらいできるか知らないけど、あの人が負ける様子とか、想像できない。
目が覚める。窓から見える景色は夜の闇に包まれていた。
「ご主人様、起きましたか?」
「陽菜?」
ベッドのわきに置いてある椅子に腰かけた陽菜が、僕を見つめている。
「どうなった?」
「まず、ここは派出所の客間です。今日は泊って行ってください」
「了解」
「とりあえず、詳しい話は明日という事になりました」
「うん」
「それと、ご主人様。ごめんなさい。私のせいで、そんなに怪我して、ごめんなさい」
お腹をさする、ズキズキと痛い。お腹だけじゃなくて体のあちこちが痛い。
「陽菜が謝る事じゃないよ、僕が勝手にやったことだから」
「でも! でも、私、勝手に何も言わずに辞めて。なのにご主人様は追いかけてきてくれて、助けられたのにすぐに助けに入らなくて」
陽菜が泣いている。京介の言葉が頭によみがえる。
『いつまで閉じこもっているんだ』
「陽菜、泣くな。今ちゃんと目の前にいてくれている。それだけで僕は嬉しいから」
まずは、素直な気持ちを伝えよう。それくらいなら、できる。
ベッドから降りて陽菜を抱きしめる。そこにいる事を確かめるように、抱きしめる。ちゃんといる、闘った意味があった。しばらくそうしていて、陽菜が落ち着いたのを見計らう。
「それよりもさ、陽菜。お腹すいた」
そう言うと、笑って答えてくれた。
「わかりました。何か作っておくのでお風呂入ってきてください」
湯船の中で足を伸ばす。驚いたのが服を脱いだら全身あざだらけという事だ。そりゃそうか、あんなぼこぼこ殴られたら。
京介どうなったのか。多分大丈夫だとは思うけど、ちゃんと帰れたのだろうか。それともここに泊まっているのだろうか。ぼーっと考えて、あとで聞けば良いやって。今は考えるほど余裕が無いし、考えても仕方がない。
程よく温まり風呂場を出ると陽菜がすぐ外で待っていた。
「ご主人様、料理の方が準備できたのでついてきてください」
「うん」
陽菜に連れられて屋敷の中を進む。ここに住んでいる人達はもう寝静まったのだろうか、とても静かだ。しばらく歩き、食堂に入る。
「簡単なものしか用意できませんでしたが、お召し上がりください」
「うん、ありがとう」
ご飯にみそ汁に卵焼きに鮭の塩焼き。どれもおいしい。おいしいのにどうして僕は泣いているのだろう。
黙って横から渡されるティッシュで涙を拭く。涙を拭いてまた食べる。気がついたら全部食べ終わっていた。
「ごちそうさま」
「お粗末様でした」
陽菜と別れ客間に戻る。家のベッドよりふかふかのベッドに寝ころぶ、数える染み一つない天井を眺め僕は確信する。
僕はいつの間にか、陽菜のことが好きになっていた。
「ご主人様、お目覚めですか?」
扉がノックされる音とともに目が覚める。いつもよりゆっくりとした目覚めだ。
「おはよう、陽菜」
「おはようございます」
陽菜が手に持っていたのは昨日僕が着ていた服。
「乾きましたので持ってきました」
「ありがとう」
不思議だ、自分の気持ちを自覚して接していると陽菜の話す一言一言を聞き逃したくない。一緒にいる一瞬一瞬を大事にしたい。
着替えて陽菜に連れられて歩く。すれ違う人がみんなメイド服を着ている。すれ違う時立ち止まり一礼されるのがどうにも慣れない。
「朝食を済ませたらメイド長の執務室の方で話し合いです。旦那様は昨夜、メイド長にかなり飲まされたそうでまだ眠っています」
「うん、了解」
メイド長の部屋、扉を開くと机に足を乗せながら書類に目を通している女性、昨日父さんが先輩と呼んでいた人だ。
「来たか少年。恭一の野郎はまだか?だらしないな。陽菜、呼んで来い」
「その必要は無いですよ先輩」
スーツを着込み入ってくる父さん。かなり飲まされたとは聞いていたが二日酔いの気配すらしない。
「遅いぞ、私は待つのが苦手だ。さて、人はそろった。始めるぞ。まずは今回のことは陽菜の勘違いということで良いのか?」
「はい、メイド長」
「ふむ、しかしながら退職願を提出する相手が海外にいるというのは労働環境的にどうなんだ?」
「確かに、雇用主が受け取る原則に従っていたとはいえ、朝野さんには悪いことをしたね」
「じゃあ僕が雇い直そう」
僕は立ち上がる。
「僕が雇えば解決する」
深い考えがあったわけではない。でもそうなれば良いと思った。
「粋がるなよ少年」
メイド長の冷たい声。
「貴様に陽菜の給料が払えるというなら何も言うことは無い。だがお前はまだ庇護を受ける立場だ、そんな奴にうちのメイドを預けるわけにはいかない」
黙り込む、確かにそうだ。
「まぁ、そんなわけで新しく契約書を作った。とはいっても変更点は退職願の提出先だけだ」
「了解、サインするよ」
父さんはあっさりサインする。陽菜もペンを持つが書き出さない。メイド長はそんな様子を見て言い出す。
「陽菜、おめぇ少年のことが好きだろ」
「なっ、何を言っているのですかメイド長」
「見てればわかる」
取り乱す陽菜。メイド長は一枚の紙を取り出す。メイド禁則事項と書かれた紙の一ヶ所を指す。
「陽菜、勘違いしているだろ。ご主人様に恋をしてはいけないというのは、ご主人様に自分とは別に心を決めた相手がいる場合のみだ。いないなら好きになっても構わないぞ。恋仲になっても止める気は無い。お前を鎖に繋いだのは単純に盛り上がると思ったというだけで、罰とかそういう意味は無い」
「えっ?」
「つまりこの事からも、今回の発端はお前の勘違いだ」
一瞬、陽菜は固まる、ぐるりと一周僕らを見渡し深々と陽菜は頭を下げる。
「大変、申し訳ございませんでした」
こうして陽菜と無事に雇用契約を結びなおすことができた。





