陽菜√第十六話 メイドとの未来を考える。
「乃安さん。もう寝て頂いても大丈夫ですよ」
「あ、あはは。先輩、証拠隠滅には人手が必要だと思います」
「ですが……」
「大丈夫です。ちょこっと拭いて、あと匂いも誤魔化さなきゃいけませんね。こびりついたものも落とさなければ。包丁とか特に」
「そうですね。わかりました。お願いします」
「はい、毒を食らわば皿まで。どこまでもお付き合いいたします」
陽菜は最近。毎日放課後になるとお見舞いに行く。休日も僕が行くときは必ず付いてくる。
交わす言葉も少なく、陽菜が淡々と花瓶の水を変え、その様子を、友恵さんが淡々と眺めている。
確かに、親子だ。似ている。放課後のお見舞いに、僕は珍しく付いてきた。僕があまり行かないのは、何となく陽菜が一人で行かせてほしいと思っていると感じたから。でも、今日は付いてきて欲しいと言葉にはしなくても、そう思っている気がしたから。
「今日は、フルーツゼリーを作ってきました」
「あなた、いつも果物使うね」
「果物は大事です」
「昨日はアップルパイだったかしら?」
「昨日はイチゴタルトです。アップルパイは一昨日です」
親子というより、年の離れた友人のように見える。僕が何をするわけでもなく、陽菜は自力で関係を築いた。出会った頃では考えられなかった。
「先が長くないから、私としては、もっと体に悪そうなものを試したいものね。煙草とか、一度も吸った事無いからやってみたい。出来れば法に触れるお薬も」
「流石に、持ってこられませんね。手に入りません」
「わかっている。そんなこと」
冗談めかしく笑う友恵さんを、陽菜は感情を示さず、眺める。
「相馬さん。あなた、本当に兄さんにそっくりね。そういう風に眺めている時の目とか」
「そうですかね?」
「その反応まで」
そう言って、紙に包まれた何かをこちらに放り投げる。
「それ、私の旦那が使っていた物よ。あなたにあげる」
「……これ、持っていたら捕まりません?」
「確実に捕まるね。でも、私にとっては形見よ。兄さんから教わってないの? 兄さんはいつも、自分の子どもには、自分の身を守るだけじゃなくて、自分にとって大事なものまで守れる力を身に着けて欲しいと言っていた」
銃に関する知識はほとんど無いが、手が震えた。確かに、これがあれば、いざという時陽菜を守れるかもしれない。
日本に帰る直前、それじゃあ、日本でできないことをしようかと射撃場に連れていかれたのは今でも覚えている。
その時は見ているだけだったが、家に帰ってから、父さんが持っている銃の操作は教えられた。
「あの時のは、母さんの病気がそこまで酷くないと思わせるための一環だったと今は思いますけど、でも、受け取っても良いのですか?」
「あげると言った。嘘はない」
「でも、僕は使いません、これは」
「へぇ、その心は?」
「これは、他者に不幸を強いるものです。僕が父さんに教わった人を倒す技術もそうです。僕はこれから、他者を不幸にすることなく、幸せになる方法を探す。そのつもりでいます」
「兄さんの上を行くと言うんだ」
「はい」
「でも、それは持って行ってもらわなくては困るね。病院に迷惑かけたくない。私が死んだあと、遺品整理でこれが見つかったら困るもの。持って行って頂戴」
仕方なく、僕はそれを鞄に仕舞った。
目の前に、間もなく死ぬ人がいる。
いや、まだ決定したわけでは無い。だけど、本人は確信しているし、準備を進めている。それは良い。でも、変な気分だ。人が死ぬなんて、僕にとってはまだ夢物語だから。僕が無くしていた記憶すら、その事実を事実として確信させるだけの影響を、僕には与えてくれないから。
「そういえば、相馬君。今日が何の日かご存知ですか?」
「二月十四日。バレンタインだね」
「正解です。わかっているのなら、チョコの催促くらいしても罰は当たらないと思いますけど」
「恥ずかしいから、無理」
陽菜が丁寧に包装された箱を差し出す。早速とばかりに開いて見ると。
「おっと」
中からばね仕掛けの人形が飛び出してきた。道を歩いている人が、面白そうにクスクスと笑いながら横を通り過ぎていく。
「間違えました。こちらですね」
「わざわざこちらを渡した理由は何よ」
「間違えました」
わざわざ持っている理由がわからないのだけど。まぁ良いや。陽菜が改めて差し出した箱の中には、ちゃんとチョコレートが入っている。
口に入れると、丁度良い甘さが口の中に広がった。
「どうですか?」
「どうって? 美味しいよ」
「私も味見してみても良いですか?」
「うん。はい」
「そっちじゃなくてですね……察しが悪いです」
陽菜は僕が差し出したチョコを無視して、僕の口の方に目を向けて、でも、じれったくなったのか、背伸びをして、僕の頭を後ろから掴み、ほとんどぶつかるように、僕と陽菜の間の距離はゼロになる。一瞬だけ、舌が口の中に入って来た。
「はい、成功ですね。良い味です」
「わざわざ手間のかかる方法を……」
「無駄を楽しみましょうよ。昨日の夜、頑張って乃安さんと作った甲斐がありましたよ。わからなかったですよね?」
「うん、痕跡も無かったから、今年は無いと思った」
道端で、人の目があるところでやる事じゃねぇと思いつつも、熱くなる顔が、湧き上がる幸福感が、誤魔化しきれない嬉しさを、表情として表明した。
「あー、もう」
駆け出した。雪道を。
すっかり暗くなった夜空の下。僕は思いっきり走った。後ろからパタパタと追いかける足音が聞こえた。
「なんでそんなに汗だくなのですか? 先輩方」
「さ、さぁ?」
「なんででしょうね」
僕の将来設計図を書こう。そう思った。
陽菜にちゃんとプレゼンしよう。そう思った。
そのために必要なことは準備だ。陽菜の人生を背負う覚悟はある。けれど、背負われる側も覚悟が必要だ。陽菜なら説明しなくても、付いてきてくれの一言で来てくれるかもしれない。けれど、それでは駄目だと思う。だから、僕はちゃんと僕の頭の中にある設計を文字として、図として、パソコンに起こす作業を始めた。
メイド長宛にメールを書いた。時間があれば来てくださいと。友恵さんと父さんにも、当日テレビ電話で見てもらう事にしている。乃安にも、莉々にも、お世話になった結城さんや東雲さんにも、夏樹や京介や入鹿さんにも来てくださいと。
こんな事に意味があるかは知らないけど、でも、やらなきゃいけないと、感じたから、やるんだ。
理想を現実に落とし込む作業。僕はこれをいつか、理想に現実が合わせるという事を目指さなければいけないのかもしれない。
理想論を、幸福論を書き綴っていく。
「相馬君。何をしているのですか?」
「未来の事を考えている」
「素敵なことですね」
「かもしれない」
僕の、漠然とした、はっきりとしない主張を表すのに、丁度良い言葉を探す。
誰も不幸にしないで幸福になって、余った幸福を配る。それを実現するには……そもそも現実的に可能なのか。いや、可能にしなければ、駄目だ。
もっと普通な生き方ができれば、苦労しないのにな。頭を休めながら、天井を眺めた。
陽菜なら、「相馬君らしい生き方ですね」と、言ってくれるだろう。喜んで付いてきてくれると思う。でも、その優しさに甘えないように、したかった。
「よし、もうひと頑張り」
パソコンを打つ音が響く。どんな反応が返ってくるのか、今からでも怖い。
幸せになる権利が全員にあると言うなら。僕にできることがあると言うなら。僕如きに達成することができるとは思っていない。でも、少しでも、この世界が良くなると言うなら、突き進みたい。
気がつけば朝になっていた。頭が重い。一時間くらいは寝ておこう。ベッドに身を投げ出して、少しだけ眠る事にした。