陽菜√第十五話 メイドと親の再会。
目が覚めた。
スッキリとした目覚めだ。頭が重くない目覚め。瞬きを繰り返して、少しずつ体を起動させていく。
そろそろ起きなきゃなと思うけど、ベッドは柔らかさと温かさで誘惑してくる。こんな時、陽菜が都合よく起こしに来てくれないかなと思う。自分で起きて来るとわかっているから、来ないと思うけど。
カーテンの隙間から日差しが差している。と思ったら、一気に開かれ、視界が一瞬白く染まった。
「おはようございます。相馬君」
「……おはよう、陽菜」
既にばっちり起きて働いていた陽菜が、ベッドのわきに立ち、柔らかい微笑みと共に僕を見下ろしている。
「良い朝ですね」
「そうだね」
起こしに来たことに驚き、でも嬉しく思ってしまう。
さっさと起きて着替えようとする僕を、陽菜はじっと眺める。
「あの~、陽菜さん。着替えたい」
「はい。どうぞ」
まぁ、今更陽菜の前で着替えることに抵抗はないから良いけど。
陽菜が脱ぎ捨てたパジャマを拾っていく。ちゃんと渡せば良かった。
陽菜がじっとこちらに視線を向けている。その目は何かを欲しているように見える。なんだろう。考える。女の子の考えはよくわからないけど、言われる前に気づくのも大事だろうし、ちゃんと考えよう。
洗面台の方まで歩き、うがいして顔も洗ってしまう。その間も陽菜がついてくる、まぁ、僕のパジャマを洗濯機に入れたいだろうから仕方ないのだけど。でも、じっとこちらを見る視線は変わらない。
「じーっ」
そんな音が聞こえてきそう、というか。
「乃安」
「あら、気づかれましたか。では、失礼」
陽菜がこういう時は、何かを求めている時だという事はわかる。
よし。
「陽菜」
僕は、陽菜を、逃げるとは思っていないけど、何となく壁に押し付ける。
陽菜の目が、僕を見上げ、正解である事を告げる。綺麗な目だ。改めて見ても。顔を近づけていくと、ふわりと、良い香りがした。爽やかな甘い、僕が大好きな香り。
そして、そのまま優しく唇を合わせた。
意識が、どこかに吹っ飛んでいくような気がした。体がふわりと空に浮かぶような幸福感があった。
「……遅いですよ、正解に辿り着くのが」
「ごめん。わからなくて」
「良いです。今度遅かったら、私からすれば良いので。というか、ずっとそうしてきたのでそうすれば良かったです。えぇ、相馬君は積極的な女の子はお嫌いですか?」
「全然」
「なら、今度からそうしますね。こちらからガンガン行きます」
「なら、今はこちらからもう一回」
乃安がこちらに歩いてくる足音が聞こえるまで、朝から糖分高めな時間を過ごした。
ジャージに着替えた意味が無くなってしまった。
「あの、こんな感じの服でどうでしょう?」
「似合っているね。良いと思う」
「ですね。流石先輩です」
入院中の人にお見舞いする時に何を持って行くのか。うろ覚えの、無意識のうちに思い出すことを拒否する頭を無理矢理回して、考える。
手が握られた。陽菜だった。
「大丈夫です。私と乃安さんで用意するので」
「あ、あぁ。ありがとう」
ここで止まったら、前と同じだ。
「でも、やっぱり手伝うよ」
「はい」
無難なのは、花かな。個人的に嬉しいのは、フルーツの盛り合わせ。花って邪魔になるとか言う人いそうだし。
僕と陽菜が行くことは、特に僕が行くことは不自然なことでは無いだろう。
初めてのお見舞いという事で、乃安には留守番してもらう事にした。それに、今回は、陽菜に母と会ってもらう事が目的だ。
病院までの道。少しづつ、足が重くなっていくのを感じる。
息が荒くなっていく。
ここで僕が足を止めてどうする。馬鹿が。平然として、当たり前のように、何事も無いように、振舞え。
体の感覚をなるべくシャットアウトしようと、目の前の風景に集中する。それだけで、幾分か楽になった。でも、毒のように少しづつ、蝕まれていくのがわかる。
「ん?」
不意に、陽菜が足を止めた。黙って手を差し出される。
手を繋ごうという意味だとわかる。けれど、それだけではないというのは、すぐにわかった。
「横に私がいるのを忘れないでください」
「忘れてないよ」
「……間違えました。私は、連れていかれるのではありません。一緒に行くのです」
もう一度、陽菜は手を差し出す。僕はその手を握った。少し、冷えた手だ。わざわざ、このために、こんな寒い雪道で、手袋を外したのか。
でも、その価値はあった。僕は、ちゃんと歩けるようになる。たったこれだけのことなのに、
改めて歩き出す。無意識のうちに避けていた、その場所に。母さんの入院していた病院に。
病院は、結構広かった。記憶にある光景と大分違って、一階にはカフェスペースができていた。微かに香るコーヒーの香りは、消毒液の匂いと混ざり合い、病院だけど、病院ではないという矛盾した認識を誘う。
僕と陽菜は引き寄せられるようにカフェスペースの一角に座った。
「少しだけ、休みましょう」
「そうだね」
とは言っても、引き延ばしにしかならない。陽菜は決断する時間が必要なだけで、会うだろう。無理してでも。だから、今度は僕が横で支えなければならない。
苦味が強いのは、ここで働く人たちへのニーズに応えてなのか、それとも偶々なのか。別に飲めないほどでもないけど。
そして、しばらく。陽菜がコーヒーを少し表情を歪ませながら飲み切ると。
「行きましょう」
「うん」
ゆっくりと陽菜は歩き出した。部屋番号は入鹿さんから聞いていた。
廊下は少し暗い。日差しが差しこまず、電気も付いていない。その廊下を進んだ一角にその部屋はあった。一人部屋らしい。
ノックをすると、すぐに中から返事がして、扉を開く。
記憶にあるより少し痩せただろうか。僕らの姿を見て、少しお驚いたようだが、すぐに微笑んだ。
「お入りください。それとも、移動しますか? 一階のカフェはお勧めしないけど」
「いえ、ここで構いません」
陽菜がすぐに返答した。
「そう」
陽菜はベッドのわきの椅子を僕に勧めて、自分は立っていることを選んだ。
「あなたは、確か、旅館で会ったね」
「はい。お久しぶりです」
「どうして、私がここにいることがわかったの? というか、なんでわざわざお見舞いにきたの?」
「そんなの、自分でわかっているのではないですか? 日暮友恵さん」
「その苗字で呼ばれるのは久しぶりね。ずっと、矢田目の方で通していたのだけど」
意外と平然としている。いつかこんな日が来ることは予感していたというか、期待していた、そんな雰囲気を感じた。
「なら、僕の隣にいる子も、わかりますよね」
「えぇ、兄さんから聞いている。娘と呼ぶ資格があるほどの事はしていないけど。朝野陽菜さん」
「……はい。初めまして、矢田目さん」
母親と娘の初めての会話は、素っ気なく、他人行儀で、冷え切っていた。
いや、僕は何を期待していたんだ。涙の再会か? 怒涛の罵倒の嵐か? 親子らしさを求めていたというなら、僕は馬鹿だ。
「ありがとう、相馬さん、会わせてくれて。あなたでしょ、連れて来てくれたの」
「連れてきたのではありません。一緒に来ただけです。……体、悪いのですか?」
「今度の手術次第ね。いえ、成功しても、治る見込みはほとんどない。治らなくても数年は生きられるかもって程度ね」
「そう、ですか」
陽菜は何も言わずに花瓶の水を替え、用意していた花を挿し、持ってきたフルーツから、リンゴを選んで、皮を剥いて、皿に盛りつけた。
「ありがとう、手際が良いのね」
「ありがとうございます」
ぎこちない二人は、親子を求めるのが無理な事でも、少しづつ、何か別の関係の形を探している、そんな風に見えた。