陽菜√第十三話 メイドの願い。
陽菜は目を閉じて、頷いて、そして、何も言わずに書類を片付けた。
「相馬君の言いたいことはわかりました」
「うん」
「そして、私にして欲しい事もわかりました」
「うん」
「なので、どうしてそうして欲しいと思ったのか、それを教えて欲しいです」
陽菜は、そう言って、僕の言葉を待つという意思を込めて、口を閉じた。
「ごめん。陽菜」
「何に対して、謝っているのですか?」
「陽菜は、従兄弟だったのに、僕は、何も知らなかった。陽菜は僕に色んなことをしてくれたのに、何もできなかった。不幸面してさ」
陽菜は静かに聞いている。だから、僕は話せた。
「陽菜のお母さん、もう長くないって。僕が母さんが長くないって知ったのは、入院してからしばらく経ってからだったよ。ずっと隠していてさ。時々退院しては、無理して僕を色んな所に連れて行ってくれて、僕は、何も知らなかった。何も。もうすぐという時に、ようやく、知った。何も気づかなかった」
陽菜は黙っている。何を汲み取ろうとしようとしているのか、僕にはわからない。ただ、思いつくままに、話し続ける。
「なぁ、陽菜。一回だけでも、会おうと思わないか? 今からでも、少しでも、親と時間を過ごして欲しい。そう思うんだ」
「理由は、納得しました。ただ、相馬君、いくつか、怒ってもよろしいですか?」
陽菜の手が、僕の頬を打った。
肩を震わせて、口を開いて、でも、言葉が放たれることはなく、喘ぐように、空気を求めるように、荒い息がされるだけで、陽菜は立ち上がり部屋を出て行った。
台所から、乃安が忍び足で出てきた。
「陽菜先輩、手加減無しですか。冷やしましょう、腫れてしまいます」
「うん」
「先輩は、一体、何を寝ぼけているのですかね、本当に。いえ、寝起きでも、もっとまともなことを話せますよ」
「陽菜は、何を怒っているんだ」
「今更、先輩が未だにそんな事を考えているんだってことを怒っているんです」
乃安の言っていることはよくわからなかった。でも、僕が言った事がまずかったのはわかった。
何の感情もわかず、ただ空虚があった。
どうしたら、謝れるのか、と、漠然とした疑問。ごめんじゃ済まないのは、陽菜の雰囲気からわかった。
陽菜は部屋に引きこもり、僕と会おうとしなかった。
「乃安、教えてくれよ」
「私としては、自分で気づいて欲しいのですが」
乃安はしょうがないですねとでも言いたげな顔をする。
「まずは、自分の発言から振り返って欲しいものです」
僕は、僕が思った事をぶつけた。そして、それを陽菜は怒りで応えた。
「先輩は、安易に親に会えと言った事を怒っていません。先輩は、そんな事で怒らないので」
「うん」
謝りたいけど、謝れずにいた。謝る理由をはっきりと言わないといけない気がしたから。
学校でも、僕らは話さなかった。すぐに喧嘩しているとバレた。これは喧嘩というか、僕が悪いのだけど。悪いとわかっていても、何もできない。何もできないんじゃない。何かをする勇気が無い。
一歩踏み出すだけなのに、その足が重い。
乃安の提案で、放課後、三人でたこ焼きを食べに来た。
結構人気な店みたいだ。そこそこ混んでいる。おじいさんが忙しくたこ焼きを焼いている。
「動きが素早いですね。無駄もほとんどないです」
乃安が圧倒されたかのように呟く。
「とりあえず、普通のもので良いですか?」
「はい。それでお願いします」
乃安が列に並び、僕らで席を取った。陽菜は机に目を落として、僕はぼんやりと店内を眺める。気まずい沈黙だった。
頬が、どうしてか疼いた。
口を開けようとして、閉じて、言葉を探す。どれくらいの時間をかけたのだろう。ようやく、言えた言葉、それはただ一言。
「陽菜」
ただそれだけだった。
ぱっと陽菜は顔を上げて。
「はい」
無視してもおかしくはない場面で状況なのに、陽菜は律儀に応じてくれた。
「陽菜は、どうして、怒ったんだ」
「……今は、たこ焼きをいただきましょう。今話すと、きっと長くなりますから」
落ち着いた声で、でも冷え切っていない、むしろ温かい声で、陽菜はそう言った。
「お待たせしました。先輩方」
「すいません。頼んでしまって」
「いえいえ~」
乃安は上機嫌に陽菜の隣に座る。乃安の口元が少しソースで汚れているのは気づかないふりをすることにした。
「美味しいですねぇ」
「だね」
サクサクの皮、そしてとろっと溢れる熱い中身。思わず口を半開きにしてハフハフと冷まそうとするのもお約束だ。
「舌が火傷した気がする」
「それでも案外すぐ治ってしまうのって、口の中の再生能力って素晴らしいですね」
陽菜がそう応じてくれて、今はいつも通りの会話をしようという暗黙の意思表示だと判断した。
陽菜も一口でたこ焼きを食べて。
「あつっ、は、はふ」
なんて、普段の姿から想像がつかないことをしてくれる。熱いけど美味いからなぁ。一口で食べないと勿体ない気がする。
さて、でもそれでも、落ち着いて今度は二口で食べる。今度は、口の中で暴れることなく、味をしっかりと感じる。タコの食感もちゃんと感じることができた。
「乃安は串二本使うんだ」
「はい。串二本を箸のように使って食べていますよ」
短い串を箸のように使うって、なかなか難しいと思うけど。器用なものだ。
「なかなかお腹に溜まりますね、たこ焼き。晩御飯はあっさりしたものにしましょう」
「それでお願い」
「湯豆腐でどうですか?」
「良いね」
一昨日辺りに、乃安が常備用の昆布出汁を作っているのを思い出した。まぁ、あれを使うのかは知らないけど。
「そろーり」
視界の端から串が伸びてきたのが見えて、その方向を見ると。
「夏樹、いたんだ」
「今北産業」
「放課後、部活も生徒会も委員会にも所属していない僕ら。乃安も、君島さんが図書室に行って、一人の時間を選んだため、暇。僕と陽菜も特に予定はない。そういうわけで、乃安の提案で僕らは美味しいと評判のたこ焼き屋さんに来て、熱い美味い言いながらこうして食べているところに君が来た。ほら、多分三行」
「お見事」
一気にしゃべったから疲れた。普段からベラベラ喋っていたら、こうはならないだろうに。
夏樹が隣に座る。手元には既に、盆に乗ったたこ焼きがあった。
「夏樹さん、熱くないのですか?」
パクパクと一口で平然と食べる夏樹を見ての陽菜の一言。
「猫舌ってわけでもないしね。美味しいし」
「そういう問題ではない気がしますけど……」
食べ歩きでの修行の成果というところだろうと無理矢理解釈。
「今度たこ焼きパーティーしない? 私の家、タコ焼き機あるんだ。まぁ、このお店みたいに上手にできるとは思えないけど。火力とかあるのかな、こんな風にサクサクに仕上げるには」
串に刺して、しげしげと眺めて、またパクリと一口。
「多分、そうだと思います。ガスボンベを使用したタコ焼き機なら、近いものは作れると思いますよ」
「あー、残念。じゃあ、難しいか」
「そうですけど、多分、楽しいと思いますよ」
そう言って、陽菜は夏樹の顔についていたソースを、ナプキンで拭う。
「付いています。女の子なのですから、気を使ってください」
「ん、ありがとう」
「ちなみに、乃安さんも付いてますよ」
「えっ? あ、あはは。ありがとうございます」
そんな、姉妹のような光景をぼんやりと眺めて、気がつけば残り一つになったそれを、一口で食べ終えた。
「仲直り、したんだねぇ、相馬くん」
「正確には、まだしてない」
夏樹に隠し事をしてもしょうがないから、僕は正直に吐露した。
「でも、するんでしょ」
「するさ。もちろん」
「お互いがお互いいないと駄目な関係ってさ。歪だけど、悪いとは思わないんだよね。お互い自立してないって批難されるけど、でも大事なのは、その人がちゃんと生きていることだと思うんだ」
すっかり日は沈んだ。夜空に照らされた雪道の中、帰宅を急ぐ人たちに紛れて、冷たい空気を吸い込んで、言葉を続ける。
「体は生きてても、心が死んでちゃ、意味無いじゃん。中途半端に死んでいるなんて、悲しいだけだよ。前の私みたいに。貼り付けただけの笑顔を浮かべてちゃ、駄目だよ。だから、心から笑ってよ。相馬くん」
見透かされた、けれど、嫌な気分じゃなかった。
「幸せになっちゃいけない人なんて、いないんだから。少なくとも、君の周りにいる人たちは、君の幸せを、望んでいます」
目を閉じたのは、誤魔化したかったから。
「だからさ、わざわざ、一人でどうにかしようとしなくても、みんな、手を貸してくれる。さて、そんな相馬くんに質問です。陽菜ちゃんとの仲直り、できますか? 一人じゃ厳しいですか?」
「できる。夏樹が今、答えを教えてくれたから。もう、助けられてるよ」