Re.陽菜√第六話 メイドの決別。
目が覚めた。陽菜が言うに、メイド長が手を貸して欲しい事は、どうやら泊りがけになるらしい。どんなものなのか、想像がつかない。
重苦しいとまでは言わないけれど、どこかぎこちない食卓。
陽菜は、怒っているのだろうか、それとも。いや、陽菜には陽菜の、相応しい舞台があるんだ。人生には、こんな決断も必要なんだ。
「そういえば、夏樹さんから初詣のお誘いが来ていますよ」
「そっか、もうそんな時期か」
朝食の片づけを終えて、陽菜はしめ縄飾りを作り始める。
「良いできですね。去年は作れませんでしたが、今年はしっかり用意しました。門松は、流石に難しいですけど」
「そこまで無理しなくても良いよ」
「そう言われると、用意したくなりますね……」
探り合いながらも、いつも通りのような会話をする。会話はこんなにも難しいものだったのか、僕はいつもどんな風に声をかけて、どんな風に言葉を返していたのか。わからない。思いだせない。
メイド長は二日後と言った。つまり、明日だ。陽菜は明日、何をするというのだ。
一見いつも通りだ。気負った様子も無く、普通に無難に過ごしている。
「あっ」
陽菜が突然テレビをつける。お昼のニュースの時間だった。国会中継、殺人事件。そんなニュースが流れて、バラエティが始まると陽菜は消す。
「どうかしましたか?」
「いや、何でも無い。陽菜、最近ニュースよく見ているね」
「世の中の流れは把握しておきたいので」
陽菜は前と同じ理由を繰り返した。
「うん」
でも、陽菜の見ているニュースは。最近、同じだ。それに気づくなという方が無理な話だ。
そう、きっかけは、単純な事だった。
いや、単純に、僕が気づこうとしなかっただけだった。
陽菜が最近チェックしているニュース。そして、メイド長の話。これを総合すれば、繋がる事は一つだった。でも、信じられない。こんな突拍子の無い話は、あるのだろうか。
でも、それでも、確かめなければ。
陽菜は今買い物に行っている。陽菜の部屋に忍び込む、罪悪感はあったけど、それでも、好奇心が勝った。
陽菜の部屋は良い匂いがした。女の子はどうしてこんなに良い匂いがするのだろう。爽やかな甘い匂いがした。
必要最低限の物だけが置かれた簡素な部屋。彩りと言えば、ベッドの隅に置かれているぬいぐるみ、夏樹と三人で遊んだときに夏樹がUFOキャッチャーで取ったものだ。
そして、テーブルの上の封筒。これだ。
開く。そこに書かれている内容。
「なんだよ、これ」
計画書。その内容は僕の予想していた通りで、クーデターに巻き込まれる形になった父さんと、一緒に行った職員数名。安否は三日前、今から数えると五日前の通信を最後。その時点で打ち合わせていた回収地点に向かうというものだ。
隣国まで明日、飛行機で移動。その後、国境まで徒歩で移動し、国境を閉鎖している反乱軍の目を盗んで父さんたちを回収し、撤退して帰国。単純な作戦だが、これを陽菜にやらせるのか……。メイド長も同行するとはいえ、でも……。
「相馬君、見てしまわれたのですね」
「……陽菜」
結構な時間、書類を読んでいたらしい。文量がそこそこだったからか、読み切るのに時間がかかってしまった。
「はい。私は、今からちょっとした紛争地帯のようなところに行きます」
言葉の内容の重さを感じさせない、さらりとした物言い。
「でも……」
「これは、旦那様のメイドとしての務めでもあります」
唐突に、それは、出会った頃の、機械的な、感情の無い声に、別人と一瞬で入れ替えたように早変わりした。
「陽菜……」
「どうかしましたか? 青い顔をして、体調が悪いのですか?」
額に当てて来る手を、無意識のうちに払った。
「ご主人様?」
「……陽菜……」
「はい。あなたのメイドです。ご主人様。この二年、私はあなたの望む朝野陽菜であれたでしょう」
「あっ……あ」
「何を驚いているのですか? 私は、ここに仕事に来たのですから、雇い主の望む姿でいるのは、当然でしょう」
陽菜は抑揚の無い声で、感情を欠片も見せることなく、僕に言葉を突き刺す。
「具合が悪いようですね。とりあえず部屋に行きましょう。飲み物持って来ますから、少々お待ちください」
一階に下りていく陽菜の背中を見送り、逃げるように自分の部屋に入る。扉の前に手直にあった机を置いて。そのままベッドに潜り込む。
扉がノックされる音が聞こえたけど、僕は動くことができなかった。
気がつけば夜だった。何時だろう。まだ夕方の六時か。
体を起こす。引きづるように扉を開けようとして、つまずく。机を置いていたのを忘れていた。重い体に鞭打ってどかして、扉を開けて、一階に下りていくと、乃安がいた。
「……先輩、酷い顔ですね」
悲しげな眼を向けて、そして僕の手を握る。
「陽菜先輩は今日はもうお休みになられました。とりあえず、夕飯をどうですか? それと、明日の朝、九時頃には出られるそうです」
「そう」
あまり意識させないように、でも情報だけはしっかり伝えてくれる、乃安の優しさ。
でも、乃安も……。
けれどそれを口に出す勇気もなく。
「ちょろっと簡単なもの作るので。お風呂入っている間にできますよ」
「ありがとう」
柔らかい微笑みが、どうしてか陰って見えて。まともに見られなかった。
お風呂に入って、ようやく呼吸がまともにできるようになった気がした。呼吸が浅かったことに、今更になって気づいた。
お湯が心地良かった。芯の方まで染みわたるようなそんな温もりがあった。それでも、冷え切った所までは届かなかった。
「麻婆豆腐です! 作るって言いましたもんね」
「言っていたね」
香ばしい辛さ、ひき肉の食感。美味い。
「どう、ですか?」
「美味しいよ」
乃安の不安げな目に映る自分の顔は、酷いものだった。
「ごめん」
「何が、ごめんなのですか?」
「不安にさせて」
「今更謝られましても……いつもの事じゃないですか」
「うん、ごめん」
乃安は呆れたように笑って。
「良いじゃないですか? 後輩に心配される先輩……物語の主人公みたいです」
「そこまで頼りがいあるかな?」
乃安はその質問には答えなかった。
部屋に入って。そのままベッドに沈む。本心から一緒にいてくれた人、誰なんだ。誰を信じれば良いんだ。
いや、これが当然なんだ。これが、僕なんだ。勝手に期待して、勝手に絶望した、これが、僕だ。莉々が見たら、笑ってくれるかな。結局あんたも莉々と同じかよ。って。
目を閉じると、頭が勝手に過去の記憶を呼び出して僕を苦しめた。早く眠りに落ちたい。でも、夢が怖い。朝が怖い。
それでも、次の日、僕は起こされることになる。
「先輩、先輩! お願いですから。起きてください」
目を開けた時、目の前にあった乃安の顔が、必死の様子で僕の体を揺すっていた。
「乃安……」
「陽菜先輩が、もう行かれてしまいました。お願いします。相馬先輩。陽菜先輩を、止めてください」
「止めるって……」
「先輩は知っていたんですか? 陽菜先輩が行くところ。嫌です。私は、だから、止めてください」
「昨日、知った」
「なら、何で、何で、止めなかったんですか!」
乃安はそのまま顔を埋めて泣き始める。
「僕じゃ、無理だ」
「無理じゃないです」
「だって、陽菜が言ったんだ、今までの仕事だからって。乃安も、そうなのか」
「……先輩、馬鹿にしないでください。先輩が、陽菜先輩と過ごした二年間、私と過ごした一年間を、馬鹿にしないでください!」
乃安の声が、叩きつけるように、体を通り越して、その奥深くまで響いた。