Re.陽菜√第五話 メイドに選んだこと。
固く握られた手。食い込んだ爪が、思考の海に沈みそうになった意識を覚醒に導いた。
そうだ、陽菜は僕の隣に収まるような器じゃない。もっと広い世界で、いろんな人のために振るわれるべき能力を、持っている。
メイド長が突きつけたのは現実だ。だが、突きつけるのと同時に、メイド長ほどの人物が、陽菜を求めている。
唇を噛んだ。
「相馬君、相馬君は、どうして欲しいですか?」
容赦の無い陽菜の言葉。それはメイドとしての義理立てだとわかった。陽菜の真意はわからないけど……でも、僕の答えは……。
「行けよ」
思ったより、低い声が出た。
「陽菜なら、大丈夫だ」
顔が見れなかった。だから、誰の反応もわからなかった。
流れる沈黙が、場を支配した。
「……わかりました」
消え入るような細い声が響いた。
「メイド長、指示を」
「わかった。二日後だ。急を要することだが、準備もいるだろう。詳しい事はこの封筒にある」
「はい」
吐きそうだ。胸の奥が痛い。苦しみの元である心臓をえぐり出したい。
「先輩……本当にそれで良いのですか?」
「良いに決まっている」
「先輩は、どうしてまた……」
その口を手でふさいだ。
「今は、話しかけないでくれ」
僕は部屋を出た。陽菜の事を見ることができなかった。
「メイド長さん」
「なんだ、少年か。何の用だ?」
廊下を歩くメイド長にはすぐに追いついた。何の用だと不思議そうに振り返るメイド長は
「あなたは、陽菜に何を要求したのですか」
「その内容は言えないな」
「……どうしてですか!?」
「その代わりと言っては何だが、少し昔話をしないか?」
「昔話、ですか?」
「あぁ。陽菜は今から知る事になる。あの封筒に入れておいた内容の一つだ。それをお前には話さないのは不公平だろう。なんたって、お互いの親に関わる事なのだから」
メイド長の執務室。そこでワインを一本テーブルに置く。
「また飲む気ですか」
「いや、これが今日初の一杯だ。パーティーではワインのフリしてぶどうジュースだよ」
そう言って僕には瓶のコーラをくれる。
「ありがとうございます」
「良いさ。何せこれを話すのは私の自己満足だからな。さて、どこから話そうか。なぁ、少年。お前の父親が何をしているか、知っているか?」
「全くです」
「そうか。まぁ、恭一は一回転職している。今は私に雇われて、私の趣味を代わりにやってもらっているのだが、昔は、逃がし屋ってやつをやっていてだな」
「逃がし屋?」
「あぁ。まぁ、様々な形で何かしら狙われている奴を逃がしてやるんだ。例えば暗殺されそうな要人とか、民衆に殺されそうな王族とか、そんな奴らを恭一は逃がしていた。時には国境警備隊相手に大立ち回りを演じたり。時には登山初心者を数人抱えて冬山超えしたり。時には警察相手にカーチェイスを繰り広げたり。中々ハードな事をしていた」
冗談めいた口調で、けれどこんな状況でジョークを飛ばすような人ではない。だから僕は真面目に頷く。
「まぁ、だが、あいつも私も似ていてな。目的は同じで、けれどアプローチの仕方が違うだけだ。あいつも私も、この世界が大っ嫌いで、理想の世界を作るために、あらゆる理不尽を、叩き潰したかった。その手始めとして、まずは子どもたちを助けよう。子どもに自由に将来を選んでもらいたい、家柄とか、本人の素質に関係の無い部分で強制されて欲しくない。だから会社を作った」
「父さんは?」
「恭一は、まずは危機的状況にある奴らを危険から遠ざけ続ければ、という考えだった。警察とかそういう奴らの手に及ばない部分を助け続ければとでも思ったのだろうな。まぁ、甘いよな。あいつはまだ、政府という物を信用していたのだから。あいつは拠点をアメリカに置いた。そこでお前の母親に出会った」
そこから、メイド長の雰囲気が変わった。唇を湿らせるようにグラスに口をつけ。一息つく。
「あいつの最後の仕事は、日花里のお腹に子どもが宿った頃だった。アメリカで女のために、とある犯罪組織から抜けた奴を逃がすというものだ。恭一は逃げる先として日本を選んだ。二人とも日本人だった、それと、女の方のお腹には既に子どもがいた。この二つが大きな理由だ。行動はすぐに始めた」
一旦落ち着こうと、でも動揺しているのか、間違えてメイド長のワイングラスを持った。
「未成年」
「あっ、すいません」
自分のグラスを傾ける。炭酸はすっかり抜けていた。口の中が渇いていることに今更気がついた。
「さて、まぁ、お察しの通り、この女というのが、陽菜の母親だ。まぁ、私自身面識は無いがな。父親の方は、死んだよ。恭一のミスではない。ただ運が無かった。恭一はすぐに見捨てる判断をしたよ。車に乗り込もうとしたとき、後ろから銃でパーンっと。見捨てなかったら全員殺されていた。だから、自分の父親を責めるなよ」
「わ、わかっています」
「そうか。陽菜の母親を無事に日本に逃がして、報酬を受け取ることなく、恭一はアメリカに戻り、これを機に仕事からも足を洗って、そのまま身を隠すように家族と過ごした」
「つまり、父さんにとって陽菜を雇う事は」
「陽菜の父親を守り切れなかったことに対する罪滅ぼし、とでも言いたいのか? 否定はせんよ。恐らくそれで正しい。雇うきっかけ自体はこちらが用意したのだがな。あいつがお前の母親を治療するために、一旦日本に戻りちゃんとした仕事がしたいというものだから、じゃあうちのメイドを雇えと。そして給料は出すから私の指示通り世界中を飛び回り仕事をしろとな」
「それって実質……」
「私が陽菜の給料を出しているようなものだな」
「……この話が、陽菜のこれからやる事と、どうつながるのですか?」
「自分で考えろ」
話は終わりだと、メイド長は窓際に立ち、そのまま背を向ける。だから僕はそれに従って部屋を出た。
部屋に帰ると、陽菜は書類を読んでいて、乃安は既に寝ていた。
「陽菜、おやすみ」
「……はい。おやすみなさい」
「先輩、本当に良かったのですか?」
家に帰ってからも、僕と陽菜の間にほとんど会話は無い。乃安がどうにか場を盛り上げようとしてもそれは空回りしていた。
「良い。陽菜に、僕は相応しくない」
「じゃあ、先輩は、先輩の正直な気持ちを、教えてください」
僕の寝室で、乃安はもう逃がさないとばかりに踏み込んで、そう言った。
「良いんだよ。陽菜は、僕の選択を尊重した、それが事実だ」
鏡の無いこの部屋で、背を向けたままでは、お互い、お互いの表情はわからない。
「先輩……」
夜中、喉が渇いて起きた。こんな理由で起きたのは、久しぶりだった。
「陽菜?」
「はい」
暗闇の中、灯るテレビ、リビングでそれを見ている陽菜がいた。
「どうしたの? こんな時間に」
「すいません、うるさかったですか?」
答える前に、テレビは消された。
「では、おやすみなさい」
一方的に会話を終了させ、陽菜は二階に昇って行く。
乃安が心配するように、この状態は確かに良くないとは思うけど。でも、それでも、僕は自分の選んだことが間違いとは思いたくない。
「陽菜」
「はい」
ダメもとで呼びかけたら、まだ、階段の所にいたようで、答える声があった。
「その、さ。父さんの事、知っているんだろ。僕の」
「はい。まさか、私と相馬君の両親にあんな関りがあるとは。それが、どうかしましたか?」
「なんでもない」
陽菜に親の話題を振るのは、良くないという事を忘れていた。
距離感が測りきれない心地の悪さ。次の言葉が見つからない。そうしている間に、二階で扉が開いて、閉まる音がした。