乃安√第十二話 後輩の決意。
僕がここまで頭を回したのは久しぶりだと思う。冬に、何年かぶりに再開したおじいちゃんの事、夏休みや、家出した一週間での、一緒に食事した時の事を思い出して、それらすべてを乃安に伝えた。乃安はそれを聞いて、頷く。
リベンジするかはわからない。でもとりあえず、僕は伝えられることを伝えた。
「ありがとうございます。先輩」
乃安はそう言って笑った。
「それよりも先輩、少しは恋人同士っぽい事しませんか?」
「恋人同士っぽい事って?」
「んー、思いつきません」
ニコニコと明るい後輩は、けれど、昨日の陽菜との話のせいなのか、少し影が掛かって見える。思わず頭を振る。余計な偏見を追い出す。乃安は乃安だと言い聞かせる。
「大丈夫だよ、無理しなくても」
努めて穏やかな声で言う。強張らないよう、気を使って。
「莉々の事、気にしていますか? 先輩が気にすることではありませんよ。決めるのは私なのですから」
そんな風に緊張している僕に浴びせられた、冷たい声。
「乃安?」
「ふぅ。先輩、少し甘さをください」
その一言共に乃安は襲うように唇を重ね、貪るように押し付け、空気を求めて開いた口に舌を滑り込ませ、思うまま、赴くままに蹂躙した。僕はただされるがままにされることしかできず、ただ求められることに無抵抗という意思表示しか許されなかった。
「何で、私はこんな風にしか味がわからなくなってしまったのですか……こんな状態で、作れと言われても、いつものようにではなくオーダーされてでなんて、できるわけ無いじゃないですか」
床にへたり込んで、肩を震わせて、それでも顔を歪めてでも涙だけは流さない、そんな後輩を、僕は抱きしめる事もできなかった。
そうして、しばらく、落ち着いた乃安は、にっこりと笑って。
「今の私は、先輩のために作るだけで、満足です」
そう言った。
乃安は久々にアパートに帰った。しばらく放っておいてしまったから心配とのことだ。大丈夫だと信じたいけど。でも、心の奥では心配で、それでも止めたらそれは信じていないみたいで、いや、これはエゴだな。信じると決めたなら信じよう。
けれど、信じると何もしないというのは別問題だ。そんな事を陽菜は、僕に泊まり用鞄を渡すことで示した。
「行ってきてください」
「何ができるのかな」
「そんな事をいまさら言うのですか? 決まっているじゃないですか」
「でも……」
「大丈夫です。家は私にお任せください。相馬君は何も心配することなく、あなたが正しいと思う事をしてください」
信頼を目に宿し、頷く、この目を裏切るような事だけはできないな、鞄を確かに受け取り、僕は乃安の家に、空元気と張りぼての勇気を持って向かった。
「乃安、入るよー」
「えっ? 先輩ですか?」
「恋人らしいことしようって言ってたじゃん」
「は、はぁ」
呼び鈴を鳴らして、そう声をかけると、乃安は戸惑いながらもドアの鍵を外し、家に入れてくれた。
「食べ物とか無いですよ、あまり」
「良いよ。夕飯は食べたじゃん」
「お風呂は……」
「入ったよ」
「……どこで寝るのですか?」
「ソファー?」
「それは私のベッドです」
「えっ、あのベッドは?」
1LDKの乃安の家、ベッドがあるのはリビングに向かうまでに確認してある。
「使ってません。掃除だけはしてありますけど」
よく見れば、確かにソファーには掛け布団がある。
「柔らかすぎるベッド無理なんですよ、私。昔を思い出すので」
乃安はそう言って、苦々しく顔を歪める。乃安のそんな顔は、見た事が無かった。
「でも女の子をソファーで寝かせて、僕がベッドで眠るのは、何と言うか、プライドが」
「いえ、あれは私にとって立派なベッドです。先輩に嫁ぐとき、これ、持って行くので」
換気のためだろうか、開けられた窓から冷たい風が吹き込む。慌てて乃安は窓を閉め、そして、その拍子に、乃安はテーブルの上に置いてあったマグカップを蹴り飛ばした。
「あっ」
宙を舞うマグカップはくるくると回り、そして乃安の至高のベッドに着地して、中に入っていた液体をまき散らした。
「あー! 私の白湯が!」
「あー、えっと、どうしよう」
「……乾かすしかないですね。仕方ないです、少々冷たいですが、床に寝ますか」
「おい、というか、見事な蹴りだったね」
「……これで私に理由がつきますし、先輩のプライドも守られる。これが折衷案です」
目を逸らしながら、そう言う。指摘するべき部分では無かったようで、これは反省だ。
「先輩は、何で来てくれたのですか」
「乃安がいないと寂しいのは、事実だから」
乃安をベッドに入れるのは成功したが、僕が床に寝るのは頑として了承してくれず、これもまた折衷案だ。今度は僕が折れる番だったらしい。
「柔らかすぎます、やっぱり」
「そうだね。僕もこれは慣れないや」
「先輩は、私が好き、という事で良いのですよね?」
「うん、大好き」
思わず小声になってしまった言葉に、乃安はクスッと笑う事で応じる。
「ねぇ、先輩」
「うん」
「信じて良いのですか? その言葉。信じちゃいますよ。裏切ったら先輩、心中してもらいますから」
「良いね。望むところだ」
「うん。そうだ、ね。信じて大丈夫。痛い。胸が、痛い」
暗くてよくわからないけど、乃安が泣いているのはわかった。声を押し殺して、それでも漏れる嗚咽の音が聞こえるから。
「先輩の気持ち、私には。温かすぎて。こんなに幸せで、良いのですか? 私には、悪いです」
「乃安の幸せは僕が勝手に望んでいることだから」
「……勝手な人ですね。大好きになりますよ。そんな事ばっかりしていると」
「それならそうしよう」
中途半端な関係の中で、ようやく、触れられた気がした。乃安に。
「ふふっ、大好きです。先輩。今の私なら、そうはっきりと言えます」
「乃安……」
「だから、大好きな先輩のために、私、頑張りますよ」
寒さで目が覚めた。体を起こすと、乃安はもういなくて、とりあえず手近にあった服を着て、ベッドから降りた。
「あっ、起きましたか? シャワーどうぞ、シーツは洗うので」
わりとだるさが残っている僕と違い、ケロッとしている乃安に、尊敬の念は隠せない。
「先輩、本当に私の事、大好きなんですね、あはは」
乃安は楽しそうに笑って。そうして、軽く唇を合わせると。
「先輩の期待、応えます。だから、この手紙、読んでください。この内容を、弥助さんに送るので」
とりあえず、椅子に座る。すぐに乃安がコーヒーを出してくれて、それを一口。読んでみると、何故か筆で書かれていて、それは、卒業してから、弟子入りさせてください、そんな内容だった。
「どうですか? 私の果たし状」
「うん。良いと思う」
「ですよね」
ふと気づく、乃安のコーヒーの味が、前より美味しくなっていることに。コーヒーの事がよくわからない僕でもわかるくらいに。
「乃安……このコーヒー」
「どうですか? 新しいブレンドは。今なら、無敵ですよ、私」
「味……」
「戻りました。何ででしょうか、本当に」
会心の悪戯が成功した子どものように、本当に、楽しそうに笑ってくれる乃安が、愛おしくなって、思わずだきしめる。
「ふふっ、大好きですよ。だから、そんなにきつく抱きしめなくても、いなくなりませんから。要するに、強すぎるので少し緩めてください、潰れそうです」
「ごめん」
「相馬君」
「はい」
「責任、取れるのですか?」
「何で知っているのですか?」
「寒かったです。カイロが足りなくなり、流石に撤退しましたけど」
帰って来た僕らに、開口一番、そう言って、バンと僕の目の前に叩きつけたものは、えっと……。
「これからはちゃんとこれを用意して着けてください。流石の私も、買いに行くのは少し恥ずかしかったです」
「あ、あはは。先輩。これ、何バレというのですか?」
「メイドバレ」