乃安√第十一話 後輩と気持ち
誰かが誰かを好きになる。そこに罪は無い。
批判される筋合いも無いし、誰かに強制される筋合いも無い。批判されるような事でも無い。
じゃあ、好きがどんな時に罪になるのかと言われれば、それは変化の先にある。それが例えば憎しみになり、殺意に変わる。それが行動に変わった瞬間。それが依存に変わりその人を苦しめる物に変わった時。
じゃあ、思いを抱くこと自体に罪は無いのか? そうだ、無い。結局のところその人の中にしか無いのだから。
さて、では今、好きの気持ちが炸裂し、暴走しているこの空間において、原因の一人たる僕はどう振舞えば良いのだろうか。
三角関係という奴だろう。しかし、雰囲気自体は落ち着いていて、気まずく思っているのは僕だけという。ただ僕の神経が細いだけ。
君島さんは乃安の料理を美味しそうに食べているし、乃安は平常運転だし。陽菜は気づいていそうだけど、静観しているようだし。
僕はどうしたら良い。
いや、違う。その考え方で僕は一度後悔した。
乃安は、君島さんは、何を思っている。
「乃安」
「はい、先輩」
「君島さんと話せた?」
「あ、あはは。流石にこちらから話しを振るのは憚られるというか。それに、私は今、相馬先輩とお付き合いをしています。それなのに、肯定するような事は言い辛いです。どちらも大事にしようとか考えた方がもっと人間らしいでしょうか? 私の考え方はあまりにもドライです」
乃安はそう言って困ったように笑う。僕もそれに曖昧に笑う事でしか返せない。そんな様子を、陽菜が壁に隠れて見ているのに気づいた。
君島さんとは結局話すこともできなかったし。結局行動の一つすら起こせなかった。
乃安を大事にしたい。けれど、乃安の本心が見えない。
結局眠るために部屋に戻る。明日の朝になれば何か変わるかもしれない、そう思ったから。
そうして、部屋でキャンドルを眺めていると、扉がノックされ、ガチャリと開いた。
「陽菜が寝る前にここに来るのは、随分と久しぶりな気がするよ」
「そうですね」
それは、ここに来るまで、事態を静観する立場にいた陽菜が、何やら決意した様子で、ようやく動いた、そう、僕は判断した。
「相馬君。私は、誰も傷つかずにこの状況を終わらせる手段を知っています」
「それは?」
「相馬君、私を選んでください」
陽菜はそう、静かに言った。
「乃安さんは、誰の事も真剣に好きになれない、そういう人です」
「でも、乃安は……」
「私は、乃安さんが私に対して抱いていた気持ちを知っています」
機先を制される。あっさりと。
「乃安さんは、心の底から誰かを信じられない、好きになれない、愛することができない。常にどこかで疑い、傷つかない距離を取り続ける。そんな生き方しかできません。彼女自身も、気づいていないでしょう。そうじゃなかったら、そんな簡単に、諦められますか? 私の事」
陽菜は、淡々と、事実のようなものを僕の目の前に並べる。
「そんな乃安さんなら、莉々さんの気持ちを、それなりに受け止められます。そして傷つかないように付き合えるでしょう。そして相馬君が私を選んでくれれば、上手く収まります」
「陽菜……!」
「どうしますか?」
僕が感情的になる前に、冷や水を浴びせるようにすべての選択肢を僕に委ねた。でも、僕は一度落ち着いて、言おうとしたことを言い切る事にした。
「陽菜の言っていることは、全員が少し傷ついて、痛み分けにする結末だ」
「はい」
陽菜は僕の言葉の続きを、結論を待っている。
淡々と、キャンドルが溶けていく、言葉を吐きだそうとして、上手く言語にならない。そんな僕を優しい目で見つめていた陽菜は。
「相馬君」
そう呟いて、僕の隣に座り、ゆっくりとベッドに押し倒した。抵抗する気は起きなかった。僕の上に跨ると、黙って見下ろす。
「今楽にしてあげます」
「殺すの?」
「ある意味そうですね。派出所では知識だけは叩き込まれます。どれだけできるか未知数ですが、まぁ、夢中になると良いです。このまま溺れてください」
そう言って、自分のパジャマの上を放り投げる。下着一枚になり、僕の服に手を伸ばす。
頭の中で自問自答が、陽菜が僕の服に手をかけるその数秒の間に、何百回と行われる。
気がつけば、僕は陽菜の手を抑えていた。手を抑えて、体を起こして。首を横に振った。その事に陽菜は一瞬嬉しそうな顔をしたけど、すぐに感情を引っ込めて、僕を見つめる。
「陽菜」
「はい」
「僕は、乃安がどう思っていようと、乃安の事を大事にする」
「はい」
体を起こす。見下ろすと、一瞬控えめな膨らみが見えて慌てて目を逸らす。そういえば下着一枚だった。声が上ずらないように落ち着いて、言葉を選んで口を開く。
「そんな妥協するような選択はできない。それに陽菜、そんな身売りをするような事はするな。陽菜は妥協で選ぶような女の子じゃない」
「……はい」
涙声でそう言って。目元をごしごしと擦り、こちらを見上げ、精一杯の笑顔を見せてくれた。
「その答えを、期待していました」
「その答えじゃなかったらどうしたのさ」
「もちろん、最後まで、宣言通り相馬君を溺れさせていましたね」
「そうかい。……乃安だって変わってきている。もう、陽菜が知っている乃安よりずっと、誰かを信じることができているさ」
「どうですかね」
「そうじゃないとしても、きっと変わってくれる」
「そうですか」
「うん」
「わかりました。では、乃安さんの過去を教えます」
「乃安さんは、お嬢様でした。何不自由なく暮らしていました。それが小学生になった頃の事です」
陽菜は服を着て居住まいを正し、何故かベッドの上で正座して向かい合う。
「彼女の父が経営していた会社が倒産しました。一家は父と乃安さんを残しあっさり逃げました。借金取りから乃安さんを逃がすために、乃安さんは派出所に預けられました。ここに来た当初は、とても塞ぎこんでいましたけど。私はいらない子だ、そう繰り返して。早く私を捨てろと、そう言って、ご飯すらまともに。でもある時から、少しずつ食べ始めました。乃安さんの中に何らかの変化がありました。言葉にすればこれだけの事情です。ただ、乃安さんの中で一体どれだけの変化があったのか、私にはとても、想像できません。それから、正式にメイド候補生として乃安さんは育ち、今に至ります」
陽菜は僕の言葉を待っている。その瞳は、彼女らしからぬ不安で揺れていた。
「ありがとう、教えてくれて」
「いえ。乃安さんに対して本気になると言うのなら、知っておくべきだと思いましたので。人の過去を勝手に言いふらすのは、好きではありませんが、必要処置と割り切ります。私の本気の誘惑にも屈しなかったので、改めて、相馬君のメイドとして、全霊の信頼をあなたに捧げます」
深々と、陽菜は頭を下げる。
「ありがとう、陽菜。信じてくれて」
「はい」
私は、常に誰かに嫌われていると思っていた。陽菜先輩の言っていることに間違いがあるとすれば、私は私が人を信じきれていない、その事を無意識ではなく、ちゃんと気づいていた。というより、私は常に自分を、どこかで眺めている気分で生きている。つまらない映画でも見ているように。
そんな私に、莉々の真っ直ぐな好意は眩しすぎたし、相馬先輩のずっと一緒にいたいという願いは温かすぎた。
私はひどい女だと思う。一人の先輩を楽な道に導くためだけに、恋人に収まろうと。別に恋心を抱いているわけでも無いのに、あっさりと唇を重ね、恋人の真似事ができるとは。案外軽い女なんだなと思った。
先輩を守りたいという気持ちに嘘は無い。これは私が珍しく本心から起こした行動だったから。昔の、派出所に来たばかりの頃の塞ぎこんでいた自分と重ねていた。自分から傷つきに行く自分。先輩も怖いのではと思った。
あの時、これ以上食べなかったらもしや、そんな、本能的な恐怖から、私は生きるためにご飯を食べた。そういえばあの日、派出所に帰ったあの日の朝、相馬先輩が、首を吊ろうとする私の前に現れた時、私は安心してしまった。先輩が碌にご飯も食べない私の事を心配して、部屋の前に座って待っているのを見て、嬉しくなった自分に気づいた。結局、今も昔も、死ぬ勇気すら持てなかった。中途半端な私。
自分の事はずっと、眺めていてもわからなかったけど、ここ最近ほどわからない事はなかった。陽菜先輩に恋心を抱いていた時は、ちゃんとわかったのに。
だから驚いた、こんなにもあっさりと割り切って冷めるものなんだなって。陽菜先輩が派出所を去るとわかった瞬間から、絶対だと思っていた関係が、離れ離れになるとわかった瞬間から、私の中に絶対はなくなった。
今欲しいものは、あの、甘さだった。きっとお菓子として再現したら甘すぎて食べられたものじゃないけど、頭がボーっとなる気分の中で味わえば、それは最高だ。私の中の空虚な部分に直接流れ込んでくる、そんな気分と共に味わって、もっと欲しくなる。
莉々との味は、とても苦かった。切なくなる、そんな苦みだった。思わず抱きしめたくなった。莉々も、きっと寂しさを抱えて
いたんだ。
聞き耳を立てる趣味は無いけど、昨日の相馬先輩と陽菜先輩の会話を聞いて、一種の期待を抱いている自分に気づきながら、いつものように朝の仕事に取り掛かる。
台所で、トントンと材料を刻んで、鍋に入れる。朝は寒いから、温かいスープが欲しい。でも、そんな物理的なものでは温められない部分もある。それを抱えながら私たちは生きている。
「乃安」
「はい」
「リベンジする気は無い? 今度は僕も協力するからさ」
「リベンジって、何のですか?」
「おじいちゃんにリベンジしようよ。乃安、うやむやになっていたけど、答え、見つけたんでしょ? おじいちゃんのこと、色々教えるからさ」