乃安√第九話 後輩と触れた味。
第二回リハビリ。冬休みも始まり、乃安に連れられ、とあるつけ麺で有名なラーメン屋さんに来た。随分前に陽菜と来た店だ
「先輩、見てください。綺麗に剥けましたよ」
「陽菜も得意だったな、そういえば」
「はい、私も陽菜先輩のように綺麗に剥けるよう、頑張りましたから」
ツルンと綺麗な白身を見せる卵をしげしげと眺め、僕の方に差し出す。
「さぁ、どうぞ、ぱくっといっちゃってください」
「おう、さんきゅ」
塩を付ければよかったと思いながら飲み込む。個人的にはマヨネーズ派だけど。少し前まで塩派だったが、健康的な食生活を送っていたら、ジャンクなものも食べたくなるのだ。しかし、やはり残念ながら置いていない。
「お待たせしました」
ざるに盛られた麺。スープ割り用のスープ。それとたれ。お湯割りと選べたのだが、スープ割りというものが気になった。
「では、いざ。いただきます」
二人で手を合わせて。そして食べる。
まずは麺を、何もつけずに。そのものを楽しむ。その過程を経て、続いてはたれにつけて楽しむ。
そんな僕の様子を、乃安は楽しそうに眺めていた。
「何だか、自分が作ったわけじゃないのに、嬉しいです」
「何が?」
「相馬先輩が美味しそうに食べていることです」
乃安は、そう言って自分の分も食べる。食べながら、頭の中で言葉を組み立てる。大丈夫、そう言い聞かせた。
「乃安」
「はい」
「家に帰ったら、お願いあるけど、良いかな?」
「私ができる事でしたらなんなりと」
頷く。信頼を込めて。
家に帰ると、陽菜はどうやら二階で掃除をしていたようで、慌てて階段を降りてきた。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
陽菜と乃安の手により綺麗になる我が家、けれど僕は、掃除は一日置きとかでも良いと思う。毎日掃除が必要なほど汚れることはないだろうと。学校とかでほとんどいないのだし。
緊張していることに気づく。これから乃安にお願いすることは、下手にやれば乃安の不安定な精神を崩しかねない。でも、必要というか、今乃安がやっているリハビリは多分、自分が料理を諦めるためのものだと思う。リハビリという言葉を借りて、表向きは味覚を復活させるためだと見せているけど。
これは僕の我儘だ。乃安に諦めて欲しくないという、そんな。
「乃安、今晩の夕飯、そうだな、唐揚げが良い」
「はい、陽菜先輩に伝えておきますね」
「違う違う。乃安に作って欲しい」
「あはは、何を言っているのですか? 先輩」
冗談だとでも思ったのか、笑い飛ばす乃安も、僕が真剣に見つめれば、すぐに本気だとわかったようで、感情がするりと抜け落ちた。
「先輩、今の私では、無理ですよ」
「大丈夫だと、僕は思うよ。ずっとやっていたんでしょ。体が覚えている」
「味覚が無くなっても美味しいものが作れるとでも言うのですか? 私は天才じゃありません」
ぽろぽろと、乃安の目から涙がこぼれた。溢れ出したそれは止まらず、声は震えていた。
「お願いです。先輩、私に優しくしないでください。私が夢を捨てられるようにしてください」
「嫌だ。乃安が作ってくれるのを待っている人がいるんだから。僕もそうだ。だから、諦めないでくれ」
乃安にとって、諦めない事の方が簡単なのだろう。でも、失くしてはならない物を失った乃安は、諦めるという一番難しい選択を選ばされることを望んだ。
「乃安が作ってくれるものが好きなんだよ。僕は。乃安と一緒に食べに行ったものは確かに美味しかったさ。でも、好きなのはやっぱり、いつも僕や陽菜の事を考えて作ってくれる乃安のだよ」
「なんですぐにそんな、歯が浮くような事を言うのですか?」
「流石に、今のは言ってて恥ずかしかった。本心だけど」
リビングに流れた気まずい沈黙。陽菜は何をしているのだろう。多分、気を使って音を立てないようにしているのだと思うけど。
そうしてしばらく、スイッチが入ったように顔を上げて、僕をじっと、乃安見つめる。そして、何かを決心したように立ち上がり、ぐっと僕の手を引くと、台所まで連れて行く。
「そこで見ていてもらえませんか? 私が逃げないように」
「信じているんだけど」
「そうですか、では言い直しましょう。私は私が信じられません。でも、先輩が信じる私は信じられます。だから、そこで見ていてください。勇気をください」
深呼吸を二回。手慣れた手つきで材料の下ごしらえから、乃安の本当のリハビリが始まった。
自信が砕かれた乃安にとって、これが、僕のできる、乃安のためにできることだった。
「乃安はさ、どうしたい?」
「私がしたい事ですか?」
「そう」
「私は、わかりません」
「そう。でも、料理は好きでしょ」
「嫌いなわけ無いじゃないですか」
「どうして好きなの?」
「……陽菜先輩との絆、最初はそう思っていました。でも今は、私の料理を食べて、笑顔になってくれる人がいる、その事が何よりも嬉しいです」
「うん」
「一人で矛盾しているんです。私は料理が好きですけど、でも、諦めたい。後悔を抱えて、楽になりたい」
「うん」
「私は、私が嫌いです」
「でも、僕は乃安が好きだよ」
「先輩は、私が嫌いな人が好きなんですね」
「乃安、僕が好きな人、勝手に否定しないでよ」
「もったいない言葉です……」
「僕の気持ちだから」
「じゃあ! 先輩は、私のような、私のような、こんな後輩を、ずっと傍に、家族にでもなってくれると言うのですか!? 親に……お前はいらないと言われ、捨てられた私を!」
「なる」
「……えっ?」
出来上がった夕飯は、ちゃんと乃安の味だった。そりゃそうだ。味が感じられないと知っている時と知らない時、そこに差があるのは当然だ。
君島さんも、黙々と食べ、それでも隠しきれない笑みが溢れていた。
そして、お風呂から上り、湯冷め覚悟で外にでた。
月が出ていた。静かな夜だ。風も無く、ただ雪が静かに積もっていた。
家の中から、こちらに向かってくる足音に気づき、振り返る。
「先輩、風邪ひきますよ」
「少しだけね。外の空気を吸いたかったんだ」
「そうですか。じゃあ、少しお話でもしませんか?」
「丁度良いや。僕もお話ししたかったから」
いつもの乃安だ。明るく可愛げのある後輩。その事に安心した。
「ようやく、整理がつきました」
「そうだね、僕もそうだ」
「私は、やっぱり大量にくるお客様にポンポン振舞うような料理人は無理ですね。どうしても食べる人、一人一人が頭に浮かんでしまいます。顔も見なかったら、どう作れば良いかわからなくなってしまうでしょう。きっと、味が定まらなくなって、中途半端なものになるでしょう。いえ、それはずっとわかっていたんです。それが見抜かれて、それを活かそうとする、そんな発想力が無い、そう言われたのだと、今は思います」
火照っていた体が、少しづつ外の温度に近づいて行く、それを少しでも遅らせようと、僕と乃安の間の空間が狭まる。
「変なレストランを作ろうかなって。あの鉄板焼き屋さんのように、少ないお客様を精一杯もてなす、そんな。それが私の目指す道かなって」
「うん」
「先輩は、そんな先が見えない道を行こうとする私に付き合ってくれますか?」
「良いよ」
「あっさり返事をくれるんですね」
どう返そうか、悩む。僕はこの後輩に何て言おう。わからない。でも、はっきりしていることが一つある。
「乃安は、誰かが一緒にいなきゃ駄目な気がする」
「それ、先輩が言います?」
「家族、ならない? 僕は乃安と一緒にいたい」
恋なのかそれともまた別の感情なのか、よくわからない物を言葉に乗せてぶつけてみる。そのよくわからない物を乃安は正面から受け止め、少し悩んでいるようで。
「私たちの場合、私が相馬先輩のお父様に引き取られるか、結婚するか以外無いのですが」
「じゃあ、結婚で」
そう即答すると、乃安は面白い冗談でも聞いたように笑う。
「まずは恋人からでどうでしょう?」
「それが良いね」
「じゃあ、先輩」
乃安は、自分の唇を指さす。
「わかりますよね?」
「……うん」
目を閉じて、息を一つ吐く。吐き出された白い息はどこかに消えていく。あっさりと追い込まれた僕は、観念したように、けれど、これで良い、いや、これが良いと思った。大事な人を一番に守れる所にいれるそんな幸せに僕は浸る。
ゆっくりと顔を離した。寒いのに、内側から熱くなる。頭がぼーっとした。
顔を伏せて、微笑む乃安は、ゆっくりと見上げて、躊躇いがちに言った。
「とっても甘いんですね。これ」