乃安√第四話 後輩の思い。
乃安は次の日の朝に、らしくない寝坊をして目が覚めた。陽菜は叱らなかった。
ぼんやりとした乃安は、朝食を一口食べて、そして泣きそうな表情になって、それでも、すぐに笑顔を見せる。
「美味しいです。陽菜先輩」
「ありがとうございます」
嘘だとわかっている。でも陽菜はそう応じた。
乃安は黙々と食べ進める。その様子に一瞬辛そうな表情を見せて、それでも陽菜はすぐにいつものように感情を顔から消し去る。
サンドイッチは少し辛みが効いていて良い。スープもコクがある、冬の朝には嬉しい温かさ、個人的にはゴボウの食感が好みだ。サラダには僕の好物の胡麻ドレッシングがかかっている。僕の好みを把握している陽菜が作った、好物でそろえても栄養や体調を考えて作られているのがよくわかる。
「? 相馬先輩? ボーっとしていると、遅刻してしまいますよ」
「そうだね。急ぐよ」
机の下でこっそり操作していたスマホをポケットに突っ込み、食べる事に集中した。
まぁ、こうなるだろうなと思った。予想を超えてはきたけど、この展開はまぁ、覚悟をしていた。
「さぁ、吐け」
「ナイフ下ろそう」
「知るか。こんだけ近くても殺せないのはわかっているんだよ」
あーあ。隙があればなるべく詳しく書いたメールを送りたかったけど、こっそり送るならどうしても、乃安を見てあげてとしか言えなかった。
「乃安ちゃんのあの様子は、何?」
「うん、それを説明したいからまぁ、こうして来たわけなんだけど」
「そう、じゃあ死んで」
「待て待て」
君島さん、基本的に話は通じる方なのに。ここまで通じないのは和解する前以来だ。
壁ドンでナイフを喉元に突きつけられた。さすがにこんな状況じゃ、君島さんの気分次第であの世へGOだろうな。
その状況でどうにか説明したわけだが。
「ふーん。それで、莉々は誰を殺せば良いの?」
「誰も殺さんでくれ。それより、どんな様子なんだ?」
「一見いつも通り。でも莉々の目は誤魔化せない」
「おう」
「目が死んでる。笑っていても目が笑っていない」
流石にナイフは下ろした。それでも目が座っているけど。
「もう行くね。流石に一人にしておけないから」
君島さんは僕を置いてさっさと言ってしまう。その背中を無言で見送る。
僕も戻らなきゃ。
家では、いつもとやる事が逆で、乃安が掃除して陽菜が台所に立っていた。
誰も、触れようとはしないこの状況。この空気に息が詰まりそうなのは僕だけではないはず。
もどかしいもどかしいもどかしいもどかしい。もどかしい。
しばらくして、陽菜がテーブルの準備を始めて、それに合わせて乃安も掃除を終えて戻ってくる。
言うべきか言わないべきか。ダメだ、何を言えば良いのかわからない。
そんな雰囲気の中で終えた夕食、何も進まない。始まってすらいない。何かが壊れて、そしてそのまま。何か大事なバランスが、崩壊して、そして、その時にぽろりと落ちた、どうでも良く見えて大事なもの。拾わなきゃ、早く拾わなきゃ。
どうやって拾えば良いのか、わからない。どこに落ちて行ったのか、何が落ちて行ったのかがわからない。どうすれば、僕は何をすれば。何もしないのが正しいのか。誰か、誰でも良いから、教えてくれ。僕に役目をくれ。ください。
焦って結果を得ようとしても駄目だ、そう言い聞かせ、そしてその日は終わった。
僕が考えるべき、本当の事を考えないまま、僕はその日を終えてしまったんだ。
その日はやけに早く目が覚めた。胸騒ぎというのだろうか、そんなものを感じて。
それは直感に近いもので、どうせなら乃安を迎えに行こうなんて考えて、そして、乃安の住んでいるアパートに行って。
雪が積もり始めて歩きづらい道を進んでいく。もういっそ、家に住んでもらえれば乃安も楽できるだろうにと何回考えた事か。強要するつもりは無い。強要したらしたで、この人何考えているのだろう? とか勘ぐられかねないし。
扉をノックして、呼び鈴鳴らして、名前を名乗る。返事が無い。ドアノブが回る。扉が開く。
短い廊下を進んでいく。こんなことして良いのだろうかと思うけど、頭の中の何かにそう命じられる。恐らくリビングに通じる扉を開ける。
「……何してんの?」
「あっ……どうしてこんなにもタイミングが良いのか。そして私はどうしてこんな、肝心な時にミスを犯すのか」
上品に笑う乃安は、椅子に上って、天井から垂れ下がる縄に首を通そうとしているところだった。
「流石に見つかってしまってはできませんね。すいません」
申し訳なさそうに頭を下げる乃安は平然としている。そんな乃安に近づこうとするけど、足が動かない。役立たずになった体を、せめて口だけでも動かそうと頭を回す。
乃安の目から感じる重圧、目に見えない境界線を踏み越えてはいけない、わからないけどわかる。
だからどうにか、これだけはと言葉を編み上げる。
「やめろよ、マジで。そして、二度とするな」
「それは命令ですか? 先輩」
「当たり前、じゃないか」
「わかりました。でも、ごめんなさい、先輩」
こんな時に限って呆けていた僕は、反応が遅れて、気がつけば目の前に床が迫っていた。
「ごめんなさい。役立たずな私は、私が許せないんです。優しさに甘えるなんて、お情けで置いてもらうなんて、できるわけ無いじゃないですか。命令だけは守るので、どうか、もう。優しくしないでください」
「相馬君! 相馬君!」
「い、いてて。陽菜?」
「はい。私です。良かった……」
頭がズキズキする。竹刀で殴られて気絶するとか。間抜けすぎる。
「乃安は?」
気がつけばそこは我が家の玄関。扉は開けっ放しで、冬の朝の冷たい空気が流れ込んでくる。
「乃安さんは、派出所に帰りました。ごめんなさい、相馬君。命令を守れませんでした。止められませんでした」
「陽菜は、悪くない。僕が、もっとちゃんと乃安の事を考えられれば、気づけたはずなんだ」
僕は何をするべきかを考えて、乃安が何を考えて何を思っているのかまで頭が回っていなかった。
「派出所に帰ったメイドは、どうなるんだっけ」
「基本的に、契約は切られます。後日メイド長から通知が来ます。相馬君と乃安さんは正式に契約をしていないので、何も来ないと思っても良いです。私に連絡くらいは来るでしょう」
「そう、か」
いつも通り、朝の仕事を始めた私の元に、相馬君を背負ってやってきた乃安さんは、一言「帰ります」とだけ言った。その目には、私に対するはっきりとした拒絶の意思があった。
目の前に突きつけられた二択、倒れて動かない相馬君を介抱するか、乃安さんを止めるか。こんな風に迷う事を見越していたのなら、私は後輩に完全敗北したのだろう。
走り去る乃安さんを、私は止める事ができなかった。
言葉にすれば短い過程、けれど私は私がメイドであるために命令を守る事ができなかった。メイドであるためにメイド失格してしまった。
「陽菜、連れ戻しに行ったら、どうなるかな」
「恐らく、真城がいますよ。大学はそろそろ冬休みに入るので」
「早くね?」
「四年制大学とは、お金を払って二年分の休みを買っているようなものなので。そして、真城は容赦しませんよ。仕事は仕事と割り切れる人なので」
そして、私は、あの拒絶を向けられる心構えができていなかった。
「僕は、僕は」
相馬君は目の奥で、何かを探すような、そんな色を滲ませて、自分の中の何かを探っていた。
「理由が、欲しい」
うわ言のようにそう呟いて。相馬君はそのまま頭を抱えた。
僕が、僕が動いて良い、動くことができる正当な理由が、欲しい。
それは、陽菜を連れ戻しに行った時の、京介や夏樹の後押しのように。
それは、僕がここに戻ってきた、みんなの優しさのように。
乃安の拒絶を押しのける事ができるくらいの、そんな大義名分を僕は求めていた。