乃安√第二話 後輩と二人きりの旅行。
「わぁ、海と雪って合いますね」
「明日砂浜まで行ってみる? 今は挨拶しに行かなきゃだけど」
「はい。行きましょう」
海沿いの道を歩いて行く乃安は楽しそうで、足取りは軽い。遠回りな道なのだが、乃安はこっちを選んだ。
シーズンオフだからか、観光客らしき人はそこまで多くない。車で行ける距離にスキー場はあるにはあるけど、それならわざわざここら辺に泊まらずにもっと近い所に宿を取る人がほとんどだろう。
「あっ、コンビニ。寄って行って良いですか?」
「そうだね。お菓子とか欲しい」
「あっ、同じ考えです」
そんな会話をしながら旅館にほど近い所に何故かあるコンビニに入る。
「ポテチ何味派ですか?」
「うすしお」
「私ブラックペッパーです。ちなみに陽菜先輩もですよ」
なるほど、陽菜は僕に気を使ってうすしおで作っていたのか。
「愛されてますね。先輩」
人の好意に対して、疑り深くなる癖はこういう時に厄介だ。あれは仕事だからと首を横に振ってしまう。
でもそれは失礼なことだとも学んだ。人の好意は素直に受け取るのが一番無難で、そして正しい事だと僕は学んだはずだ。それがわからなかったから、無様に逃げ回る羽目になったんだと。
いや、無難という言い方も良くないとは思うけど。
「そういえば乃安。一泊にしては荷物多いよね。それは何?」
「あぁ、はい。調理器具も持ってきているので」
「えっ? 調理器具」
「はい、包丁だけですけど」
「えっ? でもそれ見ると……」
乃安が片手にぶら下げている黒い鞄はそこそこ立派なものである。
「まぁ、包丁にも色々あるという事ですよ」
「へぇ」
率直に言ってものすごく高そうである。
「あっ、見えてきました」
「うん。丁度良い時間だね」
「はい」
もう夕方。日もそろそろ沈みかかっている。
「どうもです。おばあちゃん」
「はい、よく来てくださいました」
案内された部屋は、夏に泊まったものと違い眺めも良い。
「先輩、何か余所余所しくないですか? お婆様にもお爺様にも」
「慣れないというか。うん。ここで働いた期間の方が長いから、もうバイト先の上司とか、そっちの方が感覚が近いんだよ。今もここで座って休んでいる方が違和感がある」
「あはは、わかりますよ。その気持ち。……夕食は一時間後ですか。楽しみです。今からでもワクワクします。食い意地が張っているわけでは無いですよ」
思う前に機先を制される。思いかけていることに気づいたのか少しきつめに睨まれる。
「えぇ、はい。そうですね。夜中にお腹空いてお餅食べ過ぎて太りかけた事もありました。はい、認めましょう。私は食べるのも作るのも大好きです!」
「おっ、おう」
まぁ、美味しい物を知っているということは重要だし、食べるのが好きじゃなければどうして作れるのだろうとも思う。
料理する人はきっとみんな根は食べる事も好きなんだろうなぁと。じゃなかったら幸せそうに食べる人を見ると嬉しいなんて思えないだろうから。
「とりあえずお茶でも淹れますか」
「ありがとう」
特に何に追われるわけでも無くこうして過ごすのも悪くないと思う。肩の力が抜けて気が楽だ。
乃安との時間は二人でいて苦にならない静かな時間が続いて、そして良いタイミングで楽しい話題を持って話しかけてくれる。
モテるだろうなぁ。と思いながら眺める。
「? どうかしましたか?」
「告白とかされないの?」
「あはは、されましたけど、全部断ってます。バッサリ? んー? ざっくり?」
「あまりトラウマを植え付けてやらないでくれ」
「わかっていますよ。それくらい。でもまぁ、先輩とお付き合いし始めたら無くなったんで楽でした」
「ふーん。そりゃ、良かったのか?」
「結果的に利用したような感じですよね。すいません。あれ? 電話だ。莉々から? 少し失礼しますね。……もしもし、えっ? 相馬先輩? 目の前にいるけど。先輩、莉々です」
乃安がテーブルにスマホを置く。
『日暮相馬! 乃安ちゃんに手を出す気? 死ぬ? つうか死ね』
「君島さん? どうかしたの?」
『あんたが乃安ちゃんと旅行出かけたって聞いたからさ』
「だれに?」
『乃安ちゃんに』
ちらりと乃安の方を見ると手を合わせてペコリペコリと頭を下げていた。
『ふん、まぁ良いや。お土産よろしく。それじゃ、寝る』
言いたい事だけ言って電話が切れる。何をしたかったのだろう。
「莉々は相変わらずだなぁ。誘ったら来たのかな」
「僕がいる時点でそれは無い」
「そうですかね? 来るとは思いますよ」
「どんなきっかけで会ったの? 君島さんと」
「簡単な事ですよ体育で二人で組めと言われたんで、でも私友達作りに行って無かった、結果残ったの莉々と私だったのですよ。それで名前覚えて、あとは碌にお昼ご飯食べていなかったので、心配になってしまった私が勝手に世話を焼いているのです。ただそれだけです」
乃安のような器量よしで物腰柔らかければ大分話しかけられると思うけど……ん? もしかして。
「眼鏡って」
「はい。眼鏡かけて前髪垂らして本読んでいれば、地味で引っ込み思案な暗い奴という評価貰いますよね。まぁ、バレかけているというか、告白されている時点でお察しですよね。初期レッテルは中々剥がれない物ですし。見た目は良いけど暗い奴じゃないですか? 今の評価は」
扉をノックする音が聞こえる。返事をすると、中に料理が運び込まれてきた。
乃安の目は一瞬で真剣なものに変わる。
料理を軽く解説するとおばあちゃんは部屋を出て行く。
「いただきます。ん? 乃安?」
「あっ、はい。いただきます」
そうして食べ始める。乃安は一口一口しっかりと味わっている。
結構な量でも、それでも食べきれてしまう味。ホテルで料理長を務め、引退した後に、おばあちゃんと作ったこの旅館。そこで振舞われる、確かな経歴と経験、それに基づいた腕により作られた料理の数々。それを、じっくりと半分くらい食べ終わって。乃安は箸を置いた。
「届かないです。今の私では」
「そりゃ、そうだろ」
乃安とおじいちゃんでは年季が違う。それは当たり前のことだ。だけど、乃安は目を閉じて震えていた。
「こんなところまで、私はたどり着けるのですか?」
乃安は誰に言うわけでも無くそう呟いた。そして残りをあっという間に平らげた。
「メイド長は、一流の二、三歩手前まで育て上げます。なので、一定のクオリティは保証されるのです」
「うん」
「なので、一般の人々よりも高い技術を発揮できますけど、その道のプロにはどうしても劣ってしまいます」
「当然だね」
温泉に行って、帰ってきた乃安はそのまま一つ布団を敷くと、そのまま僕を半ば拉致するように連れ込んだ。
「私はそれなのに、夢を見てしまいました」
「良いじゃん。夢見ても」
「井の中の蛙です。私は」
「最初はそんなものだよ。上を見続けるのは疲れるって言ったの誰だっけ?」
「私です」
「今は僕が君にそう言うよ」
こんな言葉で救われれば良いのだけど。いや、無理だろう。僕は乃安の感じた衝撃を知らないのだから。どうしようもない。
陽菜も乃安も、やっぱり似ているな。心細くなると、人肌を欲しがる。僕もその気持ちはわかってしまう。安心する。受け入れてくれる誰かの腕の中は。僕も陽菜に求めた事があった。
「あ、あはは。こんなにあっさり折れてしまうものなんですね。すいません。今晩は、こうさせてください」
乃安はそのまま眠る体勢に入る。明日は帰る前に、そうだな、早起きしなきゃな。
今は乃安のためにいよう。僕は。僕も目を閉じた。良い香りがした。それは目を閉じるとさらに強調される。
「一時期付き合っていただけなのに、こんな事要求してすいません」
「良いよ、こんな事で楽になるなら」
「すいません」
自分の意外なもろさに、小ささに。世界の予想を超えた広さに打ちひしがれる。それは上を目指す多くの人が一度はぶつかる壁。乃安も普通の女の子だっただけの事。でも、乃安は、井の中では特別だった。ただそれだけだった。その事を受け入れる、そんな強さを乃安が持っているかどうか。問題はあまりに単純で、それゆえの難しさがあった。