夏樹√第十六話 夏樹とこれから
双眼鏡片手に夏樹の住むマンションの向かい側に陣取る。何故か着てきてしまった僕流の正装。黒い長いコート。一人そこで覗き込む。
陽菜も乃安も置いてきた。
夏樹はご両親と話をしている。俯きがちに、きっと途切れ途切れ話しているのだろう。対面するご両親が時折頷く。
ここからはすぐには駆けつけられないけど、それで良い。僕は大丈夫だって確信している。根拠は無いけど、でも、大丈夫だ。
しかし、寒いな。屋根の上にいるのは、暗いからあまり目立たないけど、そろそろ降りよう。下はカフェだし、コーヒーでも頼むか。
ぴょんと飛び降りた先、姿勢を正して立っている影があった。
立ち上がると、こちらをちらりと見上げて、そして優雅にお辞儀をした。
「どうもです」
「陽菜。来たんだ」
「これでも私は夏樹さんの親友です。家でじっとしているだけだなんて、できるわけないじゃないですか」
「そうだね。うん、ごめん、置いて行って」
彼氏面して独占していたようなものじゃないか、恥ずかしい。
「気にしないでください。コーヒー一杯分の雑談で許しましょう」
「ん、了解」
それは久しく無かった、陽菜と二人で腰を据えて話す機会だった。
窓際の席を取り、コーヒーを二つ注文する。店内はそこまで人はいなくて、落ち着いた雰囲気だ。
「今回も、良い所は相馬君に取られてしまいました」
「でも、陽菜と夏樹の関係は変わらないでしょ」
「そうですね。私と夏樹さんの関係が変わるわけではありません。私は、夏樹さんが愛想を尽かさない限り、親友ですから。ただ、こんなに無力な親友で本当に良いのかと」
「良いじゃん。その分、支え合えるのだから」
その言葉に、陽菜は小さく微笑むことで応じた。
「相馬君。顔にゴミがついています。ちょっと顔を近づけてもらっても良いですか?」
「ん、了解」
顔を突き出すような形になる。陽菜の手が伸びる。って、あれ? 何で陽菜まで顔を近づけて来るんだ。
唇が合わさる。たっぷり三秒。目を閉じた陽菜が、呆然とする僕からゆっくりと顔を離す。
「夏樹さんとちゃんと幸せになってください。そして、良ければ私を雇ってください。二人の傍でずっとお仕えさせてください。元気なお子さんが楽しみです。お世話はお任せください。あとそれと……」
耳元で、ぼそりと陽菜は呟く。
「メイドに手を出すのは、ご主人様の甲斐性ですよ。愛人枠もお任せください……アイタッ」
デコピンした。良い音が鳴った。
「……相馬君、本気ですよ。私」
陽菜がジト目で睨んでくる。それを僕は鼻で笑う。
「おっけーおっけー。本気なんだね」
「絶対嘘だと思っていますよね、それ。冗談だと思っていますよね」
「うん」
「あっさり認めるんですね」
陽菜の囁きにぐらッと来たのは本当だけど、認めるのもしゃくだし黙っておこう。
夏樹が寛容なら……いや、それは人として……いや、でもな、うがー、何で僕は悩んでいるんだ真剣に。
落ち着こうとコーヒーを一口。
「陽菜はからかいに来たのかい?」
「そうですね、それが十分の一くらいでしょうか」
「……そうか」
マンションの方をちらりと見る。とはいえど、ここで双眼鏡を覗いたらただの犯罪者だ。通報ものだ。
「残りの九割は?」
「話が終わり、ここに来た夏樹さんに、私と乃安さんの立場についてお話ししようかと」
「……大丈夫なの?」
「むしろ、これ以上秘密にしておく方が難しですよ」
「まぁ、だよね」
証拠という証拠自体はもう掴まれているんだ。後は夏樹がメイドという職業が現代でも一つのビジネスとしてやっている人がいる事を知るだけなのである。
「大丈夫かな」
「心配ですか?」
「問題は無いとは思っていても、こればかりはね」
そうして外をちらりと見る。
「あっ」
「相馬君、どうですか?」
「わかってるでしょ」
「えぇ。あの笑顔こそ、夏樹さんが夏樹さんである。その証明です」
僕らを見つけた夏樹は、走り出す。ドアベルの音を響かせ、真っ直ぐに僕らの座る席にやって来る。
「お待たせ」
どんな話をしたのか、どんな内容だったのか、聞くのは野暮だろう。夏樹の明るい表情が答えだ。
「どうぞ。何でも頼んでください。ここの会計は私が持ちますので」
「えっ? 良いよ~気にしなくて。私今月あまり使って無いから」
「今から話す内容に少し繋がるのですよ。夏樹さん。私と相馬君、そして乃安さんが皆さまに対して秘密にしている事。どれくらい長くなるかわかりませんけど、でも、もう秘密にするのも厳しいというか、心苦しいので」
「そっか。じゃあ、ココアで。ここ、ココア美味しいんだよ」
3人分のココアか届き、陽菜はゆっくりと、すべてを話した。
「ふぅん。そっか。そんな感じはしてた。というのは正直なところだけど。うん、何と言うか合点がいったというか、そんな感じ。それが正直な感想」
夏樹はふむふむとそう呟くとコーヒーを一口。その表情はとても落ち着いていた。
「そっかー、メイドさんか~。うんうん。確かに偏見生みそうだね、広まると」
「はい。信用していないというわけでは無いのですが、すいません」
「良いよ良いよ。秘密は誰にでもあるんだから、そんなことでいちいち怒らないよ。そんな事で私は陽菜ちゃんへの態度、変わらないし」
陽菜の表情は揺るがないけれど、どこか安心したような雰囲気。
「? 夏樹さん?」
「むしろ私は、本物のメイドさんにご奉仕してもらったとは……感動!」
力強くガッツポーズして、どこか遠くを見るような目になる。
「エデンはここにあった……」
「! 夏樹さん、しっかりしてください。目を覚ましてくださーい」
燃え尽きたように白くなり、うわ言のように何かを呟く夏樹の声に、陽菜の慌てる声が重なった。
未だに悩む。僕という人間について。
誰かに思いを寄せられるなんて考えた事は無かった。むしろ一生独り身なんじゃないかとすら疑ったことがある。
「なぁ、会長」
「なんだ、相馬」
「やっぱりあんたの夢に付き合うのは無理だな」
「理由を聞こうか」
「僕は自分の目の届く範囲を守るので精一杯だ」
「そう言うという事は、守りたいものができたんだな」
「うん」
「そうか、なら諦めよう。失うものが無い、覚悟を決めた奴が理想だからな」
「僕はそう見えたんだ」
「あぁ。だからこそ引き込みたかった」
会長は思いのほか落ち着いていた。むしろ予感していたような雰囲気があった。
「お前はお前の理想に向かえ」
「そうする」
「ただし、高校にいる間は手伝ってもらうぞ」
「そのつもり」
珍しく、会長と二人で仕事をする時間。とはいえど、そこまで難しい事を会長は要求しなかった。
新入生歓迎会にて、文化部を運動部に負けずに目立たせる方法を考える、結局僕らの結論は部ごとの努力に期待するしかないに落ち着いた。考えれば当たり前のことだけど、目立つのが難しい部活があるのが実情だし、上からは見えない事情があるかもしれないし。
「それで、次は何をするんだ」
「あぁ、新しく部を設立したいとか言う届が出ていてな」
「何や」
「リア充撲滅部」
「認めるのか?」
「まさか。生徒会内に仲睦まじいバカップルがいるんだ。生徒会と争うつもりなら徹底的に潰すが、わざわざこちらから火種を撒くわけにもいくまい」
「そこまでイチャイチャしている覚えは無いが」
「何時俺が、お前らだと言った。……自覚があるようで何よりだ」
してやったりという表情でこちらをニヤニヤ見つめる会長。今後は気をつけよう。
「それよりも、そろそろ行ってはどうだ」
会長がドアの外を見ながら言う。
そこには、手を振ってニコニコ笑う夏樹がいた。
「それじゃ、帰るよ」
「あぁ。不純異性交遊して退学だけはしないでくれ」
「ん、気をつける」
「お待たせ」
「うん、帰ろ……二ヒヒ」
「不気味な笑い声だ」
「酷い事言うなぁ。良いじゃん、ちょっとくらいニヤニヤしても」
「通報されるぞ」
「一緒に逮捕されてくれる?」
「それは勘弁。出て来るまで待つくらいはするけど」
「ん、それで充分かな。それよりもさ、将来の話しない?」
「良いよ」
「私、人を助ける仕事したいんだけど、病院苦手だからお医者様は無理かな、だから、先生とかになりたいんだけど、どう思う?」
「夏樹なら、できるとは思うけど」
うん、きっとできる。あまり意識していないけど、夏樹は優秀だ。
「じゃあ、僕も良いかな? 一緒に行って」
「良いの? そんな理由で」
「良いよ。僕にとっては充分だ」
一般的に良くないとされる決め方も、当事者になると結構良い選択な気がしてくるのだから不思議なものだ。
「ありがと、一人じゃ不安だったのは、事実だから」
「うん、当面の目標は、夏樹と同じ大学、行けるのか……」
「私がレベル下げれば」
「それは駄目」
「じゃあ、今から頑張ろう」
「おう」
それが、僕らがようやく踏み出せた一歩だった。