夏樹√第十五話 夏樹と勢い任せな言葉。
息を吐く、白い息が、視界を遮る。吐けるだけ吐く。こうして空っぽになれば、僕は誰でもなくなるような気がした。
まぁ、誰でもなくなってそれでどうするんだという話だけど。僕は僕であって僕でしかないのは揺るがしようの無い事なのだから。
でも、胸の中を占めていたどんよりとした空気は全て吐けた。
夕暮れ時の空を見上げる。昨日帰って来た夏樹のご両親は今日もいるらしい。昨日はどうにか、友達の家にいるという事で誤魔化したけど、二日連続は誤魔化しようっはあるまい。
「夏樹、今日は自分の家に帰ろうか」
「えっ? 相馬くん、私、でも……」
不安げな目。日を追うごとに少しづつ不安定に、僕を支柱にどうにか成り立っている精神状態は、僕の態度一つであっさり崩れかねない。
だから言葉一つにすら気をつけないければならなかった。本当に、どうしてこんなに急に。
そんな思いは顔には出さず、そうだ、死に物狂いでハッピーエンドを目指す僕に立ち止まる事は許されていないと思い直す。
原因はどうでも良い、今は夏樹をどうにか、どうにか? どうにかって何だ、僕は夏樹をどうすればこの出来事のゴールになるんだ。夏樹の在り方を僕が決めて良いのか?
「陽菜ちゃん。私帰って寂しくない?」
「寂しいですが、親は大切にしなければならないものですし。幸い明日も学校はあります」
「そう、うん、そうだよね。いつまでも陽菜ちゃん達に迷惑かけられないよね」
頭には浮かんでいた方法。それを夏樹に教える。
「大丈夫?」
「うん、頑張ってみる」
それは夏樹の歪さに助けられた。元々頭が良くて、子どもと大人の二面性がある、だからこそ、自分が可笑しいと客観視しているから、理性が解決に向かわせようと僕の解決のための方法を受け入れた、と解釈している。
実際の所は、どうなのだろう。精神に幼さを残しつつも理性は大人。この歪さを自分でも気づいていたのだろうか。
「先輩、大丈夫ですか?」
「大丈夫。僕はまだ大丈夫」
「でも、顔が青いです」
「こんなのまだまだ、今が無理をする時さ。ねっ?」
乃安の目には不安の色があった。あーあ、後輩にこんなに心配される先輩というのも、笑えないな。
頬は腫れてるわけでも無いのに、未だに痛む。それだけ君島さんの叱咤が効いているという事だ。
リビングで、コーヒー片手に待つ。その時を。正直、僕は夏樹のご両親に夏樹の現状を話すか迷っている。常識的には話すべきなのだろうけど、でも、それは、正しいのだろうか。
夏樹は、「いてもいなくても変わらない」と言った。大人への不信感を滲ませながら。夏樹の歪さとそれは皆多かれ少なかれ持つもので、夏樹は極端にそれが表れているだけだ。
でも今、この不安定な状況で不用意に僕から話して、ご両親が暴走した時、彼女は崩壊しかねない。だから今は、黙っておくべきだ。
相応しいかどうかじゃない、今の心の支柱は僕である、その自覚を持たなければならない。
「来た」
スマホが着信を知らせる。
「では、私たちは引っ込みますね」
「うん、お願い」
画面をスライドして通話画面に切り替える。すぐに、向こうから微かに息をのむ声が聞こえた。
「もしもし」
「わぉ、繋がった」
スマホに映る夏樹の顔。こうして距離を離しつつもといった感じで少しづつ僕がいない状況に慣れてもらおう、という方法だ。
「どう、夏樹。寝られそう?」
「多分、でもしばらくお話ししよ」
画面の向こうでは枕に頭を預けて、暗い部屋で一人いる様子が映っていた。
だから僕も合わせるようにソファーに身を投げ出す。
「今日ね、一緒にディナーバイキングに行ってきたんだ。ホテルの」
「どうだった?」
「ローストビーフが美味しかった」
思い出したのか頬が緩む。
「あ、れ?」
思わず伸ばした手が空を切る。
何で僕が一緒にいたいと思っているんだよ。
「? どうしたの?」
「なんでもない」
手を伸ばした先、誤魔化すためにテーブルに乗っていたコップを手に取って画面に映すことで誤魔化す。
「でもね、寂しいかな。やっぱり」
「明日会えるよ」
「わかってる。でも、寂しいものは寂しいな」
僕は夏樹が、どんな寂しさを抱えて生きてきたのかを想像することしかできない。夏樹のご両親が忙しい仕事をしていることは知っている。でも、家にいられる時はどうにか夏樹と過ごそうとしていたのではないかと思っている。
でもそれでも。今目の前で、夏樹が寂しさを感じているなら。僕は。
「大丈夫だよ。夏樹、約束する。僕はいなくなったりしない。僕は夏樹が好きだから、夏樹を置いてどこかに行けるはずなんて無いじゃないか」
だからはっきりと、そう言った。夏樹の事を守って生きたい、そうはっきりと思ったのだから。
「あれ? 夏樹」
「はい。何でしょう。聞こえませんでした。布団にもぐったので」
「いや、布団にもぐっても返事してるじゃん」
「うるさい。不意打ち厳禁。なんで突然そんな事言うのかな。愛の告白みたいじゃん」
「……みたいじゃなくてそうなんだけど」
「陽菜ちゃんは?」
「……仕方ないじゃん、夏樹と一緒にいたいって思っちゃったんだから」
「女々しいなぁ」
「それよりも、顔出してよ」
「やだ、絶対に真っ赤だから。もう、良い。寝る。返答は明日」
「今。それは先延ばしにしたら絶対にダメな奴。答え辛くなる奴だぞ」
「……いえすに決まってるじゃん」
目元だけ出して、そう答える。
「わたしのためにここまでしてもらって、意識しない女の子なんていないよ。誰かのために頑張れる人は素敵だよ。でも、私で良いの?」
「夏樹でじゃない。夏樹が良いの」
「嬉しい」
僕は馬鹿だ。なんで直接言わなかったんだ。面と向かって言えばよかった。
「ほら、寝ろ、もう」
「あっ、恥ずかしくなってる」
「寝れば明日はすぐ来るぞ」
誤魔化すようにそう言うと。
「そうだね、そうする。寝れるかな……寝れるね、きっと。今、温かいから」
そして夏樹は目を閉じる。しばらくして寝息を立て始めたのを確認して僕は電話を切った。
「……陽菜! 乃安! いるのはわかっている」
「はい、先輩。情熱的な愛の告白、お疲れさまでした」
「はい、相馬君。それはもう、羨ましくなるような告白、お疲れさまでした」
「……これで良かったのかな。これって一緒にいたいと伝えちゃったみたいなものなんだけど」
数分前に思いを馳せる。完全に勢いで言ったようなものだ。思いは正直でも、もっとタイミングを考えるべきだった。
「私は、離れていてもあなたの事を思っている、そう伝える事が大切なんだと思います。夏樹さんの寂しさは、そう埋めるべきなんだと思います」
陽菜は、そう言って、手早く夜のお茶会の準備を始める。
「夏樹さんにあげる予定だった眠気を誘うハーブティー。ちょっと試してみませんか? 相馬君、今のですっかり眠気が吹き飛んでいるようですし」
「ん、サンキュ」
夜のお茶会はしばらく続いた。歪な僕らを照らす太陽はもうすぐ昇る。
そわそわと駅でその姿が現れるのを待つ。しばらく、改札の向こうから駆け足でこちらに向かってくる姿が見える。
「おっはよー」
そして半ばぶつかるように抱き着かれた。
「ちゃんと寝れたよ」
「おっ、おう。それは良かった」
布良夏樹は、布良夏樹だった。
付き合っている、という事で良いのだろうか。まぁ、かと言って、具体的に何が変わるわけでも無いと思う。変に意識して空回りして微妙な雰囲気になるより良いだろう。
でも僕はちゃんと話さなければならないだろう。
だから昼休み、僕は屋上の前の階段で弁当を広げて夏樹に言う。
「ご両親とちゃんと話す機会を設けるべきだと思うんだ」
「? 何を?」
「今回の事、それと、夏樹の思っている事?」
「なんで?」
「意味は無いかもしれない。けれどさ、確かめようよ。夏樹の事をちゃんと思ってくれているか」
「良いよ、相馬くんが私の事思っている、それだけで私は十分。それに……」
その唇を塞ぐ。夏樹が何と言おうと、これだけは絶対に必要だと思うから。外野からの勝手な提案だとしても、このままではあまりに悲しすぎるから。「いてもいなくても変わらない」それは夏樹が寂しい時に思った事、本人の状況が変われば抱く思いが変わるのなら、それは兄の死に対する考え方と一緒で、今なら両親に対する思いも変わるかもしれないと思ったから。
顔を離すと、微かに顔が赤い夏樹と目が合った。
「……豪快だね、意外と。相馬くんは」
「ちゃんと話そう、夏樹が寂しかったって事。どうしてお兄さんの事忘れさせたか、ちゃんと聞こうよ。聞いたことある?」
「無い。お互い、触れなかったから。その事に」
「うん、だからさ、ちゃんと話そうよ」
「ん、わかった。相馬くんがそう言うなら。そうだね、確かに、ちょっと悲しい事だよね」
「でしょ。大丈夫、離れた所から見てるから」
「隣にいてくれないんだ」
「僕が首を突っ込んで良い事じゃないし」
これは夏樹が一人でやるべきことだ。一線は守らなければなるまい。もどかしいとは思う。でも、間違っていたとしても、失敗したとしても、夏樹には必要だ。
「見守っててね」
「任せろ」
まだ少し不安定な、不安気に揺れる目で見上げて来る、突き放すような事を提案してしまった事に少しの罪悪感を抱く。押し殺して笑う。
僕はこんな進み方しかできない、この不器用さが僕らしさなんだろうな。