夏樹√第十四話 迷い惑って、それでも前に押してくれる優しい手。
夏樹は病院に行きたがらなかった。
そもそも、夏樹は大の病院嫌いだ。初めて知った事だった。
その日は家に泊めた。抱き枕のように僕を抱きしめて眠る夏樹の表情は穏やかだ。もう、これで良いのではないのだろうか。夏樹の御両親に説明して、夏樹を僕らで引き取るか、僕が夏樹の家に住まうかして。
夏樹に、大人と子どもが共存しているような、根が浅いのに幹ばかりが立派に育った樹のような、そんな歪な印象を僕は抱いた。
ようやく、夏樹の奥深くが見えた気がして、そしてそれに触れることが許されるのかという迷いを抱いて、そして冬のあの日、あれはただ、解決したのではない。ただ蓋をして、その場凌ぎにどうにかしただけであることに気がついた。
「私、実は父さんと母さんの事、恨んでるの」
夏樹はある日、そう言った。ベッドの中で、僕を抱きしめながら。それは、明日ご両親が帰って来ると連絡を受け取った夜だった。さすがにご両親が帰ってくる日に外泊させるわけにはいかない。もう数日、服を取りに行くくらいでしか家に帰っていないのだ。でも、眠れない夜を過ごさせるわけにはいかない、延々と思案していた夜だった。
「私がお兄ちゃんに守ってもらった事を無かったことにしようとしたんだから」
「でも……」
「うん、わかっているの。必要な事だったって」
微笑むけど、でも、目が笑っていなかった。
「でも、私はそれでも、大事にしてくれる人が私のために何をしてくれたか、その事を失いたくなかった」
それは違う。夏樹のご両親は、夏樹を大事に思っている。だって、そうじゃなかったら、帰ってくる日にわざわざ連絡なんかしない。
それに、今の夏樹はその事をそう解釈できるようになった、だからそう思っただけの事に過ぎない。
だって夏樹は、それまでは自分で殺したと思っていたのだから。
でも、それがわかったところで何になるんだ。外にいて、最近近づいただけの僕に、何ができるんだ。いや、僕にできる事なんて一つだけだ。
抱き寄せる。また蓋をしよう、僕がこうして夏樹の傍にいれば大丈夫ならば、こうやって、傍に。夏樹が、自分は大丈夫だと自分にも周りにも嘘を吐けるように傍に居続けるようにすれば良い。
そう、静かに決心した。
「あんた、最近よく来るけど、段々昔に戻ったみたいな表情してる。無駄に暗い」
「うん、だから莉々の所に来たんだろうね」
そこは図書室だった。それは単に教室にいるのが辛くなっただけなんだけど。
こうして、一定の距離の間で近づく事無く、一本の線を挟んで話せる莉々との時間は心地が良い。今の僕にとってのオアシスだった。
夏樹は依存するようになった。元々仲良かっただけにクラスメイトはそこまで怪しんではいないけれど、でも陽菜も京介も乃安も入間さんも気づいている。
休み時間になれば僕の席の近くに来て、何を話すわけでも無くずっといる。時折ちらりと僕の機嫌を伺うような顔をして、そして優しく微笑めばニッコリと笑う。
「また嘘を吐くの?」
「そうなるかもね」
「ふぅん。まぁ、確かに一時は救われるよね。麻薬みたいに」
「うん」
莉々は僕をじっと眺めた。
「日暮相馬……じゃなくてそうちゃん」
「ん?」
「莉々はあんたがどんな状況にいて、どんなことを思っているかなんて知らない。一つだけ言えるのはあんたがまた間違いを犯しそうなくらい。折角良い方向にあんたが向かっていたというのに」
「僕の限界だよ」
一瞬、莉々がしょうがないなと優しい表情になった、そして次の瞬間、苦虫を嚙み潰したよう表情に変わった。
「いやあんた、中二病拗らせるのもいい加減にしろよ」
「えっ?」
「立て、そしてこっちに来い」
そうは言うが僕が立つのも待たず、手を引き図書室の奥に連れて行く。そして、周りをきょろきょろ見ると、平手打ちを僕にかました。
パンっ! と良い音が鳴った。誰かがいたらぎょっとしてこちらを見るだろう。
「あんた、僕らが暗くなってどうするとか言っていたよね。何してるのさ。あんたが真っ先にお通夜してんじゃねぇよ。甘えるな」
ギロリと睨む莉々の目に容赦は微塵も無い。突き刺さるような感覚を覚えた。頬がヒリヒリと痛む。本当、その細い腕のどこにこんな力があるのだろうか。
「あんたの嘘から覚めた途端に感じた苦しみは辛かったさ。莉々は、あんたがあんたの嘘の夢から覚めた瞬間の苦しみを、他の奴に味合わせるのは許さない。そうなる前にあんたを殺す。失うものなんて無い莉々だからできる事」
本気であるかを示すように、スカートに隠された太ももからギラリと光る刃物が抜かれる。
「選んで、日暮相馬。ここで莉々と心中するか……いや、あんたが死んだら多分辛いだろうからあんたといつも一緒にいる奴ら全員一緒に死ぬか。それとも、死に物狂いでハッピーエンドを目指すか」
「それ一択しか無くね?」
「莉々は最高の二択だと思うけど」
冗談を言っている雰囲気は無い。真面目に言っているが莉々の恐ろしさだった。
「僕って、本当進歩しないよな」
「莉々から見れば少しは成長しているけど」
「相変わらず、誰かにこうして背中押されないと前に進めないからさ」
「良いんじゃない。そんなんで。誰かの闇に踏み込むことに躊躇するだけまだまし。人間らしい」
鈍く光るやたらとごついナイフを片付けると。さっさと背中を向ける。その背中は、さっさと行きなよと言っている気がした。
でも僕は、あえて伝えた。多分、莉々が一番嫌がる言葉を。
「ありがとう、君島さん」
「何がありがとうなのか莉々にはさっぱり。じゃあね、日暮相馬。今日はもう会うことは無いでしょう。莉々はもう帰るから」
「午後の授業は?」
「らしくないことしたから体調崩した。あんたの言葉にとどめ刺された」
「そう、お疲れ」
思わず苦笑いがこぼれる。
「慣れないことはするものじゃないね」
「良いじゃん、君島さんの根が優しいのは知っているから」
「何それ? キモイ」
なんだかんだで、大人になってからも二人で会うんだろうな、僕らは。知り合い以上友人未満、それでもなんだかんだで仲良くできる。
「それじゃ」
「ん。さっさとどっか行って」
手を上げて見送る君島さんをちらりと見て僕は図書室から出て行った。
トントンと、掃除用具入れの扉が叩かれた。
「乃安ちゃん、何してるの?」
「莉々が優しいなぁって思って聞いていたの」
「盗み聞きが趣味?」
私は観念して掃除用具入れから出てきた。
「何時から気づいていたの?」
「さぁ、たまたま掃除用具入れに入っていく姿を見たからさ」
「あちゃー、うかつだった。……相馬先輩の事、好き?」
「大嫌い」
「それでも、わたしじゃできないこと、できちゃうくらいには知っているんだもんね」
「昔のあいつならね。自殺に追い込む自信はあるよ。ならその逆もできるのは当然でしょ」
見事などや顔。細い体を自慢げに反らして胸を張る。
「それよりも莉々、弁当食べない? 最近相馬先輩と二人、どこに行っているのかなーって思ったらここだったのね」
「日暮相馬はすぐ帰るけど、聞いてなかったんだ」
「うん。限界に近かった相馬先輩、そんな時頼ってもらえなかったのは悔しいな」
「あいつのどこがそんなに良いのか、莉々にはさっぱり。でも、もう大丈夫だろうな」
「何が?」
「今のあいつはちゃんと歩けるだろうなって」
莉々はどこか遠くの何かを見ている。机に座って、頬杖ついて、その顔は退屈そうに見えた。
「さぁてと、家に帰ろうかな」
「莉々、午後の授業ちゃんとでますよ」
「えぇ、だって莉々にとっては復習だし」
「私にとってもです。それでも、出席日数は確保しましょう」
「えー、どうせテスト満点だから許してくれるよー」
「莉々、世の中素行も大事なのです」
「はいはい、わかりました、弁当下さい、お腹満たせば寝れるので」