夏樹√第十三話 親友とサボる学校。
「ねぇ、相馬くん。相馬くんが私のためにこうして来てくれるの、二回目だよね」
一言も話す事無く、家に着くなり、夏樹はそう言った。それはたまに見せる、儚げな笑顔、美しく見えた。
「あの時、私相馬くんに初めて、あげたよね」
誤解を生む表現はと茶化す雰囲気では無かった。
夏樹はゆらりと僕との距離を詰めると、むぎゅっと抱きしめた。柔らかいものに包まれた。夏樹の顔が傍にあった。表情は伺えない、ふわふわの髪に顔を埋めるような形になる。
「今日はどうしてくれようか、無警戒に女の子の家に現れた、そんな男の子に。しちゃう? 今はフリーな相馬くん」
夏樹が夏樹らしくないことを言っている。
「なんてね、嘘だよ」
そう言って、上目遣いに夏樹はいつものように笑顔を見せて、パッと僕の事を離した。
でも僕はその瞬間、逆に夏樹を抱きしめた。
「離さない」
「相馬くん?」
いざ抱きしめて、僕はどうしてこうしたのかを悩んだ。ただ離したくない、そう反射的に思ったからだけど。どうしてそう思ったのだろうか。
「離れてどうするのさ? 今日は一緒にいるのだから」
だから咄嗟に慌ててそう言う。
「でもでも、お風呂とか夕飯とか、ね?」
「あっ、そっか」
「それに、ほら、えっ、あっ、まさか、でも、あうあうあう」
腕の中で夏樹がものすごく混乱していた。さすがに離す他無い。
「まだ心の準備がががが」
「はいはい、落ち着いて落ち着いて。ほら、ご飯食べよ」
「あっ、うん……」
しんみりした空気は吹き飛んだ。これで良いんだ。無駄に暗くならないようにしないとな。
夕飯を簡単に済ませて、お風呂にも入る。
さすがにお風呂は別々だ。当然だけど。
寄り添い合って、ソファーで過ごす。結構大きいのに、僕らの間に空間は無く、お風呂で温めた体が密着して温かい。
「気分はどう?」
「温かい」
「ご両親は?」
「最近仕事増やしたみたい。私はもう大丈夫って思っているんじゃないかな」
「そう」
「正直、いてもいなくても、変わらないもん」
夏樹はそう言って、トンと僕の肩に頭を乗せた。少し湿った髪に触れた。ふわりと、お風呂場にあったシャンプーの匂いがした。
穏やかな時間で、僕は何も必死になっていない。さっきまでどうしようと悩んでいた時間が嘘のようで、何かしなければと漠然と思っても、それに何の強迫観念を感じなかった。
ただ無為に時間が流れる。
「人の悩みなんてそんなものだよ。物語の世界みたいにものすごく深刻で、みんなで必死になってようやく解決することもあれば、ちょっとしたきっかけであっさりと解決することもあるよ」
悩んでいることに気づいたのか、唐突にそう言う。そして、僕を引っ張って布団に連れて行くと、僕を抱きしめたまま布団にもぐる。
「例えばこうやって、温かい中で目を閉じれば、ね?」
気がつけば、お互いまどろみの中で見つめ合っていた。そしてそのまま、僕の意識はゆっくりと落ちて行った。
目が覚めた。何かに抱きしめられていた。するりとそこから抜け出すと、夏樹の寝顔が目の前にあった。
時計を見た。頭が真っ白になった。
「あっ、やっべ」
時計は昼頃を指していた。今頃陽菜と乃安は僕らを探している事だろう。
「んーっ」
「夏樹、どうしようね」
「へ?」
ふわふわした様子でうとうとと時計を見る。
「あははっ、どうしようね」
案外慌てないで、そのまま洗面台へ。あれ、意外。そして顔を洗って改めて時計を見て。
「えぇぇぇぇっ!」
やっぱりいつもの夏樹でした。
「今からでも行く? 無断欠席だし」
「うーん、どうしよう」
二人で向かい合って遅めの朝食、兼昼食。
はっきりとは言わないけど、僕らの胸中はきっと同じだ。
「「今から行くのも何だかめんどくさい」」
「よし、寝るか」
「そうだね」
怠惰な自主休講である。
そうして僕らはまた布団にもぐる。
「ふわぁ」
「ちゃんと眠れたんだ」
「うん、相馬くん抱きしめていると、何かちゃんと寝られるみたい」
「それはまた」
「だから、どこにも行っちゃだめ」
むぎゅっと、されるがままになった僕を夏樹は緩慢な動きで離さないという意思を表明する。
二人に連絡しなければとか色々考えるけど、それは今はできまい。
「夏樹」
「ん?」
「僕で良かったのかな」
「なんで?」
「いや、だって、夏樹が好きなのって……」
それは夏樹のお兄さんで、それを僕に重ねていただけで。本当は僕じゃなくて陽菜とかに任せた方が良かった。
「何言っているのかなー。わからないなー」
「えっ?」
「もう良いや。もう、偽物でも良いや。なんでも」
「えっ?」
私の恋は偽物でも、私の中にあるこの熱は、確かに今、私が感じている物。これを誤魔化すなんて、できるわけが無かった。
誰かと居る温かさはに包まれて、私は孤独に耐えられなくなってしまったのだろう。
一人でいるのは慣れっこだったはずなのに、この寒さは私を眠らせなかった。だから、私は、誰かがいることを欲したんだ。
好きとは言わなかった。
「相馬くん、ずっと隣にいてくれますか?」
彼は、黙ってうなずいた。
夕方になって、陽菜ちゃんと乃安ちゃんが来た。二人は少し怒っていたけど、でも安心しているように見えて、なんだか可愛かった。
その日はそのまま四人で泊まった、布団を敷いて川の字になった。冬の寒さも、へっちゃらだった。
そうして次の日、普通に学校に行って、そして、多分もう大丈夫だと思いながら、私は一人布団にもぐった。
きっとこれは恋じゃない、私はそう思った。これはまた別のもの。彼を求める気持ちは恋とは違うものだ、そう思った。
一週間経った。二月になって、僕と夏樹は前より親密になる程度の変化はあった。
あれは告白だったのだろうか。今までの夏樹とはまた違う雰囲気があった、そんな、漠然とした感覚があった。
生徒会の仕事で訪れた職員室を出て、過去の生徒会議事録を探しに行った夏樹と合流しようと、僕は図書室への道を急ぐ。
会長は今日はもう帰っている。陽菜は一人で終業式用のプログラムの打ち込みと印刷作業中だ。
廊下はまだ冷える。図書室はきっと温かいだろう。議事録を運ぶ作業は一人じゃ難しいだろうから手伝いたい。足が早まる。
図書室の扉を開ける。そんなに人はいない。勉強している人と本を読んでいる人、そしてカウンターで作業している司書さんの三人だ。
奥の書棚と言っていただろうか、歩いて行く。
「えっ?」
思わず固まった。誰かの足が見えた。見慣れたふわふわの髪が見えた。夏樹が倒れているのが見えた。
駆け寄る。意識が無い。息はしている。心臓も動いている。
「くそっ」
夏樹を背負って駆け出す。図書室の先生が何か声をかけた気がしたが無視した。
「先生! 夏樹が、夏樹が……」
保健室に駆け込むと、何故かいた君島さんが驚きながらもベッドに誘導してくれた。
「……えいっ」
君島さんがぺしぺしと夏樹を叩く。
「……ん」
「夏樹!」
「うん、寝ているだけね、これ」
「えっ?」
「失神と眠りの違いは刺激に対する反応だからね。きっと寝不足だったのでしょうよ」
「えっ……寝不足?」
「なに? 死んでるとでも思った?」
「いや……」
おかしい。だって、夏樹は寝れた。いや、でも目の前の夏樹は確かに倒れている。どうして……。誰も気づかなかった。僕も気づけなかった。どうして……。
「ふわぁっ、あれ? 私寝てる」
「夏樹! 良かったぁ」
「だから言ったでしょうが、寝ているだけだって」
君島さんの呆れたような声が聞こえるが、でも今は喜びが勝った。
「夏樹、どうして……」
そして、疑問が先走った。
少しの沈黙が保健室を支配した。夏樹が迷っている。そしてしばらく、僕の顔をじっと見ると、小さく口を開いて、ゆっくりと告げた。
「眠れないの。一人で」
小さく、悲し気に、夏樹は笑った。