第百一話 メイドと償う過去。
突っ込んでくる君島さんの一撃は、吸い込まれるように僕の懐に入って来る。しかしそれが体に入る事は無かった。
ピタリと寸前で止まる。歯をガチガチと鳴らして、手が震えていた。
「君島さん?」
「う、うぐっ、あ、あぁ」
震える手からナイフが零れ落ちる。顔を覆ってすすり泣く。
「殺せない。どうして、殺せない。嫌いなのに、憎いのに」
その声にはもう憎しみは無い。涙声で、何かを訴えようとするも、それははっきりと意味ある言語にならず、首を振るばかりの君島さんに、僕はどう言葉かければ良いのか。また僕は、何も言えないまま、彼女を悲しませるのか。
「情けないな、僕は」
「なに、浸って、いるんだよ」
「口下手でね」
「知っている。あんた、いつも、困った顔で会話するんだもん。このコミュ障」
「耳が痛いね」
「でも今のあんた、あまり困ったように話さないよね」
「困ってるよ」
「違う。高校に入ってからのあんた。変わったんだね、莉々がばかみたい。莉々は、ずっとあんたにしがみついて。でもあんたは置いて行っちゃうんだもん。ずっと前にいる」
手を伸ばすけどその手は払われた。君島さんは自分の足で立ち上がった。涙は引き、とても静かな目をしていた。それは中学の頃の悲し気で暗い目でも、最近の憎悪に満ちた目でもない。君島さんの自然体がそこにあるように思われた。
「なんで避けようとしなかったの? あんたならヒョイって避けられたでしょ」
「君の怒りを全部受けようと思った。君がどんな一年を過ごしてきたかは知らないけど、でももし僕にできることがあるのなら。僕というわかりやすい象徴にぶつけてもらうのが一番良いと思った」
「馬鹿みたい。刺されようと思ったの?」
「うん」
「無責任ね。そして私には罪悪感を残そうって言うの?」
「ぶっちゃけるとそこまで考えてないし、君が罪悪感を持とうと知ったこっちゃない」
「……あんた最低ね」
「僕は僕がやったことの責任を取りたかっただけ。これからの事はこれから考えるんだよ」
それが僕の結論だった。僕の出した答えだった。僕が無い知恵を振り絞った結果だった。
「あなたって最低よ。でも私も最低よ。勝手に舞い上がって勝手に幻滅した」
差し込む陽の光が僕らに昼の訪れを告げた。朝の終わりを告げた。
今頃カンカンになっているであろう人々の顔を思い浮かべ、僕らは思わず噴き出した。お互いがお互いの事しか見ていなかったあの頃ではありえない光景だ。
「乃安とは仲良いの?」
「えぇ。私が正面で勉強を始めればあちらは読書を始める。無駄に一緒にいようとしない。とても居心地の良い関係よ」
あの頃の僕らのようだ。図書室で会えば何となく近くに座り。切りの良いタイミングでお互いが同時に顔を上げれば何となく会話が始まる。
「あの頃の私が学んだ事は無駄にはしてない。変な希望を抱かないようにはしている」
それはあまりにも悲しい事。でもそれを僕は指摘することはできない。それはこれから彼女がゆっくりと誰かとの関係の中で溶かしていく壁。その誰かとは僕ではない。
廃屋の壁に二人でもたれ掛かり、ぽつりぽつりとこぼれるような会話をする。
「君島さん」
「何?」
「僕が卒業してからの一年で、何があったの?」
「今思えば何も無かった。ただ、あなたとの時間からの落差が激しくて、深刻に捉えていただけ。そうね。それだけ。くだらない」
そう言う彼女の表情はとても穏やかで、今更ながらどうして不気味とか言われていたのだろうと疑問が湧いた。今考えても仕方の無い事だけど。
トントントンと階段を駆け上がる音が聞こえる。思わず身構える。何らかの業者の人なら駆け上がる必要は無い。でもこの速さは急いでいる人の物。このペースで来られたら隠れる間もない。
「あっ、やっぱりここに。はぁ、良かった」
「乃安!?」
「乃安ちゃん!?」
「いないから探しましたよ、二人とも」
呆れた空気を滲ませて、レジャーシートを敷き、ドンと二段の重箱を取り出す。
「ほら、莉々。あなたの分、今日も作ってきましたから。どうせまた、ゼリー飲料とかそこらへんで済ませようとしていたのでしょう。それともお手軽栄養食?」
「正解。だから、……やっぱりいただきます」
「どうぞ召し上がれ。先輩も、どうせまだお昼食べていないのでしょ? 一緒にどうですか?」
「じゃ、じゃあ、ご一緒させていただきます」
「何であんたがどもるのさ。居づらいのは莉々なんだけど。誰もいない廊下でイチャイチャしているとか、見てるこっちの身にもなってよ」
「誰もいない廊下でって、何で知ってるのよー」
廃墟でピクニックとは、結構変な気分だけど、悪くない。穏やかな秋の空気は暑い夏の空気を追い出し、少しひんやりとしながらも過ごしやすい空気にしている。
弁当をつつく二人の後輩を横目に、自分の弁当を開く。いつも多めに作っているなとは思っていたけど、そういうことだったのか。陽菜に僕に自分に。さらに君島さんにも。多分、三人分も四人分も大して変わりありませんって言うとは思うけど。
「いつも別にそんなことしなくて良いって言っているのに」
そう言いつつ。君島さんの箸は止まらない。乃安はその様子を微笑ましそうに見ている。ていうか、腹減ってたんだなぁ。
さっきまでの空気からは考えられないほど、穏やかな空気だった
学校に着く頃には、落ち着いていた。そして先輩がいないことに気がついた。しかしそんなタイミングで私は職員室に呼ばれた。陽菜先輩は止めるつもりは無いのか、何もせず待つつもりのようで。でも、私はそんなつもりは無い。
教室に戻り、莉々がいない事、それを確認した私は学校を飛び出した。
「あぁ、そっか、先輩もこんな気持ちなのかな」
突き詰めれば自分のため。だって、そうしたいのは自分。でも、それでも、間違っていると思っているから、放っておけないと思うからそう動くんだ。
人は結局のところ、完全に他の誰かのために動くことはできない。結果的に他の誰かの役に立っている。それだけだ。ご奉仕する立場の私が言って良いのかは知らないけど。
「でも先輩、じゃあ先輩は自分のために傷つくのですか?」
小一時間走り回った。そして見つけたこの場所。二人の学生がこっそり会うのに、廃墟以上に良い場所があるだろうか。
駆け上がっていく。途中、話声が聞こえた。それは殺伐とはしていない、普通の友人同士の会話だった。
入って行こうか一瞬迷った。でも私は駆け込んだ。
本当に何とかしちゃったんだ。あんなに辛そうだったのに。それでも何か掴み取ってきちゃったんだ。
放課後までの時間、僕たちは内容の薄い会話を延々と楽しんだ。ほとんど昔の僕と君島さんの話だけど。
こぼれにこぼれた感情、後に残ったのは静かな時間。気がつけば太陽は傾き、そして夕暮れが町を包む。
「わぁ、先輩ったら昔から変わらないのですね。いじめっ子をフルボッコですか」
「そう。こいつったら四人くらいいたかな、そいつら問答無用で殴り倒すの。これ、もし誤解だったら大問題だっての」
「誤解じゃなくても大問題だったよ。保護者が学校に怒鳴り込んできて、父さんが頭抱えていたよ、ついでに腹抱えて大笑い。女の子を体育倉庫に集団で連れ込んだって部分を無視して、僕の暴力行為を非難する親どもが面白かったんだってさ」
「あんたの父親もなかなかとんでもない奴ね」
もう普通に会話ができる。その事に驚く。
そろそろ良い時間だからと廃墟の外に出る。制服姿の人々があちこちで放課後を思い思いに過ごしていた。そこに僕らも紛れ込む。
「なんかさ、あんたのこと憎く思うのが馬鹿馬鹿しくなった」
「というのは?」
「なんだろうね。貯め込んでたもの全部ぶっ放したからかな。でもあんたの事は相変わらず嫌い。でも憎くは無い」
「なんじゃそりゃ」
「ふんっ」
そっぽ向いて乃安の腕にしがみつく。
「だってさ、あんた私の友達の彼氏でしょ。つまり私の敵」
「友達観おかしくね?」
「狂わせたの誰だろうね」
「悪うございました!」
ぶっきらぼうな無表情が悪戯っぽい笑みに彩られる。乃安がやれやれと笑う。
「まっ、嫌いは嫌いだけど、最低同士仲良くしようね」
「はぁ、良いけどさ」
「そのため息何よ」
「さぁね」
憑き物が取れたように見える。でもまたぶっきらぼうな無表情に戻るけど、僕と彼女の関係はそれで良いのかもしれない。