第百話 一人で償う過去。
電車に揺られる。人混みに紛れてするりと移動する。普段は煩わしいこの満員電車も今は好都合だ。マナー違反かもしれない。けれど、今は探さなければならない。
冷静に考えればわかること。それは、同じ中学出身なら、同じ駅から乗るはず。そして、話す場所としてこれ以上に都合の良い場面は無い。
四両編成のこの電車、君島さんは、僕が四両目に乗ったからなのか、一両目に乗っていた。長い黒髪をいつものように下ろし、扉の傍にもたれ掛かり、窓の外の景色を眺めている。
昨日乃安から聞いた彼女の連絡先、そこにメッセージを送る。
『やぁ』
そう送れば、彼女はまず僕の方を見て驚き、そしてスマホを確認する。それだけで気づいてくれるはず、その期待はきちんと果たされた。指が高速で動き、スマホがメッセージを受信する。
『日暮相馬、どうしてここに』
『会いに来ただけ。少し話さない?』
『乃安達は?』
『撒いてきた。彼女たち抜きで君に会うには、ここが都合が良い。ここなら簡単に追いかけられないから』
それに、彼女がもし、僕を殺す気なら、こうして目の前に立てば、僕はもう逃げられない。電車の中で事を起こすとは考えづらいけど、でも彼女と話すテーブルに着くにはこれくらいしなければ駄目な気がした。
電車がいつも降りる駅に着くまでの二十分、それが彼女と僕が二人きりで会って話せる時間だった。陽菜も乃安も、きっと頼んでも許してはくれない場面だ。
『言いたい事言いなよ。君は、昔から表情にすぐ出る』
『あんたは、私をだました』
『そうだね」
『私を一人にした』
『確かにそうだ』
『私に希望を見せて、惨たらしく奪った』
『否定はしない』
『それなのに、何事も無かったかのように、高校一年間を過ごした』
『言い訳はない』
握り拳を作り、それでも電車の中だからと冷静になろうとする、必死で無表情になろうとしている。
『許せるわけ、無いじゃない』
『わかっている』
『だったら、どうして、私の前に自分から現れたのよ』
どうして、か。それは、僕の勝手な思いから。僕にとっては必要でも彼女にとっては毒になるかもしれない。でも、毒を以て毒を制すという言葉通りなら、もしかしたら僕たち二人にとって良いかもしれないとも思った。
『私はあなたに二度と会いたくなかった。あなたがこの高校にいるなんて知らなかった。あなたが私の新しい友達と仲良さそうにしているのが許せない』
自分を律しようという試みをかなぐり捨てて、顔を歪ませ、目に憎悪を宿して、君島さんは睨みつける。スマホ越しの言葉でも、それでも伝わって来る、マグマのように煮えたぎる感情。
しかし、時間は残酷だ。電車が速度を落としていく。やがて電車は静かに止まった。それがこの会合の終わりの合図になった。
扉が開き、逃げるように立ち去る。その背中を見送る。あっという間に見えなくなる。駄目だ、これでは。
これじゃ、終わる事は出来ない。追いかける。電車を走り出る。けれど、階段の途中、僕の手は掴まれた。
「行かないでください。先輩」
振り返れば乃安が、息を切らしてそこにいた。わざわざ階段を選ぶ人は少ない。でも人の目はそれなりに集めた。そんな事を気にするような人ではないけど。
「お願いですから。止まってください」
「ごめん、乃安。これだけはやらなければならない。これは、やらなければならないことなんだ」
捨てることでしか生きて行けなかった僕は、変わりたい。変わらなきゃ、だめだ。だって僕は捨て過ぎた。せめて少しは拾っていきたい。
「だから、乃安。行かせてくれ」
「だってそれじゃあ先輩は、また傷つく。短い間、見てきて、私はこんなに傷だらけの人……どうして、また傷つこうとするのですか!」
乃安の目は、堪えきれなかった感情で濡れていた。それでも手に込めた力を緩めることは無かった。目に力を宿し、その力は涙で曇ることは無かった。
「乃安さん。短い間でしっかりと相馬君を見ていたのですね。でも、そうなった相馬君はもう止まりません。見送る事しか私たちにはできません」
聞き慣れた陽菜の、人混みの中でもしっかりとわかるよく通る声。丁度乃安と僕の間に立つ。何の感情も浮かばない表情で、仲裁するように現れた。
「それでも、私は。陽菜先輩のように見送る事はできません。あの時、先輩が一人で出て行ったとき陽菜先輩の、見送る人の辛さを知ってしまった。帰って来た先輩の、見えない傷を知ってしまった。だから、もう。おかしいですか? 知り合ってからの時間が全てですか? 先輩を守りたいって思うのは、おかしいですか? ずっと言えなかった、私は、先輩が傷つく所を見たくないって思ってしまったんです。絶対に傷つく、そんな場所に送り出したくないです」
乃安の心からの声が溢れる。決して大きくない声、けれど、それでも体の中まで響く声だった。
最初に会った時、私はただ漠然と優しそうな人だなと思った。それから、この人は欲が少ない人だという印象も持った。
命令らしい命令もされず。世話のし甲斐が無い人だな、そう思いながらしばらく。
気がつかないは筈が無かった。私と陽菜先輩が、ちゃんと話し合える場を用意できるよう、気を使ってくれたこと。
そして私は気づいた、先輩は傷だらけだ。陽菜先輩もそんな先輩を見送る事しかできない。陽菜先輩にとって相馬先輩はご主人様、メイドは逆らえない。でも私なら、相馬先輩の正式なメイドでは無い私なら、止めることができる。でも、そんな私と相馬先輩の関係に名前を付ける事はできない。とてもあやふやな関係だ。そんな私が出過ぎた事なんて言える筈が無い。もっと強い関係が必要だ。
偶然が重なった。私は相馬先輩の隣に立つ。
極端だろうか? でも良い。そう思ってしまったのだから。
駅の階段に僕ら三人が取り残された。
誰も動けなかった。
「あっ、ようやく見つけた~。気がついたら三人ともいないんだもん。困っちゃう」
そんな気の抜けた声にも目を向けず、僕は目を伏せ、二人のメイドはにらみ合う。
「って、無視しないでよ~」
「陽菜先輩が間違っているとは思いません。もしかしたら正しいかもしれません。認めます、これは私の自分勝手な願望だって」
「立派です。それがわかっているのなら」
「でも、私は先輩のようにはいられません。自分の願望を押しとどめて、大好きな人の望みを全うさせるなんて。先輩は、愛しているから何も求めないのですか?」
「っ、私は……私は!」
「はい、そーこーまーでー。二人ともここは公共の場。どう見ても相馬くんを取り合う修羅場だよ。というわけで、学校行くよ」
ビシッとそう言って二人の手を取ってずんずんと歩き出す。
その背中を見送る。それは、ポケットに入れていたスマホが震えたから。
学校とは逆方向。三人に見つからないようこっそりと移動。あそこまで言ってくれた乃安には悪いとは思う。けれど、僕は、そうしなければならない。
あまり来たことが無い方向。そして知らない場所。廃屋なんてわざわざ来る人はいないだろう。ちゃんと靴を履いていなければ絶対怪我するような場所だ。
「君島さん」
「莉々で良いよ。昔みたいに」
「もう僕は昔の僕とは別人の気分だ」
「そうだね。あんた、もっと暗かったもん。……ここなら、あんたをどうこうしようとね。最悪見つからないかも」
「最悪と考えてくれるだけ嬉しいよ」
既に彼女の手にはナイフが握られていた。それはカッターでは無い。多分、確実に殺せる。
僕は静かに待った。僕がどうするかは決まっていた。彼女はきっとそうしてくれる。
君島さんの顔に緊張が走る。腰だめに構えたナイフに光が反射する。それがとても眩しく見えた。そうだ、それで良いんだ。僕の顔にはきっと笑みすらこぼれていただろう。
「あんた、異常よ」
「うん、今の僕はまともじゃないと思う」
そうして彼女は躊躇うことなく、そのまま僕に向かってきた。僕は動かなかった。