第九十九話 メイドと振り返る中学の思い出
学年に一人は、絶対に嫌われ者がいる。それは避けられないことだ。
その子も、雰囲気が不気味という理由で嫌われ者になった。部活もまた厄介なもので、あっという間に学校中にそれは伝播して、その子は二年生になる頃には学校全体で避けられる存在になった。
あぁ、そうだ。僕が学年で避けられていたのは腕っぷしだけじゃない、その子と関わるようになったからなのか。いや、人のせいにするつもりはない、それは僕が選んだことなのだから。僕の選択で引き起こされたことを誰かの責任にする、そこまでやってしまったら、それこそ僕は、あの凶刃と化したカッターを、避ける選択すら許されないだろう。
僕は知っている。彼女は嫌われるような人では無い事を。
じっくりと心を削るようにノートのページをめくる。
「夏樹さん、大丈夫ですか?」
「うん、相馬くんがあんなに思いつめてるのに、何かできるかなって思ってきてみたけど、駄目みたい。ここで見ているしかないなんてね」
「それは、私もですね。声をかける事すら憚られます」
乃安さんも夏樹さんも困り顔で相馬君の背中を見つめる。細く、引き締まっている背中には何か重い物がのしかかっているように見えた。
夕飯を食べることなく、ひたすらノートを読んでいる。声をかけても空返事。
「二人は休んでください。私が責任を持ちます」
「うん。お願いね」
「後は頼みます」
誰かが隣にいる。そのありがたみを教えてくれたのは、相馬君だった。教えてもらったことを、今お返ししよう。それだけが、今の私にできる事だった。
「相馬君、あの、少し休まれた方が」
「大丈夫」
リビングの隅では夏樹と乃安が眠っている。ノート五冊にびっしりと書かれた小説。一ページ程度の短編からノート半分に及ぶ量まで様々。僕の字で書かれたもの、別の誰かの字で書かれたもの。
ある小説は願いに見えた。ある小説は怨嗟に見えた。ある小説は諦観していた。
陽菜は盆を抱えてこっちを見つめている。
「陽菜も寝て良いよ」
「メイドは、ご主人様より先に寝ません。徹夜するなら私も一緒に起きています。さぁ、どうぞ、そう言うと思って濃い目で渋みが強いコーヒー用意しました」
「ありがとう」
四冊目、ここまでくると文章力も上がっている。ストーリーにも厚みが出て来る。一ページでは収まりきるような話は無くなり、どれもこれもそこそこの文章量になっていた。
それが全て読み終わる頃には時計は草木も眠る時間を指していた。横に座る陽菜は黙ってノートを読んでいた。
「大丈夫?」
「平気です。相馬君こそ、顔が青いですよ」
「自分が書いたって実感が無いから読めるけど、うん、キツイかな。焼き払いたいくらい」
「誤字誤用はひどいですけど、それでもストーリーはよく練られていると思いますけどね」
息を吐く。吐いた息に、僕はどんな感情を込めていたのだろう。いや、込めるほどのものを持っていない、それを実感してしまった。このノートの中には、僕に無い物、衝動が、願いが込められていた。
「ごめん、陽菜」
「唐突に謝られても困ります。私は休めないことで文句を言ったりしませんよ。怒っても、不快にも思っていません」
「そうじゃなくて。ごめん。僕は、やっぱり空っぽだった。そんな僕と、その、付き合ってもらってたなんて、陽菜に対して、申し訳なくて」
「あの、相馬君。少し立ってもらっても良いですか?」
「はい」
どんな罵倒も受けるつもりだった。だから僕は逃げも隠れもせず。どんと構えて陽菜の言葉を待った。
「良いですか相馬君。歯を食いしばってください」
そして陽菜は大きく振りかぶり、全力の拳を僕の頬に放った。避けるつもりも無かったから、見事にクリーンヒット。体は床に転がった。
「はぁ、良い機会です。結局うやむやになっていた飛び切り重い奴、しっかり貰ってもらいました。同じこと、乃安さんに言ったらどうなることやら」
「いたた、結構痛い」
「そりゃそうです。ほら、口の中見せてください。歯は折れてないですね。口の中、切ってない。とりあえず冷やしましょう」
「アフターケアがしっかりしているね」
「メイドクオリティです。……私が知っている相馬君は、私が出会ってからの相馬君です。そこに過去は関係ありません。私にとって大事なのは今の相馬君です。それに、相馬君から貰った物がそんな事で無価値になったりしません。ちゃんと、私の中で生きています。勝手に私の出会った相馬君を否定しないでください」
「……ありがとう」
こんな僕にも、こんなことを言ってくれる人がいる。肯定されるのは嬉しいけど怖い、でも、温かい。
五冊目のノートを読み終わった。不思議と落ち着いていた。今の僕と昔の僕は怖いほど別人、あぁ、そうだ。お互い、持っている物が違い過ぎる。
卒業アルバムを開いたとき、封筒が一つ零れ落ちた。
中身は手紙、便箋には一言だけ。嘘つきとあった。
「僕が吐いた嘘は、一つだけ。僕は、彼女に、自分は同じ学年だと言った。最初は勘違いだった。同じ学年だと思っていた、けれど、彼女が後輩とわかった時、今更遅かった。言い出せなかった。結局、卒業式で僕の名前が呼ばれて、初めて僕が先輩だと伝わった。彼女にとって唯一の友達だった僕、彼女はずっと一緒にいられると思っていた。僕は彼女から希望を奪った、多分、地獄の一年を提供したことになった。僕はこの記憶から逃げた」
僕は最低だ。
「彼女との出会いは、図書室だった。その子はいつも一人だった。その子はどうしてか、二年生の内から三年の範囲を勉強していた。それで三年生だと思った。数学の問題で詰まっていたようで、思わず声をかけてしまった。あの頃の僕は、まだ知らない誰かに声をかける程度の勇気はあってさ」
でも僕は、臆病になった。感情からの衝動は、誰かを傷つける。
「それから話すようになった。でもその子は、その、どうしてか学校中から避けられてるみたいで、僕も避けられるようになった。それは別に良いんだけど。君島さんとは結構楽しく過ごせたから」
話しかける勇気はあっても、勘違いを告白する勇気は無くて。
「小説を書いて交換するようになった。それは彼女が勉強している時、目の前で書いていたのに興味を持ったらしくて。君島さんも書くようになった。彼女が男子からいじめられているのを助けた事もあった。あの時は結構怒った。父さんが後で相手の保護者に謝りに行っていたよ。それのおかげで僕と君島さんに誰も近づかなくなった」
僕は馬鹿だ。途中から嘘が誰かを助けることがあると、大真面目に信じていた。
「ずっと一緒にいられるねと、君島さんは笑顔で言った。僕はそれに頷く事しかできなかった。そして卒業式、壇上から見えたよ。君島さんの顔が。それでも、僕は証書を受け取った。誰かに置いて行かれる辛さは、その時覚えていなくても、僕の中には刻まれていたはずなのに」
のうのうと、そんな僕は生きている。
気がつけば朝日は昇っていた。卒業アルバムの僕の写真、誰だこいつ、それが率直な感想だった。
「相馬君のやってしまった事は、擁護できません。けれど、過去の否定は今の否定にならない、それだけは覚えておいてください」
陽菜はそう言って台所に行った。カップの中のコーヒーはすっかり冷めていた。
きっと、許してはくれないだろう、君島さんは。僕は殺されても文句は言えない。彼女が一年、どんな風に過ごしてきたのかはわからないけど。
四時か。気がつけば夏樹の横にいたはずの乃安がいない。唐突に流れ込んできた、夏の匂いが残る空気、どこかの窓が開き、家の中に朝を告げようとしている。
そっか、どんなに昔を否定したころで、朝は来るんだもんな。