第九十八話 メイドと迎える秋の始まり。
「それじゃあ先輩、また放課後に」
手を上げて駆けていく後輩を見送って、僕は教室への道を歩き出す。休み時間、こっそり連絡を取り合って、二人で会う。新学期が始まってからの新しい習慣だった。
制服に残る乃安の香り。壁にもたれかかり少しの間余韻に浸る。
「相馬君、そろそろ先生が来ます」
「陽菜? 見てたの?」
「いえ、そろそろかと思いまして迎えに来ました」
「ありがとう。じゃあ、戻ろうか」
連れ立って戻る時、陽菜の定位置が、僕の一歩後ろに戻っていることに気がついた。
その事を僕が指摘する、そんな権利は無い。
次の授業が終われば家に帰る。そのために乃安と合流する。陽菜は気を使っているのか、既に帰っている。校門の前、意味も無くスマホを弄っていると、昇降口から走って来る姿に気づく。
「お待たせしました。帰りましょう」
学校から離れれば自然と手が繋がれる。絵に描いたような高校生カップルがそこにはあった。
アパートに着いて、そのままソファに倒れ込む。
「駄目だなぁ、私」
抱き枕を抱きしめて、すっかり惚気ている私に呆れる。遂には、私は言われてしまった。
「日暮先輩に会わせて。乃安ちゃんがそんな風になるような人だとは思えない」
クラスメイトの君島莉々。相馬先輩の中学の頃の後輩。別に勝手に会いに行けば良いと思うが、でも嫌な予感も同時にする。
「相馬先輩の意思を確認しないと」
先輩の連絡先を呼び出し、メッセージを打つ。どうしてさっき直接言わなかったのだろう。あぁ、思い出してしまったからだ。夏休み、先輩に直接尋ねた時とあの、困ったような顔を。
そして、それは顔を見ていなくても思い出されて、どうしても送信ボタンを押せなかった。
「いっぱい困らせて、困らせたくないとか、我ながらわけわからないことしてますね」
結局、スマホを充電器に繋いで掛け布団を被る。このまま寝よう。
「あっ、お風呂入らないと」
いそいそとパジャマを探した。
その日も、休み時間、人があまり来ない廊下で二人で会う。どうしてこの習慣ができたのか。それは思ったから。学校での乃安を知らない事に気がついたからだ。
「先輩、温かいですね」
「まだ夏の気温だけど、暑くないの?」
「それは野暮な質問です。くっついていたいのですから良いじゃないですか」
そして一度、胸に顔を埋めると、パッと乃安は離れる。
「そろそろ時間です。行きますね」
走っていく乃安を見送って、教室に戻ろうかと足を階段の方に向ける。
「待ちなさいよ」
下の階から上がって来る足音。長い髪をそのまま下ろし、階段に足をかけたまま動かない僕を睨みつける。
「日暮相馬。あなたを殺しに来た」
「は?」
カチカチカチという音が聞こえ次の瞬間、喉元に向かってカッターナイフが突き出される。
「ようやく、ようやく、あんたを」
動きは単調。けれど、明らかな殺意が、カッターナイフを圧倒されるまでの凶刃へと仕上げる。
「そこまでです」
振り上げられたナイフは何者かに奪われる。そして少女の体は床に叩きつけられた。
「相馬君、怪我は?」
「無いけど……」
倒れた体に足を乗せ、陽菜は奪ったカッターナイフを僕に手渡す。
「あなたは何者ですか? 目的は」
「見ればわかるでしょ。目的はそいつを殺す事。何者なのかはそいつに聞けばわかるでしょ」
「じゃあ、聞くので今は手を引いてもらっても良いですか?」
そう言って足をどけ、立つように促す。
「……そうね、その様子だと、覚えていないみたいだし、覚えていないあんたを殺しても悲しいだけ。今は手を引く」
そう言って戻って行く。僕が通報したり先生に言いつけるリスクは考えていない。いや、もしそうすればなりふり構わない、そんな危うさがあった。
「ありがとう、陽菜」
「相馬君が女の子相手に本気出せないのは知っていますから」
「例外はあるよ。でも助かった。確かに、あの子には本気出せない」
理由の無い罪悪感。頭の奥が疼く。痛い。
「相馬君!?」
「くっ」
耳鳴りがする、視界はフラッシュでも焚いたかのようだ。吐き気がする。
「ははっ、あ、っく」
「大丈夫ですか? 聞こえますか」
平衡感覚は何処に行ったのだろう。立っているのもままならない。
「ごめん」
「相馬君、今すぐ保健室に。大丈夫です。すぐに良くなりますから」
それが僕の最後に聞いた声だった。
記憶の矛盾、それに気がついたことが無かったわけではなかった。ただ、気がついてもそれを繋ぎ合わせる事が出来ても、それは知識で止まり、実感として思い出にすることができるわけでは無かった。
どんなに嫌な思い出でも、僕が知る限り、ちょくちょく思い出しては苦々しく思うらしい。それは教訓として脳が覚えているのだろう。また、それを糧にして次の機会を虎視眈々と狙うのだろう。
感情表現が下手と言われたことがある。そりゃそうだ。人間関係の経験をほとんど封印してしまったのだから。
僕は嫌な記憶から逃げるのがとても上手らしい。
傷つき慣れるなんてこと、あるらしいけど僕には無理だ。傷つくのが嫌な僕は逃げ回る。殻に籠る。心地の良い思い出の中で、漂うように生きる。
それが僕の今までやってきたことなんだ。さんざん、みんなの過去に踏み込んでおいて、何て無様な。
僕は、彼女に、多分、君島莉々。その子に何をしたというのだろう、
それが思い出せない、それが僕の浅さの証明だ。
知らない天井、ではない。むしろ目が覚めた時、天井を眺めていることの方が少ない。それでも、この年季の入った汚れは学校の天井だという事はわかる。
前髪が妙に刺さるような感覚。そういえば伸びたな。起き上がる。頭の痛みは治まっていた。吐き気も無い。さっきの出来事が悪い夢だったかのような。でもそれは、清潔感のある白いシーツにくるまっている自分自身が否定していた。
「先輩、大丈夫ですか? もう放課後ですよ」
「相馬君、大丈夫ですか? 安心してください、先生には事情、説明しました」
「ヤッホー相馬くん。とりあえずはい、飲み物。奢りだよ。桐野君の」
喉が渇いていた。汗が気持ち悪い。でもそれよりも、枕の丁度反対側の位置に座るその人物が何よりも恐ろしかった。
「君島、さん」
「そう、名前は思い出したんだ。私は保健委員だからここにいるだけ。別に他意は無い。起きるならさっさと起きなさい。そろそろ先生戻って来るから、私はこれで」
立ち上がる。履き慣れた上履き。少しふらつくような。
「今すぐ、家に、帰らないと」
「えっ?」
ベッドのわきには僕の鞄、陽菜の事だ。ちゃんと準備されている。
「あっ、相馬君。待ってください」
後ろから三人分の足音。どうせ先生が来たことろで迎えがどうのとかそんなものだろう。迎えに来てくれるような親は家にいない。
それは、僕が中学卒業してから開けていない場所、勉強机を買うとついてくることが多い鍵のある引き出し。その中にある。
電車が遅い。まだ来ないのか。大した距離走っていないのに息が荒い。
「相馬君! ……はぁ、追いつきました。どうしたのですか急に」
陽菜が、ものすごく良いフォームで走って来るのが見えた。
「見なきゃ。僕の、やってしまった事を。僕の嘘を」
時間にして三分。乃安が布良さんと共に入って来る。
「ありがとう乃安ちゃん」
「はい。追いつけました」
アナウンスが電車の訪れを告げ、乗客が乗るとすぐに発車する。
「君島莉々。相馬君はそう呼びましたよね」
「うん。その子の事を思い出すために、僕は早く家に帰らないと」
さっきから同じことしか言っていない。でも、今はそれしか浮かばない。
家に帰る。鍵、どこに行ってしまったかな。
「それならこちらに、まとめておきました」
「ありがとう」
鍵はすんなりと開いた。その中にはノートが数冊。そして、卒業アルバムが入っていた。