第九十六話 メイドと迎える夏の終わり。
「それじゃあ、次は、冬だと思う」
「あぁ、またおいで」
電車はゆっくり動き出した。振られる手に振り返す。だんだん遠ざかっていく温泉街、朝の光に照らされてキラキラ煌めいているように見えた。
そんな風景をぼんやりと眺める。今出発すれば昼頃には着くだろう。結局言えていない。目の前で同じように外の風景をぼんやりと眺める陽菜に。何て言うべきなのだろう。言うべきだというのはわかるんだ。言わなければ、それは裏切りだ。でも、どうしてなのだろう、言いたくないんだ。
すっかりうじうじ野郎になった僕を、電車は容赦なく日常へと送り届けた。先に僕らが下りた。夏樹と京介はまだ乗っていなければならない。
「それじゃあ、また後で」
「うん、夕方だね」
「おう」
電車から降りる頃にはすっかり太陽も昇りきり、容赦なく降り注ぐ日光、汗がにじみ出る。
「さぁ、帰って準備ですよ先輩。お祭りです」
「うん。行こうか」
今日はお祭りだ。町中の飾りつけは既に終わり、出店もちらほらと見られた。
「陽菜、どうかした?」
「えっ、あぁ、いえ。何でもありません」
「? そう、じゃあ、帰ろうか。浴衣着るのでしょう」
「はい、今行きます」
カラカラとトランクケースが転がる。アスファルトが溶けそうな気がする。根拠は無い。ただの感覚的な話だ。きっとマンホールで肉が焼ける。
家に着いて、扉を開ける。むわっと感じる熱気。家は蒸し風呂だった。
「窓を開けましょう。私二階行ってきます」
「はい、私は一階を」
「じゃあ、僕は扇風機を」
まぁ、窓を開けても蒸し蒸しした空気しか入ってこないとは思うが。それでも空気を入れ替えるのは必要だろう。三日間、誰も使わなかった家は今日に追いついた。
「掃除をしたら着付けです。急ぎますよ、乃安さん」
「はい、先輩!」
二人のメイドは手早く準備をし、作業を始める。僕は部屋の隅でその光景をぼんやりと眺める。
付き合い始めても特に乃安の態度に変化は無い。いつも通りだ。僕はどう接すれば良いのだろうと悩んでいたというのに。
僕は正しいのかという悩みはもう遅い。そして悩んではいけない。悩むくらいならしなければ良い。
犯罪とか、やるまで悩むのはわかる。しかし、やってから本当にやって良かったのかと悩むのは違うであろう。やったならやったことに責任を持てという話だ。
だというのに、僕は責任をもって陽菜に言うべきなのに、言おうとすると、口が固まり喉が締まる。息ができなくなる。
「先輩先輩、お昼ご飯、食べますか? そうめんですけど」
「あ、あぁ、食べる」
乃安は言った、誰かの求める自分になることも必要だと。じゃあ、今の僕は何を求められているのだろう。僕はどんな自分であれば良いのだろう。
食卓の上は色とりどりの麺に彩られていた。
父さんの持っている書斎、久々に入ったがきちんと掃除がされていた。陽菜がやってくれているのを何回も見ていたからわかってはいた。
色々な国の言語で書かれている本、英書くらいなら読めるけど、それ以外はからっきしだ。
そのうちの一冊を手に取りぱらぱらとめくるけど、内容は頭に入ってこなかった。いつだったか、本を開いて内容が頭に入ってこない時は、心が不健康だと父さんに言われた。誰かの心からの言葉が入り込む余地が無い、そんな時は本なんて読むなと。
それでも、本に囲まれていると落ち着く。紙の匂いが肺を満たす。
僕は、陽菜を、乃安を。
「相馬君、ここにいらしたのですね」
「うん。どうかした?」
「いえ、姿が見られなかったので。そろそろ準備をしてください」
「うん、わかった」
財布と、スマホと。出店で遊んで欲しいし。去年、楽しんでもらえたし。乃安もいるし。
京介と夏樹とは駅で合流する。みんなで花火を見る。
隣の部屋から陽菜と乃安が着付けをする声が聞こえる。
「僕も準備しよ」
陽の光があまり入らないこの部屋の床は少し冷たい。それでも今の僕にはここが一番居心地が良い。
「さぁ、行きましょう」
「はい、陽菜先輩、草履をどうぞ」
「はい、ありがとうございます」
浴衣に着替えた二人、綺麗だ。筆舌尽くしがたいとはこのことなのだろうか。
「どうしたのですか? 相馬君、ぼんやりとして」
「あ、あぁ、うん。ごめん。行こうか」
むわっと感じる蒸し暑さ。空は茜色。二人のメイドに先導されて、浮かれた雰囲気の町を歩く。相変わらず、僕は浴衣を着なかった。昔から苦手だ、あの手の服は。
「今年こそはあの射的に勝ちます」
あぁ、覚えていたんだ。まぁ、きっと陽菜なら反省を活かして大物を取ってくれるだろう。自然と、足が早まる。
駅まで向かう道、人垣と共に出店が現れる。賑やかな音楽が流れ、人々の熱気で気温がさらに上がる。
ふと目に入ったお店。そこはやけに子どもに人気であった。
「綿あめ食べる?」
「綿あめですか?」
「そう、食べてみない?」
袋に入っているタイプではない、割り箸にまとわりついたタイプ。魅惑の白いふわふわ。どうにか並んで手に入れ、二人に差し出す。それを、食べづらそうに食べる二人。確かに、少し食べづらい。
「ふわふわですね。それに懐かしいです」
「乃安さん、口についてますよ。そういえば、一回作りましたよね、一緒に」
「あぁ、あの時は。はい、陽菜先輩にねだってしまいましたね」
ソースが焦げる良い匂いに、唐揚げの誘惑。ハイカロリーのオンパレード。お祭り価格とはいえ、そんなこと、こんな浮かれた雰囲気では余程冷めていないと気づかないだろう。
「おーい、相馬くんー、陽菜ちゃーん」
人垣の向こう、大声を出し慣れて無さそうな声。どうにかその方向に歩く。少しひらけた場所、数時間前
振りの再会。
「なんだよ、また普段着かよ。相馬」
「苦手なもので」
花火まで時間はある。 少しは遊んで行こう。
というわけで、何故か五人、黙々と板菓子から針や歯ブラシを駆使しして絵を切り出そうと奮闘している。くっ、力加減が難しい。
「よし、できた」
「えっ、早っ」
ぱきっと言う不吉な音が聞こえた。京介が意気揚々と持って行く。おっ、合格か。
「器用だな」
「意外だろ」
ちなみに、僕の掘っていた船は、帆を削っている時に折れた。
レジャーシートを敷いて、屋台で買った食べ物を並べる。去年、京介達が見ていたという場所。早めに来た甲斐があった。
「むっ、焼きそばが美味い」
「マジで。僕は唐揚げを推すけど」
そんな時だった、口笛のような甲高い音、そして、パンっと弾けた。空に大輪の花が咲く。それが開幕の合図だった。
みんなの目がそちらに向けられる。そんな隙を突くように、乃安するりと隣に現れる。
「先輩」
耳元で囁かれた声、自然と僕の顔がそちらに向けられる。
「こっち、向きましたね」
視界が乃安だけになる。いたずらっ子な目がぼくの目を捉える。逃げられない、石にでもなった気分だ。
時が止まったような気がした。優しく唇が合わせられる。触れるだけの、優しく奪われる。
そして、何事も無かったかのように花火を眺める。僕も一応は花火の方に目を向けるが、それでも、あの一瞬が頭から離れない。ほんの短い時間なのに、唇に熱が残っている。
脳がしびれたように、周りの出来事が遠くに感じる。
そんな僕を取り残すように、夏の終わりを告げる花は夜空を彩った。
祭りの後の静けさ、寂しさ。いつも通りの時間、私は家に帰るべく玄関に向かった。
「それでは、また明日来ますね」
「待ってください乃安さん。今日は泊っていってはどうですか?」
「えっ?」
「少し、お話ししませんか?」
陽菜先輩は、努めて感情を出さないようにしている時の無表情だった。いつもの自然な無表情では無い。
私の思っている通りの話題か、それとも、全く別の話題か。
「わかりました。パジャマパーティーですね」
いつでも泊まれるよう、陽菜先輩の部屋に置いてあるパジャマを取りに行った。