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肆 神様はお戯れ

 

 

 

 若女将としての九十九の仕事は、お客様のおもてなしである。


 お客様の滞在目的は多様。

 天照のように享楽にゆっくりと興じるため滞在する神もいれば、温泉本来の効果である神気を養うために訪れる神もいる。単に日本という国を観光するため、わざわざ外国から訪問する神もいるくらいだ。

 概ね、人間の旅行目的と大差ない。


 これから夕食を運ぶ部屋のお客様も、観光目的の宿泊だ。

 今日も朝早くから出掛けて、夫婦仲良く足湯巡りをしたらしい。温泉街には無料の足湯を楽しめる場所がいくつもあるので、昨日、案内しておいたのだ。


「神様って、自由よね」


 鶯色の着物を揺らして客室へ。耳元でかんざしが揺れる。

 今は夕食時だ。コマや他の仲居たちも忙しく働いている。

 コマなどの子狐はシロが連れている眷属の類だが、従業員の多くは湯築家に所縁(ゆかり)のある人間だ。ほとんど親戚なので、まさしく家族経営の旅館とも言える。


「失礼致します。お料理をお持ちしました」


 障子を少しだけ開き、中に声をかける。

 中から「良い、入るがいい」という返答を得てから、九十九は自分が通れる分だけ障子を開けた。一旦床に置いていた膳を持ち上げ、敷居を踏まないように室内へと。再び畳の上に膳を置き、障子を閉めた。

 一連の所作は身についている。

 九十九は座椅子に座って待っているお客様に向き直って頭を下げた。


「本日のお料理でございます。ゼウス様、ヘラ様」


 ゆっくりと顔を上げて、ニコリと笑う。


「うむ。いつもながら、丁度良い頃合いである。褒めて遣わそう」


 ギリシャ神話の主神、全知全能の天空神ゼウス。

 オリュンポス十二神をはじめとする神々の王であり、天空の支配者である。目の前のお客様は、その名に恥じない威風堂々の顔つきで、まっすぐ九十九を眺めていた。

 見目は壮年の男性で、宿が用意した浴衣から覗く手足は非常に逞しい。多くのギリシャ彫刻が描いたゼウスの印象と然程違いはない印象を受ける。


 威圧感にも似た独特の神々しさ。

 神を統べる王たる空気に、九十九も流石に息を呑みそうだった。

 ……ゼウスの隣で、酒瓶を抱えてヘナリと笑うシロが視界に入っていなければ。


 こいつ、またお客様の部屋で飲んでやがるわ!


 毒突きそうになった言葉をグッと呑み込んで、九十九はニッコリと営業スマイルを貼り付けた。


「やはり、この国の酒は美味である。水が美しい国というのは、良いものだな」

「これは特に儂のお気に入りなのだ……あ、こっちの油揚げも美味いぞ」


 お客様が相手だと言うのに、シロは馴れ馴れしく手にした油揚げも勧めている。

 お稲荷様と言えば、油揚げ。

 シロも例に漏れず、油揚げを好物として酒のつまみにしていた。地元名産の品で、サクッとした食感の後にフワッとした軽やかさを感じられるのが特徴で、普通はみそ汁や炊き込みご飯、鍋物などに用いられる。


「いや、そのまま食べても大して味がしないではないか」

「そうか? 油の加減が丁度良くて、儂は気に入っているのだがな」

「手が汚れる」

「そうか?」


 スナック菓子かなにかのようにモグモグと油揚げを口にして、シロは幸せそうに目を細めた。油のついた指先を、舌で器用に舐める姿は実に幸せそうだ。


「余は、アブラアゲなどよりも……」


 油揚げをそのまま食べるシロに辟易したように、ゼウスは視線を逸らした。

 そして、なにやら興味深そうに九十九のことを眺めはじめる。


「うむ、良い。いつ見ても美しい娘である。是非、余の愛じ――」

「旦那様。まさか、『是非、余の愛人にしたい』と、仰るつもりじゃありませんよね?」


 場の空気が凍りつくような女性の声が聞こえた。

 視線を動かすと、縁側からこちらを覗く女性の影。


 容姿を一言で形容してしまえば、美しい。

 湯築屋の青い浴衣からこぼれんばかりの豊かな胸の下で腕を組む様は、まさに美の化身。この世のどんな宝物も彼女の前では石ころと言っても過言ではない。艶めかしい色香と、母のような強い包容力を備えた絶世の美女だ。


 しかし、美しい顔に浮かんでいるのは魅惑の微笑みではない。

 憤怒の一言では言い表せぬ形相。豊かな黒い髪は乱れる神気に、蛇のように波打ち、ゆらゆらと揺れている。

 女神ヘラ。ギリシャ神話最高位の女神であり、ゼウスの妻だ。


「や、やだなぁ、ハニー……余は『是非、余の愛人にしたいくらい美しいが、残念なことに我が愛は全て妻に捧げられているのだ。勿体ない』と、言おうとしたのだよ。早とちりは良くない。嗚呼、良くないとも!」


 ゼウスは慌てた様子で、取り繕うように早口で述べた。先ほどまでの威厳など消し飛んで、口調も甘いものになっている。額には脂汗が滲んでいた。


「あら……そうなの? ダーリン? それは、ごめんなさいね。てっきり、また浮気でも考えているのかと思いましたわ」

「まさか! ハニーが怖――愛しいハニーがいるのに、浮気など出来るはずもなかろう!」


 ゼウスの必死の弁明に、ヘラの乱れた神気がおさまっていく。そして、甘ったるい口調でゼウスの腕に飛びついた。

 なんとも幸せそうな表情をするヘラを見て、ゼウスが安堵で胸を撫でおろす。


「そうよね。嗚呼、勘違いをしてしまって申し訳ありません。あと数秒遅かったら、その娘を醜い豚に変えていましたわ」


 ぞっとするような言葉を聞いて、九十九の笑みから血の気が引いた。危うく、夫婦喧嘩に巻き込まれるところだった。

 ヘラは嫉妬深い女神でもある。浮気性のゼウスを監視し、愛人に次々と鉄槌を下している。

 今回の宿泊も最初はゼウス一人の予定であったが、急遽、二人となった。要するに、恐妻から逃げて温泉を満喫しようと思ったが、見つかってしまったという具合だと推測される。


「儂は九十九なら、豚であっても可愛いと思うぞ」


 シロが油揚げを口に入れながら、のんきに笑う。

 そこは、「妻を豚にするなど、許せぬ!」とか言って怒っても良いところでは? 神様の感覚が全然わからない。


「さて、ゼウス様。お料理が冷めてしまいます」


 さておき、夕食だ。

 温かいうちに食べてもらわなければ、せっかくメニューを選んだのに意味がない。

 気を取り直して、九十九はお膳をテーブルに並べる。


「ほお。今日の晩餐も、また美味そうである」


 九十九が説明する前に、ゼウスは割り箸を取る。

 常連客なので、箸の扱いにも慣れたものだ。和食も一通り堪能済みである。

 ゼウスの宿泊目的は観光だ。とにかく、「ここでしか味わえないもの」を毎回所望していた。

 手早く箸を割って、料理を一口。


「おお! これはまだ食したことがない味だ! この前に食べたカマボコと言うものに近い気もするが……魚の旨みが詰まっておる。プリッとした食感も面白みがあって良いが、歯ごたえもあって良いな!」

「今、召し上がって頂いたのは『じゃこ天』で、魚を骨と皮ごとすり潰して揚げた練り物です。この辺りの地域では、一般的に食べられているものですよ。お口に合ってよかったです」


 九十九の説明を聞きながら、ゼウスは美味しそうに頷いている。


「こちらは、地元の牛のステーキです。火をつけますから、お好みの焼き加減でどうぞ。お刺身は鯛と甘エビ、ヒラメです。茶碗蒸し、若竹煮、きんぴら、山菜のお浸し、鯛めしと……」

「タイメシ? 若女将よ、タイメシとはタキコミゴハンではなかったのか? 昨日も食したはず」


 ゼウスが不思議そうに首を傾げる。ヘラの方も、同じ認識だったようで、紹介された「鯛めし」を見つめている。

 丼に盛られた白いご飯と、薄造りの鯛。出汁の中に浮かんだ生卵。そして、薬味が少々。

 ゼウスが昨日食べた「鯛の炊き込みご飯」とは違った品が並んでいた。


「食べ方をご説明します」


 ゼウスが食いついたのを認めて、九十九はニヤリと笑う。しかし、表情は飽くまで涼やかに。


「まず、こちらの生卵を出汁と一緒に混ぜまして、そこに鯛のお刺身を加えます」


 九十九が動作を交えながら説明すると、ゼウスがその通りに卵をかき混ぜる。ヘラも同じように真似をした。

 溶いた卵が透き通るような鯛の刺身が絡まりつくと、喉が鳴る音が聞こえた。

 醤油が利いた出汁の匂いがふわりと鼻腔へあがり、食欲を刺激する。とろとろと、薄い鯛が卵の中を泳いでいるようだ。


「お好みで薬味もどうぞ」


 そのまま食べてしまいそうになっているゼウスを制するように、九十九は薬味を示した。ゼウスは苦手なワサビを避けて、ネギと海苔をたっぷりと入れた。ヘラの方は逆に、ワサビをたっぷり溶かしている。


「出来上がりましたら、ご飯にかけて召し上がってください。お匙を使うと、綺麗に食べられますよ」


 炊き立ての白いご飯が出汁と卵でザブザブに浸る。

 その上で、卵を纏った鯛が輝いていた。


 一般的な鯛めしは鯛の炊き込みご飯だが、これは郷土料理だ。いつも「初めてのもの」と希望されるので悩んだが、正解のようだ。

 最初は和食を出せば満足してくれていたが、次第にそうもいかなくなったので、ご当地グルメで勝負するようになった。


「美味い! 癖のない生魚の食感も良いが、卵と汁の味わいが実に絶妙。飲むように掻き込めるせいか、手が止まらなくなるな。ヨーロッパだと、生の魚も卵もあまり食べられないが、ここはなにもかもが新鮮でいつ来ても楽しめる」


 新鮮な卵や魚が味わえるのは、現代社会の成せる業だ。特に、この地域は内海から獲れる新鮮な魚が多く流通している。魚を売りにする飲食店は数多い。

 欧州では生食の魚はあまり出回らないので、尚更、美味しく感じるのだろう。


「お気に召して頂いて、嬉しいです」


 九十九は選んだ甲斐があったと素直に喜んだ。

 すると、ゼウスは下がろうとする九十九の手を自然な動作で引き寄せる。


「若女将。是非とも、余と混浴にでも――」

「おっと、すまぬ。ゼウス殿……生憎と、油揚げはやれても、妻はやれぬ」


 軽やかに。

 いつの間にか、奪われるように九十九の身体はゼウスから引き離され、シロの腕に抱きかかえられていた。

 唐突なお姫様抱っこに、九十九はカァッと顔が赤くなってしまう。視界の端で、ヘラが九十九を豚に変えようと構えていたのが見えたような気がしたが、必死で無視した。


「では、失礼。奥方とくつろがれよ」


 九十九を抱えたまま、シロは身を翻した。

 周囲の景色が揺れて、視界がぼんやりしたと思うと、そこはゼウスの客室ではなかった。

 瞬時に庭の池まで移動していると気づいて、九十九はパチパチと瞬きをする。神気を使ったのだと理解した。

 シロや客の神様が神気を使うたびに、やはり「不思議」だと感じてしまう。なにもかもが日常の出来事であるのに、こればかりは慣れそうにない。


「シ、シロ様……そろそろ、降ろしてくれますか?」

白足袋(しろたび)が汚れるし、今日の地は冷える。このまま儂が抱えていた方が良いと思うぞ?」


 九十九の提案などアッサリ却下して、シロは唇に笑みを浮かべた。

 薄暗い黄昏の景色に漂う桜の花弁が、シロの妖艶さをいっそう引き立てる。


「なにも、こんな退室の仕方しなくても、よかったじゃないですか……な、なんか、恥ずかしい」

「何故だ。夫婦(めおと)なのに」

「その前に、わたしはまだ未成年で! 高校生で! その……!」

「一昔前なら、十五にもなれば立派な女だったぞ」

「い、今は今なの! 昔と一緒にしないでください! 法律だって違うの!」

「最近の女子(おなご)は経験が早いとテレビで言っていたのだがなぁ?」

「個人差! 個人差を主張しますっ! というか、テレビで変なこと覚えすぎです!」


 ああ言えば、こう言う。

 こちらをからかっているのだろう。シロは楽しそうに笑いながら、必死になる九十九の顔を覗き見ている。


「まあ、神気をぶつけ合って、更地にするよりはマシだろうよ」


 サラリと言いながら、シロは旅館の方へと歩きはじめる。


「もしかして……シロ様、怒ってました?」

「当たり前だ。妻が他の男に触れられて、怒らぬはずがない。ヘラ殿と同じ気持ちぞ。もう少しで、狐火でもぶつけてやるところであったが、留まってやった」


 そんなことをすれば、タダでは済まない。相手はギリシャ神話の最高神だ。怒らせて本気で殴り合えば、旅館が更地になるどころの話ではないだろう。


「いや、でも、流石に一方的にやられるんじゃ……格が違うし」

「なにを。相討ちには、持っていけるぞ? 国ごと消し飛ぶだろうが」

「へあ!? やめて!? そこまでするのは、やめてください!? それに、お客様に対してシロ様は不干渉と、湯築屋が出来たときからのお約束です!」

「無論、忘れてはおらぬよ。客である以上、丁重に持て成す。だが、狼藉者は客とは呼ぶまいよ」

「いや、ホントやめてください」


 冗談なのか本気なのか。少なくとも、九十九には冗談であるようには思えず、慌てて声を上げてしまう。

 神様って、格に関わらず強さが一律なのかな? シロのせいで、イマイチ力関係を理解出来ない。


 ふと、桜の花弁が目の前に舞い込んでくる。

 九十九が不意に手を伸ばすと、薄紅の花弁は吸い込まれるように手の上へとおさまった。動いたせいか、シロは軽く九十九を抱え直す。

 シロの懐に顔を寄せると、ほのかに甘い香りがくすぐる。好物の油揚げの匂いだ。


「嗚呼……なんということだ」

「なんですか?」


 酷く嘆かわしそうにシロが声を発する。

 九十九が見上げると、シロは琥珀色の瞳に哀の色を浮かべて眉を下げた。


「部屋に酒と油揚げを置いてきてしまった」

「あ、はい」


 あとで膳を下げるときに、回収した。

 

 

 

・油揚げ→松山あげ

・鯛めし→宇和島風

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