序 湯築屋へ、いらっしゃいませ!
カランコロン。
古き温泉の街に佇む、お宿が一軒ありまして。
元はと言えば、傷を癒す神の湯とされた泉。
数百年の時を経た現代では、この温泉街も立派な観光名所である。外国人が集まる古都や首都ほどではないものの、近年では映画のモチーフやら、ドラマの舞台やらで、ぼちぼち注目されている。
しかし、このお宿。
そんな観光地の一角にして、客入りがほとんどないという。
木造平屋の外観はそれなりに風情があるが地味。看板も簡単なもので、暖簾には宿の名前である「湯築屋」とだけある。
暖簾を潜る客がいないのに、温泉街で宿屋を経営して行けるなど、至極不思議なことだった。
でも、暖簾を潜った客は、その意味をきっと理解するでしょう。
そこに足を踏み入れることが出来るお客様であるならば。
「えー。ゆず、今日も家の手伝いー?」
高めの声に不満をたっぷり乗せられてしまった。
毎回誘ってくれる学友に対して申し訳ないと思いつつ、湯築九十九はヘタレた笑みを浮かべながら振り返る。
うなじでポニーテールの先がクルンと跳ねた。
「ごめんね。一応、バイト代貰ってるから」
「ゆーて、実家の手伝いなんやけん、いろいろ言ってサボればええんよ。君は奴隷かね、奴隷」
「そんな大袈裟な。それなりに楽しいから良いの」
学生カバンを振りながら、九十九はヘラリと笑ってみせた。
とは言え、毎日放課後を実家の手伝いに拘束されてしまう女子高生は、確かに奴隷の類かもしれない。例えが上手いな、と九十九は内心で友人――麻生京を称賛しておく。
「どーせ、客が来ない潰れかけの旅館のくせに」
「だから、頑張らなきゃねぇ?」
「まあ、いっか。スタバ行くけん、ゆずの好きなスコーンをお届けしてやろう」
「やったね! 奴隷最高!」
「調子乗んな。画像に決まっておろう」
「ええええええ!」
京は九十九にデコピンしながら、「それじゃ」と手を振った。
その背を見送って、九十九も軽く手を振る。
「バイトかぁ」
回れ右で家路につきながら、九十九は京に対してついた嘘を口の中で転がした。
女子高生が学業の傍ら働くので便宜上、そのような言葉を選んだが、どうもしっくり来ない気がしている。いや、ちゃんと親から雇われているので、アルバイトであるとも言えるのだが。
学校を出ると、路面電車の駅。
ちょうど、一両編成の箱のような電車が停まっていたので、九十九は急いで駆けた。首の辺りでポニーテールがピョンッピョンッと跳ね、息も合わせて切れる。
なんとか乗り込むと、中は学生だらけ。放課後なので当り前かと、一息ついて吊革につかまった。
今日の電車はオレンジ色の古い車両だ。革靴で歩いて、木の張られた床をコンコンと鳴らす。
路面電車の窓には城下町の風情漂う景色、と言えば聞こえは良いが、正直なところ九十九にとっては慣れ親しんだ日常の光景だ。
学校を後にして、病院前を通過。カーブを曲がって大通りに出たら、そのまま温泉街へ。
いつものコース。
九十九にとったら、ありふれた日常。
そう、なにもかも。
家の敷居を跨いだ先も。
「おかえりなさいませ、若女将」
桜咲く庭へと通じる暖簾を潜る。
そこで出迎えたのは、品の良い仲居さん――の姿をした子狐。
「ただいま、コマ」
九十九は当たり前のように笑って、小さな狐を撫でた。
橙の着物を着て、二本の足でチョンと立つ白い子狐は嬉しそうに大きくてフサフサの尻尾を犬のように揺らした。
目の前に建つのは、塀の外から見えていた地味な木造平屋の旅館――ではなく、三階建ての大きくて古い館であった。
純和風というよりは、明治時代のような近代和風建築。瓦屋根の木造でありながら、窓には色ガラスが嵌められ、中の明かりがぼんやりと光って見える。
外からは一本しか見えなかったが、庭には無数の桜が咲き誇り、旅館の建物を囲むように巡らされた池にピンクの花筏を作っていた。
塀の外側にあるはずの家やビルの類は一切見えず、空は藍色の黄昏に沈んでいる。
人によっては、趣のある光景だと讃えるかもしれない。
けれども、残念ながら九十九にとっては、これもありふれた日常でしかなかった。
「今日も仕事、がんばろっか」
「はいっ! 若女将!」
九十九が笑うと、コマも嬉しそうに頷く。
ここは旅館「湯築屋」。
暖簾を潜った先は、結界。この世とは切り離された異界である。
そして、訪れるお客様は人ではない。
お客様は、「神様」なのである。
舞台のモデルは松山道後。
路面電車にはSL風の「坊っちゃん列車」なども。郊外電車と路面電車が交差して、電車が電車待ちをするという鉄オタさんに人気の写真スポットもあったりするよ。