どろん
焦げ茶色に染まったセミロングの髪を一つに束ねた女は、己の住むアパートへと続く、街灯と月明かりのみに照らされた路を進む。
女一人で歩むには、あまりにも危険な路。
にも拘らず、怯える様子もなく女はただただ無表情に歩を進める。
と、街灯の明かりが届かない、細い細い路地裏から、何かが揺らめく気配が立った。
ぴたっと、女の足が止まる。
その視線が注がれる闇の中に、ゆらり、仄白い光が現れた。
それは徐々に女の方へと近付いて来る。だがしかし、その場にいる人間は女のみ。──それは明らかに異様な光景だった。
『……ぃ……。……る、……し、い。……』
動かぬ女に近付くそれから、何か、音が聞こえる。
それは距離が縮まるにつれ、はっきりと言葉として女の耳に届き。
『……く、るしい……。助け、て。……くる、しい。……──くるしい、苦しい、苦しい……!!』
──ぐわっと、突如として出現した人の手が女に向かって突き出された。
どんなに目を凝らして見ても奥に人の身体はなく、あるのは闇の中仄白く浮かぶ腕のみ。
「……」
自身の顔面すれすれにあるそれを、寄り目になりつつもじっと見つめた女は──、はぁっ、と盛大に溜息を吐いた。
『……何、その溜息。もうちょっと驚いてくれても良いんじゃないの』
憮然とした声と共に、腕より奥が形を成した。
現れたのは、明るい茶髪のまだ若い男。
拗ねた様子のその男は、呆れたように自分を見る女を恨めしそうに見遣る。
「……毎日毎日やっておいて、無茶言わないでよ。全く……」
『だって、麻美がいない日中、俺、暇なんだもん。それに一応幽霊だし、それっぽい事は一日に一回はやっておきたいというか』
「はいはい」
いなす様に相槌を打つ麻美は、仕事終わりで疲労を訴える身体を無視し、男に手を伸ばした。
「ほら、帰ろうよ。迎えに来てくれたんでしょ?」
『……俺、優しい?』
「優しい、優しい」
『心、籠ってねーな』
男はむすっとしつつも伸ばされた手に、自分の手を重ねる。
瞬間、ひんやりとした温度だけが、麻美に伝わった。
並び歩き出した二人。
──街灯の明かりが照らし作り出したのは、麻美の影だけだった。
『麻美ってさ、俺に「成仏しろ」って言わねーよな』
「成仏出来ないから、ここにいるんでしょう?」
『まーね』
「出来ない事を「しろ」何て言いやしないわよ。それにあんたなら、他の人に迷惑を掛けない限りはここにいて良いと思ってるし」
言葉を続ける麻美の澄んだ瞳が男を射抜いた。
「譬え成仏出来なくったって、私が死ぬ時に、無理やりだろうが何だろうが一緒に連れて行ってあげるから。──安心してなさい」
『……うん。よろしく』
「はーい」
【どろん・完】